浅井亮政VS六角定頼~箕浦合戦
享禄四年(1531年)4月6日、六角定頼と浅井亮政による箕浦合戦がありました。
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宇多源氏(うだげんじ)・佐々木氏(ささきし)の流れを汲む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)の六角氏(ろっかくし)と、同じく佐々木氏の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の京極氏(きょうごくし)・・・鎌倉時代より、この二つの名門家によって統治されて来た近江の地。
しかし、かの応仁の乱(5月20日参照>>)での混乱のさ中に当主が急死して後継者でモメる中(8月7日参照>>)、やっと決まった14代当主の京極高清(きょうごくたかきよ)の息子同士で、これまた後継者争いが勃発した事で、家中が真っ二つ・・・
このお家騒動の混乱により、いつしか後継ぎ当事者より、彼らをサポートする家臣や国人(こくじん=土着の武士)が力をつけて来るようになるのですが、その筆頭とも言うべき存在が、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)・・・あの浅井長政(ながまさ=浅井三姉妹の父)(8月29日参照>>)のお祖父ちゃんです。
しかし、被官の浅井が主君の京極氏をしのぐが如くの勢いとなった現状を快く思わないのが、同じ名門=六角氏の六角定頼(ろっかくさだより)。
んなもんで、ここのところの定頼は、度々北近江へ出陣しては亮政の頭を抑えるという事を繰り返していたのですが・・・
そんなこんなの大永七年(1527年)、もはや室町幕府将軍よりも権力を持つ事実上の天下人であった前管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)の養子たちの間で勃発した後継者争いの中で、一旦は勝利して政権を樹立した細川高国(たかくに)(5月5日参照>>)が、細川晴元(はるもと)に敗れて、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)とともに京を追われる事態となった桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)が勃発します。
これにより、
坂本(さかもと=滋賀県大津市)に退いた義晴&高国、
一方の晴元が擁立した足利義維(よしつな=義晴の弟)の堺公方(さかいくぼう)、
合戦の勝利により実質的に京都を統治する柳本賢治(やなぎもとかたはる)、
と、畿内に3つの政権が存在する異常事態になってしまっていたのですが・・・
当然の事ながら、京を退いた高国らが、そのまま指をくわえて見ているはずは無いわけで・・・かの桂川原から3年・・・
享禄三年(1530年)、高国が播磨(はりま=兵庫県南西部)の名門=赤松氏(あかまつし)の支援を受けた事をキッカケに、摂津(せっつ=大阪府北中部)方面から敵方の諸城を落としつつ、京への侵入を試みる中で、受けて立つ晴元は、以前よりつながりがあった京極高清や、その家臣(実力はともかく、今もまだ身分は家臣ですので…)の浅井亮政らに支援を求めて来たのです。
位置関係図→
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(背景は地理院地図>>)
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この時、坂本よりさらに奥まった朽木(くつき・滋賀県高島市)へと引っこんで六角氏に守られていた将軍=義晴を攻撃すべく高島へと兵を進めた浅井軍ではありましたが、それに気づいた義晴が、浅井勢よりさらにすばやく朽木を出て坂本へと移動・・・将軍とともに六角勢も去った事で、この時点では、大きな合戦に至る事はありませんでした。
しかし、敵兵に高島まで乱入された六角定頼も、その一件を黙って見過ごすわけには行かず・・・報復とばかりに北近江へと兵を向けますが、そんなこんなしているうちに、肝心の高国勢に敗北が続き、軍全体の士気も衰えて、結局、大勢を変えられないまま、上洛への動きを中断してしまいます。
しかも、この間に晴元と内輪もめしていた柳本賢治が播磨出陣中で暗殺された(6月29日参照>>)事を遂げて、なんとなく晴元の一人勝ち的な雰囲気・・・
こうして、しばしの平和を迎えた京の町・・・・
おかげで都の守りに気を配らねばならない状況が薄らいだ六角定頼は、享禄四年(1531年)4月6日、「六角の両藤」との異名を持つ後藤賢豊(ごとうかたとよ)&進藤貞治(しんどうさだはる)らをはじめとする重臣たちを大将に据え、約1万7千騎の大軍で以って、箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原に進出したのでした。
一方の浅井軍・・・亮政自らが1万5千余騎の軍勢を率いて出陣し、箕浦の北側、坂田郡山西(滋賀県米原市北部)、醒井(さめがい=滋賀県米原市・醒ヶ井)などに兵を分散させて迎え撃つ作戦です。
が、しかし結果的には、この分散作戦が裏目に・・・多勢の六角軍に対し、もとより無勢の浅井軍は、合戦開始まもなくからの劣勢状態を挽回する事ができず、名のある首級を29ほど討ち取られて敗戦となり、やむなく兵を退きあげる事になります。
とは言え、亮政はそのまま居城の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)に戻ることはせず、いずこかに隠れ住んで姿を消すのですが、一方の六角軍も、これを深く追う事なく兵をたたんで引き上げました。
というのも、勝敗としては「六角軍の勝利で浅井軍の負け」とはなったものの、六角側も、結果的に30以上の首を討ち取られるという痛手を被っており、なかなかの激戦であった事がうかがえます。
ここは一つ、六角勢にもしばしの休息を・・・という事だったのでしょう。
なんせ、この亮政さん・・・以前のページ(3月9日参照>>)でも書かせていただいたように、合戦に負けはするものの、負ける度にどんどん強くなって行くんです。
そのページにも、その一因は「負けても負けても、彼に味方してくれた地元国人衆たちにある」と書かせていただきましたが、それは、若き日の亮政の抱いた「権力を握った者は、自らの保身のためではなく、困窮する民衆のためにこその政治手腕をふるうべきである」との精神とともに、例え負けても落ち込む事なく、次回へつなげる不屈の精神に魅力があったからなのかも知れません。
実は、この戦いのすぐあとに、家臣の三田村又四郎に宛てた亮政の感状(かんじょう=武功を讃える書状)が残っているのですが・・・
「今度箕浦河原において 種々御手を摧かれし候段…」(三田村文書より)ではじまるこの書状には、槍で受けた数ヶ所の傷をものともせずに奮戦した彼を誉め讃えるとともに、
「兵を分散させた事で、お互いの連絡がうまく取れず、イザという時に役に立たなかったのが敗因…もったいない事をした」
と反省し、
「今後はちゃんとしよう」
と再起を予感させる文言が並んでいます。
おそらく亮政にとっては「完敗」ではなく、それなりの余力を残し「明日へつなげる敗戦」であった事でしょう。
とは言え、亮政の戦いは、まだまだ続きます。
ただし、一方の細川同士の後継者争いについては、まもなく決着がつく事になるのですが、そのお話は、また、関連するいずれかの日付で書かせていただきたいと思います。
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コメント
初めまして。ボランティアで高齢者の交流会をおこなっているものです。
お年寄りが一番食いつく話題として、【あなたが生まれた日に何があったか?今日は何があったか?】を毎回調べて話を盛り上げています。
それを調べている時に、偶然このブログを見つけました。
やはり、外国の歴史より、日本史のほうが教科書でみて名前を知っている人物を身近に感じるようで、かなり好評です。
事後承諾で申し訳ありませんが、ここのブログを参考にしてこれからも話しの種として使用しても宜しいでしょうか?
勝手なお願いで申し訳ありません。
投稿: りゅう | 2017年4月 9日 (日) 10時14分
りゅうさん、はじめまして…
>ボランティアで高齢者の交流会を…
ステキです(* ̄ー ̄*)
参考になるのでしたら、種にしていただいて良いですよ。
楽しい交流会になる事を願っております。
投稿: 茶々 | 2017年4月 9日 (日) 16時33分