大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆
慶長二十年=元和元年(1615年)4月28日、大坂夏の陣に連動した紀州一揆による和歌山城襲撃計画が発覚しました。
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この戦いの結果も、そして、この後の徳川家の繁栄をも知っている私たちには、どうしても、豊臣方が無謀な負け戦に挑んだ感が拭えない大坂の陣・・・
特に、大坂冬の陣の講和の後、堀を埋められて裸城になってもなお、勃発した夏の陣での豊臣大坂方の皆々様は、小説や時代劇なんかでも、プライド満載の意地っ張り上層部に、死に場所を探してるかような浪人衆・・・といった雰囲気で描かれる事が多いですが、
これまでも、何度かお話させていただいております通り、私個人的には、大坂城内も、そして撃って出た武将たちも、皆、最後の最後まで、「勝つため」に奔走していたと考えております。
その「大坂方勝利への構想」の一翼を担っていたのが、今回の紀州一揆(日高・名草一揆)・・・以前、冬の陣に連動して勃発した熊野・北山一揆(12月12日参照>>)について書かせていただきましたが、まさに、それと同様に夏の陣に連動した一揆なのです。
冬の陣の北山一揆の時には、和歌山県の東西牟婁郡(むろぐん)や新宮市(しんぐうし)や田辺市(たなべし)や三重県の一部を含む熊野(くまの)地域の民衆と奈良県吉野郡の上北山村と下北山村など現在の和歌山県の中央部から南の地域の民衆が中心でしたが、今回の紀州一揆は日高郡(ひだかぐん)や名草郡(なぐさぐん)など、和歌山県西部の地域の民衆が中心・・・
おそらくは、先の北山一揆にて、熊野や北山の民衆は、かなりの痛手を受けていて、「一斉に蜂起」とはいかなかったものと思われますが、それでも、紀州には昔ながらの「民衆強し」の威勢があり、今回は西部地域を中心に、大坂方の実質的な指導者であった大野治長(おおのはるなが)の工作に応えるように、様々な動きをしていたようです。
以前も書かせていただいたように、なんせ、この地域は、長きに渡って地元の豪族や国人領主が群雄割拠していて(11月4日参照>>)、あの織田信長(おだのぶなが)も散々に手を焼いた場所・・・豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)の紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)でやっとこさ中央の傘下になるも、太閤検地(たいこうけんち)(7月8日参照>>)などに反発して度々一揆を起こしたりなんぞ・・・
て事は、紀州の人たちは「豊臣家憎し」なのでは?
と思いきや、その秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでの東軍勝利の功績により、この地を与えられた浅野幸長(あさのよしなが)が石高をあげるため、未だ屈していなかった地侍の土地をはく奪したり、豊臣時代よりさらに厳しい年貢を徴収した事で、
この地を追われた浪人の多くが、大坂の陣勃発直後から大坂城に入っていたらしい事や、彼ら浪人衆を通じて好条件の恩賞の提示もあった事から、結局、現時点での政権=徳川方である浅野家に対抗する形で、紀州の民衆たちの多くが大坂方として参戦したようです。
日高郡では、
かつて日高の湯河氏の家老であったとも、湊城(みなとじょう=和歌山市久保丁)の城主であったとも、はたまた鈴木氏であったとも言われる上野村(御坊市名田町)の湊惣左衛門(みなとそうざえもん)なる人物が、
「大坂方に味方すれば所領は望み次第に与える」
という内容の朱印状を持って各地を回り、高家村(たいえむら=日高郡日高町)、志賀村(しがむら=同日高町)などを取りこむ一方で、
名草郡では、山口村(やまぐちむら=和歌山市)の代官=山口喜内(やまぐちきない=易井喜内)の一族や、園部村(そのべむら=和歌山市)の園部兵衛、井口村(いのくちむら=同和歌山市)の和佐半左衛門(わさはんざえもん)などが中心となって、そこに、かつて雑賀(さいが・さいか)衆を牛耳っていた土橋(どばし・つちはし)家(5月2日参照>>)の土橋平次(へいじ)も加わって一揆を扇動します。
この時、一揆を主導した彼らは、かつて…あるいは、今現在も浅野家に仕える侍たちでしたが、やはりこの時は、古き土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)の精神を復活させ、より良き待遇へと夢を追ったのかも知れません。
一方の大坂城側では、主将格の大野治長からの指示を受けた家臣=北村善大夫や大野弥五右衛門が工作に当たる中、大坂夏の陣を前にした4月、大和(やまと=奈良県)から紀州方面へと南下する使命を帯びた大野治房(はるふさ=治長の弟)を大将とする一軍が編成されます。
この時、進軍の案内役を務めたのが、先の山口村の山口喜内の息子たち=山口兵内 (へいない)&兵吉兄弟など、すでに大坂城内に入っていた紀州浪人たちだったとか・・・
とにもかくにも、大坂方が、和歌山城(わかやまじょう=和歌山県和歌山市)を本拠とする浅野長晟(ながあきら=幸長の弟)を含む徳川勢を、南北で挟み撃ちにする作戦であった事は確かでしょう。
とは言え、この作戦がうまく機能しなかった事は、すでに皆様ご承知の通り・・・
その第一歩は、一揆内から出た密告者・・・
慶長二十年=元和元年(1615年)4月28日、
冬の陣の時の北山一揆の事もあり、領国における危険を感じつつも、徳川家康(とくがわいえやす)からの出陣要請に応えた長晟が和歌山城を出陣・・・しかし間もなく、浅野軍の先発隊が和泉佐野(いずみさの=大阪府泉佐野市)に差し掛かった時に、この紀州における一揆の計画が発覚します。
そう、先の北山一揆もそうですが、一揆が広範囲になるほど、そのまとまりにも綻びが出るもの・・・なんせ、地元民全員が浅野家に不満を持っているわけではなく、中には、浅野の政権下でウマくやっていた一般市民もいたわけですから
こうして、どこかの誰かの密告によって発覚した一揆の計画・・・一説には、「長晟が城を出たと同時に一揆勢が和歌山城を取り囲んで襲撃した」という話もあるようですが、実際には、もし衝突があったとしても小規模な小競り合い程度の物であったであろうと言われています。
なんせ、この計画発覚からわずかの間で、先手として和泉佐野に潜入していた北村善大夫と大野弥五右衛門が捕縛され、かの山口喜内のもとにも捜査が及んだらしく(喜内自身は、この時は逃亡して後に捕縛されたとされる)、『駿府記』によれば、この初期の段階で、主要の約30数名がままたく間に捕縛されたようなので、結局は、計画のほとんどが未発のまま鎮圧されてしまったようです。
一方、大坂城側で編成され、紀州方面に向かった一軍は・・・
そう、この一軍の交戦が、翌4月29日の、あの樫井(かしい)の戦いなのです(【豊臣滅亡を決定づけた?樫井の戦い】参照>>)。
ご存じのように、大坂方の有力武将のうちの一人=塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)が命を落とす(2010年4月29日参照>>)戦い・・・コチラの大坂城進発側も、指揮命令系統の乱れから、豊臣にとって手痛い敗北となってしまったのです。
日高では、その後も、首謀者の一人である高家村の西村孫四郎なる者らが、徒党を組んで暴れまわり、意に従わない者を斬り捨てながら、
「さぁ、仲間になれ!」
とばかりに村々に触れ回っていましたが、有田郡の広村(ひろむら=和歌山県有田郡広町)あたりまでやって来たところで浅野の討伐軍に出くわします。
それは、かの樫井の戦いの翌日=4月30日の事・・・樫井での戦いを終えた浅野長晟が、すぐさま和歌山城に戻って一揆討伐に取りかかっていたのです。
おそらくは、こんなに早く、一揆討伐軍がやって来るとは思っていなかったであろう一揆勢・・・いや、なんなら、樫井の戦いで疲弊しまくってる浅野軍を、追撃して来た大坂方の武将らとともにコテンパンにやっちゃうくらいのつもりでいたかも知れません。
しかし、上記の通り、樫井の戦いが徳川方の勝利となったために、大坂方からの援軍は期待できず・・・そうなれば、アチラ=戦いのプロを相手に、コチラ=寄せ集めの烏合の衆という構図になり、到底歯が立つワケもなく、日高郡と有田郡の境にある鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)や、海部郡と有田郡の境にある蕪坂峠(かぶらざかとうげ)などで激突し、多くの大将分が討ち取られ、あるいは追っ払われ、準備不足感が拭えないままの一揆勢は、本家本元の大坂城落城の日=5月7日を待つことなく、ほぼ壊滅状態となってしまいました。
日高での首謀者の一人=湊惣左衛門ほか何名かは逃げ切れたものの、ほとんどの首謀者が梟首(きょうしゅ=さらし首)、あるいは火あぶりの刑に処せられました。
ちなみに、命助かった湊惣左衛門は、大坂の陣終結後、やはり紀州出身の大坂方として最後まで大坂城内にいたものの、落城の際に家康の孫娘=千姫(せんひめ)を連れて脱出した功績?(2月6日参照>>)によって罪を許されて知行を得たとされる堀内氏久(ほりうじひさ)のもとに身を寄せたと言われます。
乱後に浅野家がまとめた史料=『浅野家文書』によると、
日高郡:5ヵ村=252名、
有田郡:4ヵ村=48名、
名草郡:6ヵ村=114名、
那賀郡&伊都郡:1ヵ村=合わせて29名
合計すると
5郡17ヵ村、石高にして約7千石、人数=443名が処刑・・・
前年の熊野・北山一揆と合わせると49ヵ村、806名もの者が処分された事になります。
以後、江戸時代を通じて、小さな百姓一揆などは起こるものの、これまでのような大規模な一揆が、この紀州に起こることはありませんでした。
群雄割拠して暴れまわった中世の土豪たちから、その血と心意気を受け継ぎ、信長にも屈せず、秀吉にも抵抗し、度々やって来る中央政権の者たちを「中にも紀州は一揆所…」と恐れさせた紀州一揆は、これにて終焉を迎える事となったのです。
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
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(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は 「地理院」>>よりお借りしました)
★大坂夏の陣、
紀州一揆の前後の流れ~関連ページ
慶長二十年=元和元年(1615年)
●4月26日:【大和郡山城の戦い】
●4月28日:紀州一揆
●4月29日:【樫井の戦い】
●5月1日:【大坂方が平野に出陣】
●5月6日:
【道明寺誉田の戦い】
【若江の戦い】
【八尾の戦い】
●5月7日:落城
【大坂城総攻撃】
【天王寺口の戦い】
●5月8日:豊臣秀頼(ひでより)ら自刃
【渡辺糺と母・正栄尼の最期】
【大坂城落城&秀頼生存説】
●さらに詳しくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)
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