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2017年2月 5日 (日)

若き徳川家康の初陣~三河寺部城の戦い

 

永禄元年(1558年)2月5日、松平元康=後の徳川家康が、今川義元の命を受けて、三河寺部城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

ご存じ徳川家康(とくがわいえやす)・・・
(ややこしいので、この文中ではずっと家康の名で呼ばせていただきます)

Tokugawaieyasu600 この家康が生まれた頃は、父=松平広忠(まつだいらひろただ)=率いる松平家も、敵対する尾張(愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)駿河(静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)の間で、未だ今川の援護なくしては生き残れないような状態でした(くわしくは3月6日参照>>)

そのため、広忠の嫡男として生まれた家康(幼名は竹千代)は、その同盟の証として、天文十六年(1547年)にわずか6歳で今川への人質として差し出される事になるのですが、なんと、その途中で織田方に奪われ、その身はしばらく織田の人質として暮らす事に・・・(8月2日参照>>)

もちろん、これは息子の命を餌に広忠にコチラ側について貰おうという織田信秀の作戦なわけですが、それでも心揺るがぬ広忠は、ガンとして今川傘下を離れることは無かった・・・

しかし、そんな広忠が、そのわずか2年後に家臣の裏切りによって殺害されてしまった事から、松平家内は揺れます。

なんせ、その後継ぎが織田に人質になってる状況で当主を失ったわけですから・・・その時、松平一族の中には、すでに織田傘下となっている者もチラホラ・・・
「そんなら、このまま俺らも織田に…」
との空気が流れる
中、それをヨシとしなかったのが今川義元のブレーン=今川家軍師の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)でした。

「今後、今川家が領地拡大を計るおり、松平のい存在は重要」
と考えた雪斎は自ら兵を率いて信秀の息子・織田信広が守る安祥城へと攻め込むみ(11月6日参照>>)信広を生け捕りにして、家康との人質交換を交渉・・・天文十八年(1549年)11月、見事、人質交換が成立し、8歳になっていた家康は駿府(すんぷ=静岡市葵区)へと移ったのでした。

そう、松平家の本拠地である岡崎(愛知県岡崎市)ではなく、今川家の本拠地である駿府・・・まぁ、織田から今川に移っただけで、人質生活は変わらないので・・・

とは言え、ここでちょっと付け加えておきたいのは、この人質の意味について・・・

現代の私たちが思い描く人質という言葉のイメージは、いわゆる誘拐事件や監禁事件なんかの人質を想像し、ついつい、その置かれた状況は、自由を奪われ、常に命の危険に晒されている感じを思い浮かべてしまいますね。

実際、今年の大河ドラマ=「おんな城主 直虎」の中でも、主人公の子役ちゃんが、今川の人質になるのをかなり嫌がってました。
(本来は、もし人質を差し出すと決まったあの状況では、子供が嫌がろうが何をしようが、その約束は揺らぐ事はほぼほぼ無いですが、ドラマはエンタメなので…)

しかし、戦国時代の、いわゆる同盟や、その傘下に入るための証として送られる人質は、そんなに過酷な生活を強いられるわけではありません

もちろん、例外もあるしケースバイケースで決められない面もありますが、そもそもは、上記の通り同盟の証ですから、どちらかが裏切らない限りは、ある程度良い待遇で扱ってさしあげるのが武士としての心得だし、裏切ってもいないのに相手側で邪険な扱いされてたら、お互いの信頼関係も成り立たないでしょうしね。

北風と太陽の童話じゃないですが、逆に、その人質くんに超一流の師匠を提供して、キッチリ育てて差し上げたなら、そこに恩も感じるだろうし、ともに生活するうちに情も湧いて来るでしょうし、そうなると成長したあかつきには、心底今川家に尽くす武将となるかも知れないわけですから・・・実際、今川時代の家康の教育係は雪斎自身だったという説も存在します。

現に、同盟の証=人質のような意味で政略結婚しながらも、最期には、夫や嫁ぎ先の家に殉じる戦国の姫もいたわけですし(もちろん、家康のお母さんのように、同盟崩れたら離縁なんて例もありますが…)、昨年の大河の主役=真田幸村(さなだゆきむら=信繁)だって豊臣秀吉(とよとみひでよし)の馬廻りとして、ちゃんと扱われてしましたしね。

ただ、領主たるもの常に独立は夢見るでしょうし、あくまで自分の領地で生活してるわけでは無いので行動も制限させるでしょうから、どんだけ待遇が良かったとしても、結局は肩身が狭い=精神的苦痛があるかも知れませんし、それこそ当事者同士の様々がケースが存在する事でしょうが・・・

ともあれ、そんなこんなで多感な少年時代を今川家で過ごした家康・・・

天文二十四年(1555年)、駿府にて、義元自らが烏帽子親(えぼしおや=元服の際の親代わりで本当の親子に近い関係)となって元服した家康は、義元の一字を賜って松平元信(もとのぶ=後に元康と改名)と名乗ります。

それと同時に、、今川家の重臣=関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広)の娘で、今川義元の姪にあたる瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶る事になるのですが・・・

今年の大河ドラマでも、そして先日このブログ(1月12日参照>>)でもお話したように、この瀬名姫のお母さんが、大河の主人公である井伊直虎(いいなおとら)大叔母(祖父の妹)にあたる女性で、もともと、今川家と井伊家の同盟の証として駿府に送られ、いち時は義元の側室だったのを後に重臣の関口親永が正室として迎えて、生まれたのが瀬名姫だとされます。

で、関口の正室として迎えるにあたって、名目上、義元の妹(義妹)という事にしての輿入れであるので、瀬名姫は義元の姪って事になるわけですが・・・

この流れが、
現代の私たち
(視聴者)には理解しがたい?
あるいは、
物語の流れ上、今川家を悪にしておかないといけない?
などなどがあってなのか?

先日の大河ドラマでは、10歳前後の姫に向かって、世話係の侍女が
佐名さま(瀬名姫の母の名)ボロ雑巾のように捨てられたのでございます」
的な暴言をのたまう展開wwになったのでしょうが、

上記の人質のところでもお話しましたように、同盟の証として送られて来た姫を、そんな扱いしたらお互いの同盟関係が破たんしてしまいます。

もちろん、後の家康さんのように、気に入った女性を連れて来て側室にする武将は、当時もいたと思いますが、同じ側室でも、好きで側に置いている女性と、同盟の証として送られて来た女性を、いっしょくたにしてはいけません。
:ドラマは「今川憎し」で話が進んで行きますので、創作物語としてはアリですが…)

そもそも、以前書かせていただいたように、恋愛結婚は身分の低い者がする「はしたない行為」とされていたこの時代・・・まして武家のお姫様なら、格上の家との交渉相手として自らが向かうなら本望でしょう(4月22日参照>>)

また、現代人には理解しがたいですが、「貴人の側にいた女性を配下の臣に譲る」というのは昔からある事で、これは殿様が家臣を信頼している証であり、家臣にとっては、むしろ名誉な事(【平清盛の御落胤説】参照>>)・・・まして、義理の妹という名目なのですから、関口親永は義元の義弟とになるわけで、さらに親密度は増すわけで・・・

なんせ、同じ戦国には、自ら、家臣の押しかけ女房となって龍造寺家を守った慶誾尼(けいぎんに)さん(3月1日参照>>)なるツワモノもいるわけで、それが、血で血を洗う戦国の世に「自らの血脈で家を守る」という姫たちの誇り高き使命でもあるのです。

で、そんな関口親永の娘である瀬名姫を家康が・・・て事は、家康も義元と姻戚関係になるわけですし、もちろん、義父の関口家とも、果ては井伊家ともつながるわけで・・・これ、今川家にとってはかなりの大盤振る舞いだと思います。

今川義元が、いかに松平家を&家康を大事に思っていたか!・・・まぁ、もちろん、これも、家康は心の中で、「大きなお世話」「こんなんしていらん」と思っていたかも知れませんけど、本来は、未だ弱小の松平家にとっては、このうえなき喜ばしい事だと思います(大河ドラマではたぶん、今川家の横暴みたいに描かれるんでしょうけどww)

と、まぁ、今川家の下ではありますが、こうして、元服もした、妻も娶った・・・となると、武士として迎えるのは初陣(ういじん)です。

もともと、三河の領地を巡って松平との交戦を続けていたものの、この頃は、その三河に進出してきていた今川の傘下となっていた寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の城主=鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ=重辰)が、ここに来て織田へと通じたため、義元が家康に、この寺部城を命じたのが、この戦いの発端とされます。

この時、一旦、岡崎城へと戻った家康は、そこで合戦の準備を整え、自らの岡崎衆を率いて出陣・・・これまで、当主の家康がいないまま、今川軍の先鋒として、数々の合戦に駆り出されていた岡崎衆の皆々は、
「ようやく殿のもとで働ける!」
と、大いに喜んだといいます。

しかも、家康は
「寺部を落とした後に、周辺の諸城から後詰めを喰らえば、コチラのピンチとなる事は明白・・・まずは周辺を落としてしまおう」
と、家臣の進言も聞かずに、鈴木に同調する周辺の広瀬城(ひろせじょう)拳母城(こもろじょう=七州城)梅坪城(うめうぼじょう)伊保城(いぼじょう)など(いずれも愛知県豊田市周辺)への攻撃を早々に開始し、その後に寺部城へと向かいますが、これがなかなかの猛将ぶりだったようで、初めて主君の雄姿を見た松平家の老臣たちは皆、
清康(家康の祖父)の再来だ~~」
とばかりに、涙また涙の状態だったのだとか・・・

かくして永禄元年(1558年)2月5日、寺部城を囲んだ家康軍は、寺部城の外曲輪を押し破った後、本来の目的である寺部城を見事に落とし、17歳の若き主君=家康の初陣を飾ったのでした。

この大活躍を大いに喜んだ義元は、自身の太刀を家康に与えたほか、旧領のうち300貫文の地を返還したのです。

「痛みに耐えて、よく頑張った!感動した!」

この後、家康が事実上独立する事になる、あの桶狭間の戦い(5月12日参照>>)まで、わずか2年・・・

この先の歴史を知っている者の個人的な思いではありますが・・・
大喜びでの大盤振る舞いっぷりの義元さんが、人がイイと言うか・・・少々お気の毒な気が・・・
これでも、今年の大河ドラマでは悪く描かれるのかなぁ~(ρ_;)ちょっとウルウル・・・
 .

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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

ちょうど今日から人質時代の頃からの家康も登場です。10代~40歳くらいまでの家康を扱うのは久しぶりですね。最近の大河ドラマではおおむね40歳以降(=大名として独り立ちした)の家康しか見ていないから。

さて、信長役の俳優も気になるところですが、私は5人の候補をリストアップしていると以前書いてますが、5人のうち2人は20代の俳優で、皆さんもよくご存知の人です。候補にしている5人は演者が決まったら発表します。

ところで今作では1540年代の頃から月代をしている成人男性がいますね。あの時期で既に月代の人もいたのかと思いました。
8年前の天地人の頃に「主人公らが20歳を過ぎても月代ではないのはおかしい」との指摘がありました。これに関して私は放送当時は気候的な理由で総髪にしていて、「概念的・文化的に畿内・東海に比べて髪型が遅れている」と言うことではない(真田丸の時に信繁が終生総髪で通したのは変だ、という指摘がほとんどなかったはず)と思いました。いま改めて気候的な理由でもあると思います。

ちょうど風林火山以降の甲信越出身の男性が主人公の作品だと、僧体になった人や住まい・領地を変えた人を除くとほぼ終生総髪(一部例外の人もあり)ですね。甲信越は山沿いの所は冬場が寒いのが総髪の理由でしょう。織田信長は作品によって月代あり・終生総髪と分れます。さて、次の戦国時代の男性が主人公の作品ではどうなるか?

ただ、これが理由だと軍師官兵衛の時に主人公が若い頃からの家臣3人が最後まで月代ではない理由と一致しない…。

投稿: えびすこ | 2017年2月 5日 (日) 09時40分

追記

今年の大河ドラマ・おんな城主直虎を野球コミック・タッチの様だと(1月の段階で)言っていた人がいますが、私は別のコミックの様だと感じます。HPの主人公周辺の人物構図・人物の立ち位置を見た時に、「あのコミックと似ている」と感じました。折を見て私が「テイストが似ている」と感じたコミックを教えます。
今日からが事実上の番組本編スタートです。

投稿: えびすこ | 2017年2月 5日 (日) 10時07分

ドラマなどでの、
今川義元の評価の低さは、泣けます(ノω・、)

でも、息子さんが旗本として残ったってのも、
きっと人柄なのでしょうね。

投稿: tobiguruma | 2017年2月 6日 (月) 01時40分

えびすこさん、こんにちは~

以前のページにも書かせていただきましたが、私は「韓流時代劇」のような感じだと思いました。

配役は、なかなか、視聴者の思い通りにはいきませんね~ドラマもエンターテインメントビジネスなので、各芸能事務所との関係なんかもあるでしょうしね…(^-^;

投稿: 茶々 | 2017年2月 6日 (月) 08時01分

tobigurumaさん、こんにちは~

>ドラマなどでの、今川義元の評価の低さは…

ホントですね~
スゴイ人なんですよ!海道一ですよ!

おっしゃる通り、根絶やしにされず生き残るのも、人柄&家柄含めスゴイからだと思うんです。

投稿: 茶々 | 2017年2月 6日 (月) 08時05分

家康は心の中で、「大きなお世話」「こんなんしていらん」と思っていたというのに凄くうなづきました。

つまりわざわざ困難な松平家を維持するより、主家を一旦解散させた方が合理的と思ってたんじゃないでしょうか

若い頃の積極的なのか消極的なのかよくわからない面がそれを表していると思います

投稿: ほよよんほよよん | 2017年2月 6日 (月) 12時54分

ほよよんほよよんさん、こんにちは~

確かに…なるようになりながら、チャンスをうかがってたような感じもしますね。

投稿: 茶々 | 2017年2月 7日 (火) 08時52分

茶々さん、こんにちは。
竹千代6歳が織田家に連れて行かれるのは本当の拉致・誘拐事件であり、おまけに父親に見捨てられるというわけで、
命の危機や絶望感は今川家の人質になるよりもずっと上のような気がしますが、
そんな織田家に何十年も強固な同盟を結び、小牧・長久手の戦いでも信雄の救援に応えるのは、これも現代人には不可解なことですね。
しかも、織田家に売っぱらった戸田家の子孫は徳川家に仕えちゃってますし。
孕石元泰さんには復讐したのに……。


一向宗に寝返った家臣達を許したときのように、御家を守る為に私情を抑えたのか、
一部では創作だ!といわれてる家康と信長は本当に幼馴染関係で、個人的にウマが合ったんでしょうかね。

投稿: 禿げ鼠 | 2017年2月13日 (月) 13時56分

禿げ鼠さん、こんにちは~

そうですね~
おっしゃる通り、存続のために私情を抑えたのか?
はたまた別の理由があるのか?
家康も、あれだけ、豊臣の影は消したかったのに、織田にはそうでもないし…
ホント、不思議ですね。

実は、織田に行ったのは拉致ではなく、ウラで話がついていたとか???
けど、今川にバレそうになるし、結局奪い返されたのでそーゆー事にしちゃったとか?
想像はふくらみます。

投稿: 茶々 | 2017年2月14日 (火) 10時54分

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