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2017年3月24日 (金)

源平争乱・壇ノ浦の戦い~平知盛の最期

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、ご存じ源平争乱のクライマックス壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺しました。

・・・・・・・・・・・・

養和元年(1181年)2月の、大黒柱の平清盛(たいらのきよもり)(2月4日参照>>)の死後、相次いで挙兵した伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らの勢いに都を追われた(7月25日参照>>)平家は、

寿永三年(1184年)2月の一の谷の合戦い
生田の森の激戦>>
鵯越の逆落とし>>
忠度の最期>>
青葉の笛>>
に敗れて西へ・・・

その翌年の文治元年(寿永四年・1185年)2月の屋島の戦い
佐藤嗣信の最期>>
扇の的>>
弓流し>>
さらに、西へと逃れ、本州最後の下関(山口県)に近い彦島へと後退した平家・・・退いた平家を追う形で、その地に源義経(みなもとのよしつね=頼朝の弟)率いる源氏軍がやって来たのは、屋島の戦いの1ヶ月後の3月21日に事でした。

「次は海戦になる!」
との予想から、河野水軍熊野水軍などの援軍を得て、800余艘の水軍となった源氏軍と、未だ500余艘を維持する平家軍は、いよいよ寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、約300mを隔てた壇ノ浦の海上に対峙したのです。

Tairanotomomori600a この壇ノ浦の戦いで、事実上の総指揮官だったのが「清盛最愛の息子」とも言われる平知盛(とももり)・・・
清盛の四男で、正室の時子(ときこ=二位尼)が産んだ第2子です。

彼が生まれたのは、あの保元の乱(7月11日参照>>)の4年前で、その3年後=つまり7~8歳頃に平治の乱(12月25日参照>>)ですから、その育った環境は、まさに平家全盛時代・・・

それを象徴するかのように、兄の宗盛とともにトントン拍子で出世していく彼を『平家物語』は、各合戦で指揮を取る「負け知らずの猛将」として描きますが、実際には、猛将というより智将で、未だ京都に腰を据えていた頃は、あまり細かな局地戦に赴く事なく、平家全体の軍事面における総帥のような役割ではなかったか?と考えられています。

それは清盛亡き後も・・・兄の宗盛が政治面を請け負い、知盛は、やはり軍事面を一手に引き受けていた事でしょう。

しかし、そんな智将=知盛が、一連の戦いの中で最も心を痛めたのは、先の一の谷の戦いでの事・・・

『平家物語』によれば・・・
生田の森の総大将として奮戦していた知盛でしたが、例の鵯越の逆落としで形勢逆転となった時、敵兵に組みつかれた知盛を助けようと、息子の知章(ともあきら)が間に入って奮戦するも、逆に敵に斬りつけられて討ち死・・・その混乱の中で知盛は、馬に乗ったまま海へと入り、なんとか味方の舟までたどりついて命拾いしたという事があったのです。

その時、自らは海から舟に乗り移ったものの、重い馬は乗せることができず、やむなく岸辺の方向に誘導していくのですが、その馬は、以前、後白河法皇(ごしらかわほうおう=77代天皇)から賜ったかなりの名馬で、知盛も大変気に入っていて、月一で安全祈願の祭事を行うほど可愛がっていた馬だったのです。

しかし、そのまま岸へと戻れば、おそらく、その名馬を敵の将が手に入れる事になるわけで・・・その事を心配した配下の者が、
「あれほどの名馬が敵の物のなるのは惜しい…射殺しましょうか?」
と聞いたところ、知盛は、
「誰の物になったってかめへん!俺の命を助けてくれた馬やぞ、殺せるわけないやろ!」
と言ったとか・・・

馬を相手にしてさえ心やさしき知盛・・・そんな彼が、混乱の中とは言え、自らの命と引き換えに息子を失ったわけで・・・
「息子が敵と組み合うのを見ていながら、助けられないで自分だけ逃げてしもた。
他の者が同じ事をしたら、きっと俺は非難するやろに…
人間、イザとなったら、自分の命が惜しいもんです。
ホンマ情けない!恥ずかしい!」

と号泣したと言います。

おそらくは、自分自身の情けなさとともに、敵への憎しみ&恨みも大いに抱いた事でしょうが、智将=知盛は、その後も、個人の恨みつらみを押しだす事なく、あくまで、平家の総帥として、一門の事を第一に考え、冷静に指揮を取るのです。

それは、あの一の谷の合戦で捕虜となった平重衡(しげひら=知盛の弟・清盛の五男)と、平家の手中にある安徳天皇(あんとくてんのう=第81代・後白河法皇の孫で清盛の孫)三種の神器(さんしゅのじんぎ=皇室の宝物【三種の神器のお話】参照>>交換しようと持ちかけてきた法皇&源氏側に対して、

『平家物語』の平家は、「アホか!」「できるか!」「けんもほろろに断ったばかりか、その拒否の固さを示すため、使者の頬に『受領』の焼印をして送り返した」となっていて、ドラマ等、一般的には、そのように描写される事が多いのですが、

実は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』での平家から返答は、
「コチラは、はなから安徳天皇と三種の神器をお反しするつもりで、法皇さまのおっしゃる、和平交渉のための停戦命令にも従っておりますが、我々が天皇と神器を携えて京の近くへ行こうとすると、それを阻むがのごとく合戦を仕掛けて来るのはソチラの方ではないですか?
もともと平家も源氏もお互いに恨みは無いのですが、コチラが無理に京都へ帰ろうとすると合戦になってしまいますので、和平をされるのでしたら、その旨を明確にお示し下さい」

てな内容だったとされます。

軍記物の『平家物語』と公式記録の『吾妻鏡』・・・もちろん、その『吾妻鏡』もすべてが正しい内容では無い事が指摘されていますので、鵜呑みにはできませんが、この記述を見る限りでは、私怨を捨てて一門のために事を治めようとする冷静な姿が垣間見えますね。

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壇ノ浦の戦い(『安徳天皇縁起絵図』より…赤間神宮蔵)

とは言え、ご存じのように、この交渉は決裂(後日、重衡は処刑:3月10日参照>>)、源氏VS平家は最終決戦となる壇ノ浦へ・・・

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、白々と明けた瀬戸内の海上に約300mを隔てて対峙した両者の間で壇ノ浦の戦いの幕が切って落とされたのです。

前半は平家が有利な展開で押し進め、大将の義経ですら危うい場面があったものの、陸に強い源氏に予想以上の数の水軍が味方した事や、瀬戸内特有の潮の流れ、突飛な義経のルール無視・・・などなど(くわしくは壇ノ浦の戦い:2008年3月24日参照>>)様々な事が相まってか?やがて、平家が劣勢に転じたのです。

しばらくして、
「もはや、これまで・・・」と覚悟を決めた知盛が、自らの乗る小舟を、安徳天皇の舟に近づけて、
「これまでです。見苦しい物は全部海に捨ててください」
と言うと、それを聞いた女官たちが、あわてて舟の上を掃除しながら
「中納言殿(知盛の事)、戦況はどうなんですか?」と・・・

その返答に知盛は、
「もうすぐ、今まで見た事のない東国の男たちに会えますよ」
と言って、ケラケラと笑ったと言います。

これで
「あぁ、もう本当にダメなんだ」
と思った平家の人々は覚悟を決め、二位尼も安徳天皇を抱きかかえて海の底へと旅立ちました(先帝身投げ:2007年3月24日参照>>)

『平家物語』では、この「先帝の身投げ」のあと、猛将=平教経(のりつね=知盛の従兄弟)の最期(能登殿最期:2009年3月24日参照>>)が描かれ、その次に知盛の最期が登場します。

・‥…━━━☆

「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害せん」
自らの人生で、見たい物はすべて見たので自害しよう!と、覚悟を決めて、乳母子(めのとご=うばの子・乳兄弟)である平家長(たいらのいえなが=伊賀家長)を近くに呼び寄せて、
「イザという時はともに散るという約束は忘れてないか?」
とたずねると、家長は
「いまさら…言うまでも無い事です」
と、しっかりと答え、

飛び込んだ後に体が浮いて来ないように、家長は、主君=知盛に鎧を二領着せ、自らも二領の鎧を着込んで、ともにしっかりと手を組んで、二人同時に海に飛び込みました。
(一説には、同じく体が浮かないように「碇(いかり)を担いで入水したとも言われ、浄瑠璃や歌舞伎の『義経千本桜』碇知盛として有名です)

これを見て、その場にいた忠義の者ども20名余りが、その後を追って次々と海に飛び込んで行ったのです。

それは・・・
「赤旗 赤符(あかしるし)ども、切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田河の紅葉葉を、嵐の吹き散らしたるに異ならず
(みぎわ)に寄する白波は 薄紅(うすくれない)にぞなりにける」
海上に無残に切り捨てられた平家の赤旗や赤印がおびただしく漂い、まるで竜田川のモミジのようで、波打ち際に寄せる白波も薄紅色に染まって見えた・・・と。

そして・・・
「主(ぬし)もなき空しき舟どもは、潮に引かれ風に随(したが)ひて、いづちを指すともなく、ゆられ行くこそ悲しけれ」
あるじを失くしたカラの舟が、風に吹かれるまま波のまにまに揺られるさまは悲しすぎる~

・‥…━━━☆

こうして源平の合戦は、全行程を終了する事となります。

この時、同じく入水するも、敵兵に引き上げられて捕虜となった人の中には、平家の棟梁であった平宗盛(たいらのむねもり=清盛の三男・知盛の兄)(6月21日参照>>)、安徳天皇の母=建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ=平徳子・清盛の次女で知盛の妹)(12月13日参照>>)などがいます。

また、安徳天皇には生存説もあり(2010年3月24日参照>>)
生き残って何度も頼朝暗殺に挑む平景清(かげきよ)(3月7日参照>>)
清盛嫡流最後の人となった平六代(たいらのろくだい)(2月5日参照>>)
などなど、その後のお話もありますので、それらは
平清盛と平家物語の年表>>
源平争乱の年表>>
でどうぞm(_ _)m

にしても・・・
人の生き死にに関する記述に対して、こう言って良いかどうか悩むところではありますが・・・
平家物語』の言いまわしは、実に美しいですね~
「波間に散乱する赤旗が竜田川の紅葉のようだ」とか・・・

悲しくも美しい散り様ですね。
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