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2017年4月20日 (木)

織田信長、清州城を乗っ取る!

 

弘治元年(1555年)4月20日、叔父=信光の協力を得た織田信長が清州城を乗っ取りました。

・・・・・・・・・

これまでも何度が書かせていただおておりますが、この尾張(おわり=愛知県西部)という地は、室町幕府の管領家である斯波(しば)が代々守護(知事)を務めていました。

とは言え、その役職の性質上、京都に滞在する事が多い守護・・・なので、その守護に代わって、居城の清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)にて普段の政務をこなしていたのが配下の守護代で、織田守護代家=清州織田家の当主が、代々その職務についていたわけですが、

そんな中、織田達勝(たつかつ)が守護代を務めていた時代に力をつけて来たのが、さらにその配下で清州三奉行と呼ばれていた人たち(1月17日前半部分参照>>)・・・その三奉行の中の織田弾正忠家(だんじょうのじょうけ)の当主が織田信定(おだのぶさだ=信長の祖父)で、
その息子が信秀(のぶひで)織田信長(おだのぶなが)のお父ちゃんです。

Odanobunaga400a で、その後、天文二十年(1551年)の父=信秀の死(3月3日参照>>)を受けて織田弾正忠家の家督を継いだのが信長というワケですが、

そんな中で、戦国も半ばになると、守護の斯波氏もすでに名ばかりの状態となっていて、当時守護職についていた斯波義統(しばよしむね)も、もはや傀儡(かいらい=あやつり人形)・・・逆に、守護代家をはじめとする配下の者が台頭しはじめ、結局は尾張一国も統一すらされていない群雄割拠の状態になっていたわけで、

もちろん、信長の織田家も、その祖父の代から流通の要衝を複数牛耳っていた事もあって、経済的には豊かで、徐々に力をつけて来ていたうちの一つでした。

てな事で、そうなると誰かが、「斯波氏に取って代わる下剋上をやってのけよう」と考えてしまうのも時間の問題・・・

そんな中、かつてはモメにモメていた隣国=美濃(みの=岐阜県)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘を娶って(4月20日参照>>)北側の国境線の問題を治めた信長は、今度は東の三河(みかわ=愛知県東部)との国境線維持に奔走(1月24日参照>>)していましたが、

そんなこんなの天文二十三年(1554年)、清州城にて、かろうじて守護のイスにまだ座っていた義統の息子の斯波義銀(よしかね)が、多くの家臣団を引き連れて川狩りに出かけた7月12日、当時の守護代であった織田信友(のぶとも)は、「絶好のチャンスを逃すまい」とばかりに、老人や女子供ばかりになった清州城内の守護館を包囲し、一斉に攻撃を仕掛けたのです。

残った者だけで何とか抵抗をしてみるものの、もはや多勢に無勢でいかんともし難く完敗・・・結局、義統は一族30名余りとともに自害しました清須の変=7月12日参照>>)

もちろん、狩り姿で出かけたままの義銀も、そのまま清州城に戻る事が出来ない・・・で、彼が頼ったのが、当時は那古屋(なごやじょう・愛知県名古屋市中区)にいた信長だったのです。

実は、亡き父=信秀の後継者を巡っての時、信友は、信長の弟である信行(のぶゆき)を推しており、以後、信長とはシックリ行ってはいなかったワケで・・・そもそもは、ここ最近、そんな信長に義統が、何かと近づいていた事も、信友謀反の一つの原因だった事もあり、そりゃ、義銀は信長を頼りますわな。

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清州村古城絵図(蓬左文庫蔵)部分

これを受けた信長は、事件の5日後には配下の柴田勝家(しばたかついえ)に足軽衆をつけて派遣・・・清州側が防戦する山王口(さんのうぐち=三王口)を破り、安食村(あじきむら=愛知県名古屋市北区)を突破します。

防戦の清州勢は、誓願寺(じょうがんじ=同北区:成願寺)前で何とか踏みとどまるものの、多くの関係者が討ち取られてしまいました。(安食の戦い・中市場合戦)

この戦いで織田三位(おださんみ)河尻与一(かわじりよいち=左馬丞)などの有力者を失った清州側・・・当時、信友の家老で、小守護代(代官)と称されていた坂井大膳(だいぜん)は、重臣として清州を守る者が少ない事を懸念して守山城(もりやまじょう=名古屋市守山区)織田信光(のぶみつ)に声をかけます。

この信光という人は、信秀の弟=つまり信長の叔父さんなので、信長とも親しい関係にあり、何度が、ともに出陣した事もありましたが、それこそ生き馬の目を抜く戦国・・・敵側から重要人物をヘッドハンティングする事も日常茶飯事なわけで・・・

大膳が
「お力添えをいただいたあかつきには、信友殿とお二人で守護代を務めていただきたく…」
と、大きなエサをぶら下げての懐柔工作を図れば、
「お望み通りに…」
と、信光も快諾・・・

二心無い証として起請文(きしょうもん=神に誓う誓約書)をしたためて、信友側からその守りを任された清州城の南櫓(みなみやぐら=南矢倉)に入りました。

一方の信長・・・この先の勢力拡大、果ては、尾張統一をするためには、何としてでも信友を倒しておきたいところですが、この清州城がなかなかの堅城で、今のところは手も足も出無い状況・・・

と、そこへ、かの信光からのお誘いが・・・

そう、この信光さん、実は、清州からの誘いを受けたフリをして、実際には信長に協力しようと考えていたのです。

「俺が清州城をだまし取ったるよって、その代わり尾張の下の四郡のうちの東半分をくれるかな?」
「いいとも~ヽ(´▽`)/」
約束が即決するやいなや、

弘治元年(1555年)4月20日清州城内の信光が手勢を率いて謀反を起こすと同時に、信長が城外から攻撃・・・

南櫓のただならぬ雰囲気に気づいた大膳は、ギリギリのところで危険を察知し、今川義元(いまがわよしもと)を頼って駿河(するが=静岡県東部)へと逃亡しますが、逃げる事ができなかった信友は、あえなく討ち取られ、ここに清州織田家は断絶します。

勝利した信長は、那古屋城を信光に渡し、自らは乗っ取ったばかりの清州城へと入りました。

それは・・・そう、
ここに守護の斯波氏がいた事でもお察しの通り、この清州が尾張の覇府(はふ)=今で言うところの尾張国の首都だったからで、まさに、この先の尾張統一(11月1日参照>>)を見据えての行動。

ご存じの通り、清州城はこの後、
信長が桶狭間に出陣する時(5月19日参照>>)
徳川家康(とくがわいえやす)同盟を組む時、
そして、悲しいかな、
その死後に後継者を決める会議(6月27日参照>>)
・・・と、様々な歴史の舞台となる場所です。

ところで、今回、大きく貢献してくれた叔父=信光さん・・・この日から、わずか7ヶ月後の11月にお亡くなりになります。

『信長公記』では、
「11月26日、不慮の事件が起きて死亡、起請文に背いたので天罰が下ったのかも…恐ろしきかな」
と、いたくアッサリと書かれてしまってますが、現段階で信長に最も近い協力者が、こうも短期間に亡くなってしまうのは、やはり不可解・・・

謎が謎呼ぶ信光さんの死・・・って事になるのですが、そのお話は、そのご命日である11月26日に書かせていただいた【信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害】>>のページでどうぞm(_ _)m
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