畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い
大永七年(1527年)2月13日、丹波の柳本賢治らが三好勝長らと連合し、桂川原で細川高国を破る桂川原の戦いがありました。
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応仁の乱(5月20日参照>>)の東軍の大将として有名な細川勝元(ほそかわかつもと)の息子=細川政元(まさもと)は、室町幕府管領(かんれい)という立場にありながら、現将軍を廃して自らの思い通りになる将軍を擁立するという「明応の政変」なるクーデター(4月22日参照>>)をやってのけ、戦国の幕を開けた男とも称されますが、実子がいなかった事から、その死後に、3人の養子の間で後継者争いが勃発します(6月20日参照>>)。
関白九条政基(まさもと)の子供=細川澄之(すみゆき)、
阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)、
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の細川高国(たかくに)、
まずは永正八年(1511年)、タッグを組んだ澄元&高国に澄之が追い落とされます(8月1日参照>>)が、その後、周防(すおう=山口県)の戦国大名=大内義興(よしおき)を味方につけた高国が、澄元に味方する三好之長(みよしゆきなが)を追い落とし(5月5日参照>>)、阿波へ逃れた澄元は病死・・・勝利した高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立したのです。
こうして末永く続くかに見えた高国政権でしたが、そのわずか5年後、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちしてしまった事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)の波多野元清(はたのもときよ=稙通)と神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)の柳本賢治(やなぎもとかたはる)が反旗をひるがえしたのです。
これが大永六年(1526年)10月の神尾山城の戦い(10月23日参照>>)・・・
この時、八上城と神尾山城にて籠城する両者を一気に潰そうと考えて、配下の者総動員で兵を挙げた高国でしたが、波多野&柳本の激しい抵抗に逢い、手痛い敗北を喰らってしまいます。
これを見逃さなかったのが・・・いや、むしろ反旗をひるがえした彼らと連絡をとってチャンスをうかがっていたのが、阿波に追われて病死した澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、ともに機会を待っていた之長の息子=三好元長(みよし もとなが=長慶の父)+三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らでした。
神尾山城の戦いに敗れ、京都へ逃げ帰った高国勢を追うがの如く、京都方面へとやって来た波多野&柳本勢は、明けて大永七年(1527年)2月11日、京都山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に着陣して、ここで、阿波から到着した晴元勢と合流・・・
その間に、高国傘下の薬師寺国長(やくしじくになが=九郎左衛門尉)らが守る山崎城(やまざきじょう=天王山城・宝寺城とも)を落として占領し、ここを最前線として、高国配下の
芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)、
太田城(おおだじょう=大阪府茨木市)、
茨木城(いばらきじょう=同茨木市)、
安威城(あいじょう=同茨木市)、
福井城(ふくいじょう=同茨木市)、
三宅城(みやけじょう・みあけじょう=同茨木市)の諸城を攻略して行きました。
一方の高国は、室町幕府の縁をフル活用して、
若狭(わかさ=福井県南部)の守護=武田元光(たけだもとみつ)
をはじめ、
近江(おうみ=滋賀県)守護の六角定頼(ろっかくさだより)、
播磨(はりま=兵庫県南西部)・備前(びぜん=岡山県東南部)・美作(みまさか=岡山県東北部)の守護=赤松晴政(あかまつはるまさ)、
尾張(おわり=愛知県西部)の守護=斯波義統(しばよしむね)
など、幕府の有力者に援軍を要請しますが、すぐに行動を起こしてくれたのは若狭の武田くらいだったとか・・・
やがて、2月12日には、阿波から堺(さかい=大阪府堺市)に上陸した三好勢も晴元&波多野&柳本勢に合流して、桂川の西岸に到着・・・同日、一方の高国勢も桂川に布陣し、その夜には、川を挟んで対峙した両者が矢を射かけ合って、互いをけん制しました。
かくして大永七年(1527年)2月13日、戦国序盤の天下分け目・・・世に桂川原(かつらかわら)の戦いと称される大合戦が開始されたのです。
この時、桂川の東岸の鳥羽(とば=京都市南区)から鷺の森辺付近まで不気味なほど一直線に主力部隊を布陣させた高国は、本陣となる将軍=義晴の陣を後方の六条に置き、その手前に高国自身の本陣を、武田の軍勢を西七条へと布陣させ、桂川の西岸からやって来る波多野&柳本勢を迎え撃つ作戦でした。
ところが、イザ!開戦となって川を渡って来た波多野&柳本勢は、主力部隊との交戦もそこそこに、一翼を率いる三好勢が、いきなり後詰めの武田勢へと攻めかかったのです。
不意をつかれて乱れる大軍・・・もちろん、集中砲火となっている武田勢はまたたく間に敗戦となり、いきなり80余名が戦死します。
武田の窮地を聞いた高国は、自ら兵を率いて救援に向かいますが、もはや敵方の勢いは止まらず・・・防戦一方の中、精鋭部隊を10余名失ったあげく、雑兵も2~300人が討ち取られてしまったため、やむなく兵を退きあげました。
こうして、波多野&柳本勢側にも多くの戦死者を出す激戦となった桂川原の戦いでしたが、結果は波多野&柳本勢の勝利・・・
大敗した高国は2月14日、将軍=義晴を奉じて、北白川(きたしらかわ=京都市東山区)から間道を抜けて近江は坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと逃れて行ったのです。
その後の京都は、柳本賢治が山崎城にて支配する事となりますが、一方では晴元&三好一派が、義晴の弟=足利義維(よしつな)を擁して堺に居を構え、堺公方(さかいくぼう)として政権を樹立します。
この時の高国の都落ちには、配下の武将はもちろん、上記の通り、現将軍=義晴が同行したほか、一部の公家も下った事から、なんだかんだで政権は握ったままの格好・・・
一方、実質的に京の都を掌握しているのは山崎城の柳本賢治・・・
そして堺に堺公方・・・
と、畿内に三勢力がひしめき合うオカシナ雰囲気に・・・当然の事ながら、もともと一枚岩ではない彼らは、この後、周辺の諸将を巻き込みつつ(まずは、3年後に起こる【箕浦合戦】参照>>)、様々な紆余曲折を迎える事になりますが、そのお話は、また、それぞれの出来事の日付けでお話させていただく事にしたいと思います。
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