源平・屋島の戦い~弓流し
文治元年(寿永四年・1185年)2月19日は、源平合戦の屈指の名場面=扇の的で有名な『屋島の戦い』のあった日です。
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ご存じ、平安末期の源平の戦い・・・
治承四年(1180年)、驕る平家に一矢を報うべく立ち上がった以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が散った(5月26日参照>>)後、その令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)(4月9日参照>>)を受け取った伊豆(いず)の源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)や、北陸の木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らが相次いで挙兵する中、都を福原に遷都(せんと)(11月16日参照>>)したり、南都(なんと=奈良)焼き討ち(12月28日参照>>)を決行したりと、未だ堅固であった平家一門でしたが、翌・養和元年(1181年)2月に、大黒柱であった平清盛(たいらのきよもり)が熱病に侵されて死亡する(2月4日参照>>)と一気に陰りが見え始め、寿永二年(1183年)5月の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(5月11日参照>>)etcに勝利して勢いづいた木曽義仲が京へと迫った事から、平家一門は都を後にし西国へと逃れます(7月25日参照>>)。
しかし、ここで、義仲と頼朝が源氏トップの座を争った事で(1月16日参照>>)、平家の相手は、そのトップ争奪戦に勝利(1月21日参照>>)した頼朝の弟=源義経(みなもとのよしつね=義朝の9男)に移行・・・寿永三年(1184年)2月には、鵯越(ひよどりごえ)の逆落し>>や青葉の笛>>で有名な一の谷の戦い(2013年2月7日参照>>)に敗れ、さらに西へと移動する平家一門・・・
とまぁ、久々の源平合戦のお話なので、ここまでの経緯をサラッとおさらいしてみましたが、さらにくわしくは、【源平争乱の年表】>>で、個々にご覧いただくとして・・・
その一の谷から約1年・・・この間、四国の屋島(やしま=香川県高松市)に落ち着いた平家は、関門海峡の交通を抑えて瀬戸内海の制海権を握りつつ、播磨(はりま=兵庫県)や安芸(あき=広島県)などで度々勃発した源氏との交戦では、水軍の機動力を生かした海からの攻撃で、海岸線に展開する源氏軍をかく乱し、むしろ押せ押せムード・・・
対抗策を練る頼朝は、先に平家の退路を断つべく、弟の源範頼(みなもとののりより=義朝の6男)を九州へ派遣しますが、思うような成果が挙げられないばかりか兵糧にも事欠き、やむなく頼朝は、一旦平家追討から離れて京の都で治安維持に当たっていた義経を、再び呼び戻して出陣させたのです。
文治元年(寿永四年・1185年)2月17日未明、荒れ狂う海の中、ムリクリで渡海した義経が(2月16日参照>>)、東岸の勝浦に上陸した後、屋島の対岸に当たる牟礼(むれ)や高松の民家に火を放ちつつ屋島を目指した事を受けて、平家の指揮をとる平宗盛(清盛の三男)は、早速、安徳天皇の御座所を船に遷し、建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)・二位の尼(清盛の奥さん=時子)をはじめ、宗盛親子自身も乗り込み、早々に漕ぎ出して沖に停泊・・・そこに到着する源氏軍との間で行われたのが、文治元年(寿永四年・1185年)2月19日の屋島の戦い・・・
という事になるのですが、
この時の戦いで命を落とす事になる義経の側近=佐藤嗣信(さとうつぐのぶ)のお話については2008年2月19日のページ>>で、
戦い終わって日が暮れて行われた、有名な扇の的(まと)については2007年2月19日のページ>>で・・・
そう、実は、この屋島の戦い・・・最初の戦いの後、夕暮れとなって扇の的なるイベントがあって終わるはずだったのが、上記のページで書いた通り、そのイベントに感動した平家のオッチャンまで射殺してしまった事から、再び戦闘が始まってしまうんです。
てな事で、今回は、その扇の的の続きとなるお話で、やはり有名な『弓流し』のお話を『平家物語』に沿ってご紹介させていただきます。
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源氏の代表として出て来た那須与一(なすのよいち=宗高)が、見事1溌で扇を射止めた事を受けて、その光景のすばらしさに感動した50歳くらいの平家の者が、そのそばで踊り出したのを見て、義経は「アレも射よ」と命令・・・
義経の命により、男も射られると、源氏側からはどよめきの声が挙がったものの、平家側はシ~ンと静まり返ります。
一瞬の静寂の後、
「何するんじゃ!ボケ!」
とばかりに、楯を持って一人、弓を持って一人、長刀(なぎなた)を持って一人・・・と3人の平家の武士が船を下りて海岸に向かって駆け出し、
「オラ!かかって来いや!」
と、陸にいる源氏の兵を招きます。
「クソッ!誰か、乗馬のうまいヤツ、アイツら蹴散らして来いや!」
と義経が言うと、美尾屋十郎(みおのやじゅうろう)らが数騎連れだって突撃を開始します。
しかし、そこに向けて平家側が次々と矢を射かけたので、馬が屏風を倒すように崩れていったため、十郎ら乗り手は、すかさず馬から下りて太刀を構えますが、平家の武士もすかさず大太刀にて襲いかかりました。
この平家の大太刀に対して、自らの小太刀では対抗できないと考えた十郎が、屈み伏せながら逃げようとするところを、この平家の武士は追いかけますが、彼は、長刀で襲うのではなく、素手で十郎の甲(かぶと)の錣(しころ=首を保護するために甲の後ろ側に垂れている部分)を掴もうとします。
掴まれまいと逃げる十郎・・・追う平家の武将・・・
3度掴みかけて失敗するも、4度目に見事、ムンズと掴んで、そのまま引っ張る・・・すると、しばらくの停止の後、なんと、甲の錣部分が引きちぎれ、十郎は、そのまま、そばにいた馬の影に隠れて息をひそめます。
すると、その平家の武将は、それ以上深追いはせず、片手で長刀を杖のように立て、片手で引きちぎった錣を天高くかざしながら
「近頃は音にも聞きつらん!今は目にも見たまえ!
我こそは、都の童(わらべ)も悪の七兵衛と呼ぶ、上総(かずさ)の景清よ!」
と名乗りを挙げたのです。
そう、この時、先頭を切って源氏軍に挑んだこの武士が、平家の生き残りとして、この後、37回もの頼朝暗殺計画を決行する平景清(たいらのかげきよ=藤原景清)(3月7日参照>>)なのです。
この堂々たる名乗りに士気挙がる平家・・・
「悪七兵衛を討たせるな!行け~~!」
とばかりに、200名余りが一気に海岸に向かって突撃し、陸地の源氏軍に迫り、
「オラオラ!来いや!」
と招きます。
「ちょ、待てよ!ヤバイやん」
とばかりに義経が、すかさず80騎ほどの馬で以って態勢を整えると、もともと船から下りて海岸へ向かって突撃している形の平家は馬ではなく生身の人間・・・このままぶつかっても、はじきとばされるだけですから、仕方なく、平家の兵士たちはそそくさと船へ戻るのですが、そこを好機と見た源氏の兵士たちは、馬のお腹が浸かるほどの沖まで入り込んで、敵の船べり間近まで攻め入ります。
と、この勢いのまま、義経自身も、あまりに平家の船に近づいてしまったため、平家の船から差し出された熊手で、甲を2度3度ドツかれ、それを太刀で以って払いのけているうちに、いつの間にか、かけていた弓を海へ落としてしまいます。
慌ててうつ伏せになって、持っていた鞭(むち)で引き寄せて取ろうとしますが、かき寄せてもかき寄せても弓は遠くに行くばかり・・・
「そんなん、捨てときなはれ!」
と周りの兵が言うのも聞かず、必死のパッチで弓をたぐり寄せる義経・・・
やっとの事で、弓をとらえて、ホッと一息・・・ニッコリ笑う義経に
「何をしてはりますねん。
なんぼ高い弓やとしても、命より大切っちゅー事はおまへんやろ。
無茶しなはんなや」
と、怪訝な様子の兵士に対して、義経は、
「いやいや…確かに弓が惜しいだけやったら、そう思うやろけど、ちゃうねん。
この弓が、為朝(ためとも=【源為朝・琉球王伝説】参照>>)のオッチャンのんみたいな大きくてかっこええ弓やったら、わざと落としてでも敵に見せつけたるんやけど、コレ、ちょっと貧弱やんか~
せやから、これ見て『これが源氏の大将の九郎義経の弓やてwww』ってバカにされんのちゃうかと思て、命に代えても敵に渡すか!って思て取り返してん」
と・・・
これを聞いて、人々は納得・・・
さすが大将!カッコイイ~o(*^▽^*)o
となったのだとか・・・(コレ、かっこええんかな?←個人の感想です)
そうこうしているうちの日もドップリ暮れ、源氏軍は牟礼と高松の間にある野山で陣を取り、兵を休息させます。
なんせ、あの嵐の中を船出してから、ほぼ休憩無しの進軍で、もはやヘトヘト・・・皆、泥のように眠りました。
ただ、義経と伊勢義盛(いせのよしもり)だけは、
「もしかして敵の襲撃があるかも…」
と警戒して、眠らずに見張りを続けていました。
一方の平家は海に船を停泊させての休息・・・
そんな中、勇将で知られる平教経(のりつね=清盛の甥)が500騎を率いて夜討ちをかけるべく準備をしていたものの、味方同士で先陣を争ってる間に絶好の機会を逃してしまい、そのまま夜が明けてしまいました。
疲れ果てていた源氏を襲うチャンスを逃してしまった平家は、2日後の21日、屋島を奪還すべく志度寺(しどじ=香川県さぬき市)に籠りますが、義経の追撃に逢ったばかりか、田口教能(たぐちののりよし)や河野道信(こうのみちのぶ)らが源氏に加わった事で、結局、屋島奪還を諦め、さらに西へと向かい、やがては壇ノ浦へ・・・という事になるのです。
壇ノ浦の戦いについては・・・
●【潮の流れと戦況の流れ】>>
●【壇ノ浦・先帝の身投げ】>>
●【平家の勇将・平教経の最期】>>
●【安徳天皇・生存説】>>
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コメント
大河ドラマ「義経」で今井翼くんが那須与一を演じたのがもう12年も前なんですね。
次にテレビドラマか映画で「扇の的」をするのはだれか?
以前にも触れたかもしれませんが、林与一さんは那須与一にあやかって、下の芸名を「与一」にしたとか。
投稿: えびすこ | 2017年2月19日 (日) 16時40分
えびすこさん、こんにちは~
タッキーの「義経」は良かったですね。
なんか、あの頃の大河ドラマは、たくさん役者さんが出ていたような気がします。
投稿: 茶々 | 2017年2月19日 (日) 16時59分
源平合戦図屏風・屋島合戦、なぜか埼玉県立歴史と民族の博物館蔵なんですね。当県の屏風絵を使って頂きありがとうございます。毎日のラン二ングで博物館館まえを通っています。今度、展示があれば見なければ。
投稿: ishizm | 2017年2月19日 (日) 17時49分
ishizm1さん、こんにちは~
屏風絵などは、やはり実物を見るとワクワクしますね~
投稿: 茶々 | 2017年2月20日 (月) 09時37分