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2017年3月30日 (木)

上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い

 

永禄三年(1560年)3月30日、椎名康胤の要請を受けた上杉謙信が神保長職の越中増山城へ攻め入りました。

・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに始まった、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)による信濃(しなの=長野県)北東方面の争奪戦=川中島の戦い(9月10日参照>>)・・・
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

この時、謙信が信玄に目を向けている状況をビッグチャンスと睨んだ神保長職(じんぼうながもと)射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力拡大を図ります。

以前から、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に拠を構える椎名康胤(しいなやすたね)と神保長職との間で越中(えっちゅう=富山県)主導権争いが激しかったこの地域ではありますが、

ちょうど、この時期、越中の本願寺門徒を抱え込んで一向一揆による謙信へのけん制を考えていた信玄が介入し、敵の敵は味方とばかりに、信玄が神保長職を支援・・・後ろ盾を得た長職は、永禄三年(1560年)、謙信に味方する椎名康胤の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)を攻めたのです。

Uesugikensin500 間もなく、椎名康胤より「松倉城ピンチ!」の知らせを受けとった謙信・・・前年に関東管領並となったばかり(6月26日参照>>)の謙信にとっては、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏の動きが気になりつつも、電光石火のハヤワザで越中へと兵を向けました。

というのも、つい先日書かせていただいたように、後に、あの織田信長(おだのぶなが)との越中の争奪戦(3月17日参照>>)に挑む事になる謙信ではありますが、実は、謙信の祖父=が長尾能景(ながおよしかげ)が戦死したのが般若野(はんにゃの=富山県砺波市)で行われた一向一揆鎮圧の戦い(9月19日参照>>)であり、この越中は、父の長尾為景(ながおためかげ)も、その争奪戦に幾度も出兵し、大いに悩まされていた因縁の地でありました。

こうして、救援要請からわずかの永禄三年(1560年)3月30日見事なスピードで越中入りした上杉軍・・・慌てる神保軍をなんなく蹴散らすと、長職は居城の増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)へと逃げ込みますが、今度は、その増山城を囲んで、猛攻撃を仕掛ける上杉軍・・・

「もはやこれまで!」
とばかりに、長職は城を捨てて五箇山(ごかやま=富山県南砺市)へと逃走しました。

この時、主君の逃走を援護すべく奮戦したのが、隠尾城(かくりょうじょう=富山県砺波市庄川町)を任されていた神保の家臣=南部源左衛門尚吉でした。

増山城を落とした勢いのまま隠尾城の攻めに入った上杉軍・・・坂道を登りくる敵軍を天然の要害を駆使して果敢に防戦する尚吉でしたが、さすがに上杉の大軍を相手にしては歯が立たず・・・

やむなく、側近に息子の源右衛門を託して山中に逃がした後、自らの城に火を放ち、上杉軍の真っただ中へと躍り出て、壮絶な戦死を遂げました。

一説には、なんとか逃れた息子主従は、この地の戦乱が治まった後にひっそりと戻り、隠れ住んむようにして代々農業に従事したと言われています。
(そのために隠尾の地名になったという説も…)

Ettyuusoudatusenn位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

ただ、戦国のならいとは言え、当の長職は、この後は上杉につき、逆に椎名康胤が上杉に反発して武田につき・・・てな感じで、なかなか越中争奪戦が止む事はなかったワケですが・・・(4月13日参照>>)
(ドラマ等ではここは描かない方がよさげ(^-^;)

ところで、
なぜか、関係史料が隠ぺいされた可能性があるとの話があるこの隠尾城の戦い・・・城のあった場所が秘境である事や、その史料の少なさから、現在の隠尾城跡付近では、もはや当時の面影を見る事は困難なようですが、近年になって、放牧場として開墾された際に、その土の下から数多くの塚が見つかったのだとか・・・

また、城跡の主閣部分に積まれて残る石は、「城主の無念を弔うが如く、すすり泣くような音を奏でる」と言われ、隠尾の集落の人々から「泣石(なきいし=啼石)と呼ばれていたのだとか・・・

平成の世となった今は、その隠尾の集落も廃村となって、もはや、住民の方の家も1軒のみとなっているとの事・・

このまま行けば、隠尾城の事も、いずれは歴史の彼方に消え去ってしまう運命にあるのかも知れませんが、
おそらくは、
悲しみに耐えきれぬ村人たちが戦死した皆々を弔ったであろう複数の塚、
長きに渡って伝えられた亡き主君を思う石の伝説
・・・

これらの事を見る限り、隠尾城主であった南部尚吉という武将は、庶民から親しまれ、かつ尊敬される名君であった事でしょう。

戦国武将としては1・2を争う知名度の上杉謙信。
義に篤くてカッコイイ上杉謙信。。。

しかし、そんな謙信と戦って戦場に散った武将の中にも、義に篤く、庶民から尊敬されたであろう戦国武将がいた事も心に留めておきたいですね。
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2017年3月24日 (金)

源平争乱・壇ノ浦の戦い~平知盛の最期

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、ご存じ源平争乱のクライマックス壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺しました。

・・・・・・・・・・・・

養和元年(1181年)2月の、大黒柱の平清盛(たいらのきよもり)(2月4日参照>>)の死後、相次いで挙兵した伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らの勢いに都を追われた(7月25日参照>>)平家は、

寿永三年(1184年)2月の一の谷の合戦い
生田の森の激戦>>
鵯越の逆落とし>>
忠度の最期>>
青葉の笛>>
に敗れて西へ・・・

その翌年の文治元年(寿永四年・1185年)2月の屋島の戦い
佐藤嗣信の最期>>
扇の的>>
弓流し>>
さらに、西へと逃れ、本州最後の下関(山口県)に近い彦島へと後退した平家・・・退いた平家を追う形で、その地に源義経(みなもとのよしつね=頼朝の弟)率いる源氏軍がやって来たのは、屋島の戦いの1ヶ月後の3月21日に事でした。

「次は海戦になる!」
との予想から、河野水軍熊野水軍などの援軍を得て、800余艘の水軍となった源氏軍と、未だ500余艘を維持する平家軍は、いよいよ寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、約300mを隔てた壇ノ浦の海上に対峙したのです。

Tairanotomomori600a この壇ノ浦の戦いで、事実上の総指揮官だったのが「清盛最愛の息子」とも言われる平知盛(とももり)・・・
清盛の四男で、正室の時子(ときこ=二位尼)が産んだ第2子です。

彼が生まれたのは、あの保元の乱(7月11日参照>>)の4年前で、その3年後=つまり7~8歳頃に平治の乱(12月25日参照>>)ですから、その育った環境は、まさに平家全盛時代・・・

それを象徴するかのように、兄の宗盛とともにトントン拍子で出世していく彼を『平家物語』は、各合戦で指揮を取る「負け知らずの猛将」として描きますが、実際には、猛将というより智将で、未だ京都に腰を据えていた頃は、あまり細かな局地戦に赴く事なく、平家全体の軍事面における総帥のような役割ではなかったか?と考えられています。

それは清盛亡き後も・・・兄の宗盛が政治面を請け負い、知盛は、やはり軍事面を一手に引き受けていた事でしょう。

しかし、そんな智将=知盛が、一連の戦いの中で最も心を痛めたのは、先の一の谷の戦いでの事・・・

『平家物語』によれば・・・
生田の森の総大将として奮戦していた知盛でしたが、例の鵯越の逆落としで形勢逆転となった時、敵兵に組みつかれた知盛を助けようと、息子の知章(ともあきら)が間に入って奮戦するも、逆に敵に斬りつけられて討ち死・・・その混乱の中で知盛は、馬に乗ったまま海へと入り、なんとか味方の舟までたどりついて命拾いしたという事があったのです。

その時、自らは海から舟に乗り移ったものの、重い馬は乗せることができず、やむなく岸辺の方向に誘導していくのですが、その馬は、以前、後白河法皇(ごしらかわほうおう=77代天皇)から賜ったかなりの名馬で、知盛も大変気に入っていて、月一で安全祈願の祭事を行うほど可愛がっていた馬だったのです。

しかし、そのまま岸へと戻れば、おそらく、その名馬を敵の将が手に入れる事になるわけで・・・その事を心配した配下の者が、
「あれほどの名馬が敵の物のなるのは惜しい…射殺しましょうか?」
と聞いたところ、知盛は、
「誰の物になったってかめへん!俺の命を助けてくれた馬やぞ、殺せるわけないやろ!」
と言ったとか・・・

馬を相手にしてさえ心やさしき知盛・・・そんな彼が、混乱の中とは言え、自らの命と引き換えに息子を失ったわけで・・・
「息子が敵と組み合うのを見ていながら、助けられないで自分だけ逃げてしもた。
他の者が同じ事をしたら、きっと俺は非難するやろに…
人間、イザとなったら、自分の命が惜しいもんです。
ホンマ情けない!恥ずかしい!」

と号泣したと言います。

おそらくは、自分自身の情けなさとともに、敵への憎しみ&恨みも大いに抱いた事でしょうが、智将=知盛は、その後も、個人の恨みつらみを押しだす事なく、あくまで、平家の総帥として、一門の事を第一に考え、冷静に指揮を取るのです。

それは、あの一の谷の合戦で捕虜となった平重衡(しげひら=知盛の弟・清盛の五男)と、平家の手中にある安徳天皇(あんとくてんのう=第81代・後白河法皇の孫で清盛の孫)三種の神器(さんしゅのじんぎ=皇室の宝物【三種の神器のお話】参照>>交換しようと持ちかけてきた法皇&源氏側に対して、

『平家物語』の平家は、「アホか!」「できるか!」「けんもほろろに断ったばかりか、その拒否の固さを示すため、使者の頬に『受領』の焼印をして送り返した」となっていて、ドラマ等、一般的には、そのように描写される事が多いのですが、

実は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』での平家から返答は、
「コチラは、はなから安徳天皇と三種の神器をお反しするつもりで、法皇さまのおっしゃる、和平交渉のための停戦命令にも従っておりますが、我々が天皇と神器を携えて京の近くへ行こうとすると、それを阻むがのごとく合戦を仕掛けて来るのはソチラの方ではないですか?
もともと平家も源氏もお互いに恨みは無いのですが、コチラが無理に京都へ帰ろうとすると合戦になってしまいますので、和平をされるのでしたら、その旨を明確にお示し下さい」

てな内容だったとされます。

軍記物の『平家物語』と公式記録の『吾妻鏡』・・・もちろん、その『吾妻鏡』もすべてが正しい内容では無い事が指摘されていますので、鵜呑みにはできませんが、この記述を見る限りでは、私怨を捨てて一門のために事を治めようとする冷静な姿が垣間見えますね。

Dannouranotatakai1000a2
壇ノ浦の戦い(『安徳天皇縁起絵図』より…赤間神宮蔵)

とは言え、ご存じのように、この交渉は決裂(後日、重衡は処刑:3月10日参照>>)、源氏VS平家は最終決戦となる壇ノ浦へ・・・

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、白々と明けた瀬戸内の海上に約300mを隔てて対峙した両者の間で壇ノ浦の戦いの幕が切って落とされたのです。

前半は平家が有利な展開で押し進め、大将の義経ですら危うい場面があったものの、陸に強い源氏に予想以上の数の水軍が味方した事や、瀬戸内特有の潮の流れ、突飛な義経のルール無視・・・などなど(くわしくは壇ノ浦の戦い:2008年3月24日参照>>)様々な事が相まってか?やがて、平家が劣勢に転じたのです。

しばらくして、
「もはや、これまで・・・」と覚悟を決めた知盛が、自らの乗る小舟を、安徳天皇の舟に近づけて、
「これまでです。見苦しい物は全部海に捨ててください」
と言うと、それを聞いた女官たちが、あわてて舟の上を掃除しながら
「中納言殿(知盛の事)、戦況はどうなんですか?」と・・・

その返答に知盛は、
「もうすぐ、今まで見た事のない東国の男たちに会えますよ」
と言って、ケラケラと笑ったと言います。

これで
「あぁ、もう本当にダメなんだ」
と思った平家の人々は覚悟を決め、二位尼も安徳天皇を抱きかかえて海の底へと旅立ちました(先帝身投げ:2007年3月24日参照>>)

『平家物語』では、この「先帝の身投げ」のあと、猛将=平教経(のりつね=知盛の従兄弟)の最期(能登殿最期:2009年3月24日参照>>)が描かれ、その次に知盛の最期が登場します。

・‥…━━━☆

「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害せん」
自らの人生で、見たい物はすべて見たので自害しよう!と、覚悟を決めて、乳母子(めのとご=うばの子・乳兄弟)である平家長(たいらのいえなが=伊賀家長)を近くに呼び寄せて、
「イザという時はともに散るという約束は忘れてないか?」
とたずねると、家長は
「いまさら…言うまでも無い事です」
と、しっかりと答え、

飛び込んだ後に体が浮いて来ないように、家長は、主君=知盛に鎧を二領着せ、自らも二領の鎧を着込んで、ともにしっかりと手を組んで、二人同時に海に飛び込みました。
(一説には、同じく体が浮かないように「碇(いかり)を担いで入水したとも言われ、浄瑠璃や歌舞伎の『義経千本桜』碇知盛として有名です)

これを見て、その場にいた忠義の者ども20名余りが、その後を追って次々と海に飛び込んで行ったのです。

それは・・・
「赤旗 赤符(あかしるし)ども、切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田河の紅葉葉を、嵐の吹き散らしたるに異ならず
(みぎわ)に寄する白波は 薄紅(うすくれない)にぞなりにける」
海上に無残に切り捨てられた平家の赤旗や赤印がおびただしく漂い、まるで竜田川のモミジのようで、波打ち際に寄せる白波も薄紅色に染まって見えた・・・と。

そして・・・
「主(ぬし)もなき空しき舟どもは、潮に引かれ風に随(したが)ひて、いづちを指すともなく、ゆられ行くこそ悲しけれ」
あるじを失くしたカラの舟が、風に吹かれるまま波のまにまに揺られるさまは悲しすぎる~

・‥…━━━☆

こうして源平の合戦は、全行程を終了する事となります。

この時、同じく入水するも、敵兵に引き上げられて捕虜となった人の中には、平家の棟梁であった平宗盛(たいらのむねもり=清盛の三男・知盛の兄)(6月21日参照>>)、安徳天皇の母=建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ=平徳子・清盛の次女で知盛の妹)(12月13日参照>>)などがいます。

また、安徳天皇には生存説もあり(2010年3月24日参照>>)
生き残って何度も頼朝暗殺に挑む平景清(かげきよ)(3月7日参照>>)
清盛嫡流最後の人となった平六代(たいらのろくだい)(2月5日参照>>)
などなど、その後のお話もありますので、それらは
平清盛と平家物語の年表>>
源平争乱の年表>>
でどうぞm(_ _)m

にしても・・・
人の生き死にに関する記述に対して、こう言って良いかどうか悩むところではありますが・・・
平家物語』の言いまわしは、実に美しいですね~
「波間に散乱する赤旗が竜田川の紅葉のようだ」とか・・・

悲しくも美しい散り様ですね。
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2017年3月17日 (金)

信長の動きを受けて~いよいよ謙信が富山へ侵攻

 

天正四年(1576年)3月17日、織田信長と手を切った上杉謙信越中富山へと侵攻を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに度々衝突した有名な川中島の戦い(9月10日参照>>)でご存じのように、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)は、信濃(しなの=長野県)北東方面の国境線を巡って、長きにわたるライバル関係にありました。
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

Uesugikensin500 その関係は、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって後に息子の武田勝頼(かつより)が当主(4月16日参照>>)となった時代も続いていたわけですが、一方で、武田家は上杉領とは真逆の南西方向の国境線を巡っても、かの駿河(するが=静岡県東部)大物=今川義元(いまがわよしもと)を倒して(5月19日参照>>)出世の階段を2段飛ばしで駆け上がりまくりな尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)を擁する織田信長(おだのぶなが)睨み合っていたわけで・・・

Odanobunaga400a となると、敵の敵は味方とばかりに、この頃の謙信と信長はかなりの仲良し・・・それは、永禄十一年(1568年)に信長が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛を果たした(10月18日参照>>)後も変わらず、天正二年(1574年)には信長が謙信センパイに狩野永徳(かのうえいとく)の筆による『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)を贈ってベンチャ攻撃しまくってた話は有名ですね。

ただし、その屏風を受け取った謙信の方は、どうやら、この頃からすでにモヤモヤし始めていたようで・・・と言うのも、その前年の天正元年(1573年)、信長は北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月26日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)(8月20日参照>>)を倒していたわけで・・・確かに、ベンチャラしてくるわりには、シレッと越後に近づいて来ている感がしないでもない・・・

それでも、天正二年(1574年)の2月に勝頼が明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻撃(2月5日参照>>)した際には、険しい山中にて攻撃がままならない織田軍の後方支援として、謙信が上野沼田(ぬまた=群馬県沼田市)まで兵を出した・・・なんて事もあったようです。

とは言え・・・
その明智城陥落で勢いづいた勝頼が、信長と同盟関係にある徳川家康(とくがわいえやす)傘下の高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落とし(5月12日参照>>)、さらに翌・天正三年(1575年)5月に有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)武田VS織田の全面衝突となると、その一方で信長は、同時進行していた越前一向一揆も制し(8月12日参照>>)、さらに加賀(かが=石川県)に手を伸ばして来たわけで・・・

「コレ、ぜったい近づいて来とるやないかい( ゚皿゚)!!」

もともと、武田という共通の敵を持つが故の同盟・・・しかし、信玄という大きな存在に睨まれていた弱小なる後輩は、浅井朝倉を葬り去り、武田を衰退させ、越前も手に入れて、今や先輩=謙信に追い付き追い越せの勢いなのは明らか・・・

しかも、加賀&越中と言った北陸地方は、謙信にとって、結果的には手中に収めたい因縁の場所(3月30日参照>>)(4月13日参照>>)

そんなこんなの天正四年(1576年)、この2月にはあの安土城の築城(2月23日参照>>)に取りかかる信長・・・この安土という場所への築城は、見ようによっちゃぁ、謙信を上洛させないための通せんぼのようにも見えます。

その事を知ってか知らずか、天正四年(1576年)3月17日謙信は越中(えっちゅう=富山県)へと侵攻を開始したのです。

この富山という場所は、長きに渡って能登畠山(のとはたけやま)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)にて権勢を奮っていた傘下にありましたが、その畠山が長年の内輪もめや重臣同士の争いで次々と城主を失った事で、この頃は、今だ4~5歳の幼児であった畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)を当主に据えて、周りの重臣たちが実権を握っている状態でした。

Kensintoyamasinkoukankeizu 位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

その重臣の一人が、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)富山城(とやまじょう=富山県富山市丸の内)を擁する神保氏張(じんぼううじはる)
・・・

一説には畠山氏から養子に入ったとも言われるほど、畠山とはつながりのある人物でした。

もともと、この頃の富山城は、上杉配下にある魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を脅かす城でしたが、ここに来て信長からの要請を受けた氏張は、息子とともに織田につく事を表明・・・下瀬砦(しもぜとりで=富山市婦中町)を構築して謙信の進路を阻みます。

しかし、さすがは軍神=上杉謙信・・・なんなく神通川(じんつうがわ)を渡り、わずか3日の間に氏張配下の支城や砦を次々と落とし森寺城(もりでらじょう=富山県氷見市森寺・湯山城とも)へと向けて庄川(しょうがわ)左岸の守山城間近へと迫ります。

ただ・・・この時は、大雨による増水で、庄川が渡れず、やむなく守山城攻略を断念して兵を退きました。

やがて半年後の9月
2万の軍勢を引き連れて、再び富山へと侵攻した謙信・・・この時、富山城にいた神保父子は、その猛攻に耐えきれず、富山城を捨てて守山城へと移動し、ここで籠城します。

しかし、ここにいる城兵はわずか2000・・・氏張は城の防備を固めるべく、空堀に湖水を引き込もうとしますが、空いた富山城に配下の諸将を入城させて、そこを拠点に守山城への猛攻を開始した上杉軍のスピードの速さに、防御の準備が間に合わず、やむなく氏張は、堀の底に米を敷いて水に見せかけてゴマかします(米を敷く方が時間がかかる気がしないでもない(゚ー゚;)

ところが・・・
この時、城の上空を舞う鳥たちが、いち早く、この米の水に反応・・・何羽もの鳥が堀に向かって舞い降りた事から不審に思った上杉の兵が、地元住民を使って調べさせて真相を解明してしまったために、その後は怒涛のごとく、上杉軍が米の堀を渡って城内に侵入し、縄張りの各箇所に火を放って難攻不落とされた守山城を落したのだとか・・・

以後しばらくの間、氏張は謙信の傘下に組み込まれます。

守るも攻めるも「ホンマかいな(^-^;」的な攻防戦ではありますが、とにかく、ここで守山城を陥落させた謙信は、飛騨へも侵攻(8月4日参照>>)、その後も猿倉城(さるくらじょう=富山県富山市・栂尾城とも)増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)を落としつつ加賀へと侵攻・・・これまた敵の敵は味方とばかりに、長年敵対関係にあった石山本願寺と正式に和睦(5月18日参照>>)した後、翌・天正五年(1577年)の9月には七尾城を落とし、有名な九月十三夜の美酒に酔う(9月13日参照>>)事になります。

一方の信長は、一向一揆の本拠地=石山本願寺との全面戦争へと突入・・・
【天王寺合戦】>>
【第一次木津川口海戦】>>

今後の謙信との対決は、信長から北陸方面を任された柴田勝家(しばたかついえ)が担当する事になるのです。
【手取川の戦い】参照>>
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2017年3月 9日 (木)

アンケート企画「歴史人物・胸キュン!ワード選手権」~女性編・結果発表

お待たせしました!

本日は、最新アンケート=「歴史人物・胸キュン!ワード~こんなん言われたいゾ選手権(女性編)結果報告で~す

投票にご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

Syou120s 今回は、ちとマニアック過ぎましたかね?
あまりお馴染ではない方々の登場で、なかなか胸キュンとはいかなかったみたいです\(_"_ ) 反省

まぁ、それはそれとして…とにもかくにも結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
7票
式子内親王
読んでなかった私は、個人的には、この方の1位は意外でしたが、どうやらコミックでの印象が良く…選択肢の女性の中で、最もつつましやかな彼女が、堂々の1位を獲得
2位
6票
静御前
居並ぶ女性たちの中では断トツの知名度…やはり親しみがあるのでしょうね~堂々の2位!です。
3位
5票
額田王
万葉の歌姫としては安定の3位というところでしょうか
4位
3票
成尋の母
おそらく、今回の選択肢の中では1・2を争う無名の方ではありましたが、現代にも通じる子を思う母の気持ちにウルル(;ω;)
5位
2票
小野小町
建春門院新大納言局
四天王寺の尼僧
小町はちょいと下ネタでしたか(*ノv`)と反省しておりますデス。
8位
1票
鏡王女
大伯皇女
狭野茅上娘子
橘嘉智子
和泉式部

清少納言
残念ながら、1票ずつしか入りませんでした~(;ω;)
14位
0票
沙本毘売
仏御前

小宰相
(つд⊂)エーン…0票でした~ま、私のチョイスも悪かったのかも知れません。。。反省
その他 2票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

;;;:+*+:;;;:+*+:;;

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

静御前 年代が遠いのが多すぎてピンっと来なかったので比較的近いのを選びました。(男性/神奈川)
「やっぱり馴染が薄かったですかね\(_ _)ハンセイ
大伯皇女 大泊皇女が残した歌によって、この姉弟のことは永遠に語り継がれると思います。泣けます!!(女性/東京)
「奈良へ帰る弟を見送る歌もグッときますね~」
静御前 静御前大好きです?(40歳代/男性/神奈川)
「時代劇ではいつも美しい女優さんが演じられますね~やはり断トツのステキさです」
静御前 楽しく拝読させて頂いてます。今年も頑張ってください!(40歳代/男性/大分)
「ありがとうございますm(_ _)mそのお言葉が励みになります
成尋の母 狭野芽上娘子さんとどちらにしようか悩みました。ほんの…かすかに…母さまで。(女性/愛知)
「やはり、涙を誘いますね~
鏡王女 シンプルだけどこういうの好きです(40歳代/男性/東京)
「秘めたる思いが最も情熱的かも知れませんね
成尋の母 太陽に限りませんが、、、自分の大切な人が、同じときに同じものを見ている!と感じることは、個人的には幸せです(*´ー`*)(30歳代/女性/福岡)
「まだSNSが始まって間もない頃、『今夜はスーパームーンがきれい』とつぶやいたら、今は遠く離れた竹馬の友人の『私も見てる』との即座の返信にドキッとした事があります
その他 いとせめて恋しき時はぬばたまの夜の衣を返してぞきる(小野小町)(60歳代/男性/山口)
「おまじないはいつの世も、恋する女の子のブームですね」
その他 天智天皇の無名の婦人が歌った「うつせみし 神に堪へねば…(万葉集2巻150)」。挽歌ですが、ここまでストレートに言われたらビックリドキドキしそうな気がします。
「愛しき人が目の前からいなくなると、夢でいいから会いたいと思うものですね~切ない」
建春門院
新大納言局
維盛が好きなので…(10歳代/女性/東京)
維盛の都落ちは、平家物語の中でも、とびきりの名場面ですよね~」
額田王 私の中では、やっぱこれです!アンケートの3番目にのせて下さり有難うございます。(40歳代/女性/神奈川)
「情景が生き生きと伝わってきますよね~1300年前の女性の歌とは思えないくらいです
額田王 この歌私も好きです!あとセンテンススプリングがつぼだったので(笑)。(40歳代/女性/愛知)
「昨年はいろんな方々が野守にスッパ抜かれちゃいましたね
式子内親王 コミックで歌を知り、とても好きになりました(20歳代/女性/東京)
「コミックが人気のようですね~ヽ(´▽`)/」
静御前 その他で「しづやしづ~」を入力しようと思ったら、静御前ありましたね。(40歳代/男性/東京)
「私も『しづやしづ』と迷ったんですが、コチラの歌をチョイスしました~」
和泉式部 正集より。心地悪しき頃、「いかが」との給はせければ「絶えし頃 絶えねと思ひし 玉の緒の 君によりまた 惜しまるるかな」いとどしく物ぞ悲しき~の歌と迷いましたがこっちにしました(30歳代/女性/大阪)
「和泉式部は、そっちが良かったですかね?(*^-^)式子内親王も本歌取したかも…の歌ですしね」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧くださいm(_ _)m)
  「建春門院新大納言局」
(つらまえさん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

 

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2017年3月 2日 (木)

大河ドラマ「おんな城主 直虎」~信長役に海老蔵さん

 

NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」に、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが織田信長役で出演!

Odanobunaga400a 本日=3月2日のお昼前・・・こんなニュースが飛び込んできました~

不詳わたくし・・・この1日・2日、大河ドラマに関して少々言いたい事があり、感想を書こうか書くまいか、少し悩んでいたんですが・・・あぁ、待ってて良かった~~ヽ(´▽`)/

そう、実は、その言いたいことは、この織田信長がドラマに出るのか?出ないのか?に関しての事・・・

なんせ、もう次回は桶狭間なんですから・・・

本来なら、今川家の方々や徳川家康などを演じる俳優さんたちと同時期に、主役を張れるほどの有名演者さんの名が発表されてもおかしくないほどの重要人物のはずなのに、ここまで発表が無いという事は・・・

もしかして・・・
平成十九年(2007年)の「風林火山」のように、シルエットだけのナレーションスルーになるのか?
もし、そうなら、ちょいと言いたい事を言っちゃうヨ(`ε´)
と、思ってたんですが、

ただ・・・
前回のドラマの中で、桶狭間へ向かう今回の行軍について、井伊家を含む今川方の面々が、あまりにも「当然の勝ちイクサ」とか「負ける気がしない」とかを連呼しはるもんですから、ひょっとして(今川から見ると)織田なんか眼中に無い」=「信長小物感」を出したいがために、あえて、ここまで無視してるのではなかろうか?

と、引っかかったものですから、
もう1週間待ってみよう
桶狭間が過ぎても出てこなかったら言おう

と、思って待ってたら、この「海老蔵さんが織田信長役で…」の発表ですよ~

もちろん、本格的に、重要な役どころとしての出演かどうか?は、作家さん&スタッフさん次第でしょうが、たとえ、セリフのほとんど無い特別出演的なもので、結局は、ほぼナレーションスルーと変わらなかったとしても、主役を張れる俳優さんが演じられる事で、その存在感が違いますからね。

そう・・・
実は、前回が、主役の次郎法師(直虎)の幼馴染の井伊直親(おおなおちか)しの夫婦に「子供ができるの」「できないの」昼ドラさながらの嫁×姑×小姑バトルもどきのドロドロ展開に、丸々一回ぶんを使ってしまった事で、巷では、
「これが大河か?」
「そんなんは朝ドラでやってくれ」

という声も多数聞きました。

かくいう私も、以前の感想(1月12日参照>>)で、韓流時代劇っぽい雰囲気と三角関係のラブストーリー感が気になる」と書いております通り、今回の大河は、女性が主役であるためか?少々、話題がこじんまりしてる感は拭えないないなぁ~と思っている派なのですが、

ただし・・・
この「子供ができるorできない」は、よくよく考えれば、今回の直虎に関しては、かなり重要な事ではあります。

なんせ、この時の井伊家に男子がボコボコ生まれて、後継ぎ選び放題な状況なら、直虎が女だてらに当主になる事は無かったわけですから・・・「おんな城主 直虎」と称する限りは、なかなか子宝に恵まれずに後継ぎ選びに苦労した事を重要事項に持ってくるのもアリかも知れません。

ただ、それより私が気になったのは、前回が、その「子作り」の話題に終始してしまい、今回の桶狭間に至る出兵に関しての事がほとんど語られ無かった事でした。

先にも書いた通り、「当然の勝ちイクサ」や「負ける気がしない」というセリフとともに、「出陣する」という事ばかりで、なぜ出陣するのか?が、主人公の次郎法師が、瀬名姫(後の築山殿)からの手紙から得た知識を、大叔父の南渓(なんけい)和尚に披露する程度でしか語られていませんでした。

もちろん、歴史としては、今回の桶狭間に至る出兵についても、様々な説があって・・・
少し前までは、この時点で、最も天下に近い男であった今川義元(いまがわよしもと)による上洛目的の行軍であったという説が主流でしたが、現在では別の見方も出ています。

私も、以前、このブログで書かせていただいているように、上洛ではなく、「寸前に(今川方へ寝返った武将がいたため)これまでの織田と今川との境界線に変化があったので、あらためて現時点での境界線をハッキリさせる」みたいな感じだったと思っています(2009年5月1日参照>>)

ただ、ドラマは史実がどうこうではなく、作者の方が思うように持って行ってくださって結構ですので、どの説をとるかは自由・・・いや、なんなら独自の考えで以って出兵の理由を語ってくださっても良いのですが、前回のように、「子作り騒動」の合間の伝言めいたよくわからないままの出兵に終始してしまっては非常に残念だな~と思っていたわけで・・・

なんせ、ほとんど史料の無い方が主人公の今年の大河では、数少ない歴史的大事件なわけですからね。

もし、次回の桶狭間の回を以ってしても、信長の登場がなければ、上記のようなウヤムヤな感じになってしまうような予感がしていたのですが・・・

冒頭に書いた通り・・・出はるんですね、信長さん、
それも、海老蔵さんが演じはるのですね~良かったです

やはり、「信長なんか眼中に無い」感を出すための演出だったのですね(◎´∀`)ノ

これで、おそらく、なぜに出兵し、なぜに合戦となり、なぜに死ななければならなかったのかが、ドラマの中で徐々に語られていく事になるのでしょう。

プラス・・・
信長が出る事で、阿部サダヲさん演じる家康と、菜々緒さん演じる瀬名姫の、オモロイ夫婦の掛け合いも、思う存分描かれる方向になるのだとしたら、個人的にウレシイです。

ホント、あのお二人のキャラ設定はおもしろいです。
(逆に、後でロスになるのがコワイ)
これからも、楽しみですね。

関連ページもどうぞ↓
【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】>>
【今川義元・出陣の理由は?】>>
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【桶狭間で名を挙げた毛利良勝と服部一忠】>>
【桶狭間の戦い~その時、家康は…】>>
【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい】>>
【戦国・群雄割拠の時代の年表】>>
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