上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦
永禄十一年(1568年)4月13日、それまで武田信玄についていた越中増山城主=神保長職が上杉謙信に寝返りました。
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射水(いみず=富山県射水市)や婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)の神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)の椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・
ここ越中は、越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)にとっても、自らの領地に隣接する場所であり、自国と京の都との間に位置する重要な場所でもあった事から、祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めていた場所だったわけです(9月19日参照>>)。
つい先日も書かせていただいたように(3月30日【増山城&隠尾城の戦い】参照>>)、永禄三年(1560年)には、勢力拡大を図る神保長職が、謙信のライバルである甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)の支援を得て、謙信傘下の椎名康胤を攻撃したわけですが、
この時、負けた長職は、一旦は降伏して謙信の傘下となったものの、謙信が越後へと戻ると、またぞろゴソゴソやり始める・・・
で、椎名康胤の救援のため謙信が大軍率いてやって来て、負けそうになったら和睦して傘下に入るものの、謙信が戻るとまやもやゴソゴソ・・・
てな事をくりかえしていたわけですが・・・
そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月・・・
なんと、それまでずっと謙信と協力体制にあった椎名康胤が、いきなり反旗をひるがえしたのです。
実はコレ、信玄の裏工作・・・信玄が何度も「君が越中を平定してくれへんかなぁ~僕支援するし…」の手紙を送っていたのが、ここに来て康胤を決断させたのです。
ひょっとして・・・康胤の心の内にも、
複数回上洛しても時の将軍と仲良く談笑し、関東管領並(6月26日参照>>)を引き受ける謙信は、おそらく天下を取る気はない?
に対して、天下を狙う気満々っぽい信玄の傘下になっておけば「そのあかつきには越中の大名になれるかも」てな野心が芽生えたのかも知れません。
とは言え、謙信にとって、再三に渡る長職のゴソゴソは、おそらく予想できたものの、一方の康胤の裏切りは想定外・・・
なんせ、この椎名は、特に、謙信の父の長尾為景(ながおためかげ)とじっこんの仲で、譜代の長尾一族から長尾景直(かげなお)を康胤の養子に迎えていて、謙信にとっては特に信頼を置いていた武将の一人なわけで・・・だからこそ、これまで何度も救援に出張って来ていたわけで・・・
ショックを受けながらも、知らせを聞くなりすばやく行動に起こし、3月16日、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣した謙信は、康胤を攻めるべく越中へと入りました。
が、しかし・・・ここに来て、またもや予想外の出来事が!
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
越中侵攻から1ヶ月後の永禄十一年(1568年)4月13日、あの神保長職が謙信への協力を申し入れて来たのです。
今回ばかりは、その場まかせのゴソゴソではなく、一門の神保覚広(ただひろ・よしひろ)と家臣の小島職鎮(こじまもとしげ)の尽力による物・・・謙信自身が「長職とメッチャ意気投合したわ~ヽ(´▽`)/」と覚広に報告してますし、長職も、「この感謝は手紙では言い尽くせへん!」と書状で述べていますので、よほど、両者の関係が良い展開になったのでしょう。
しかし、こうして看板となるトップの傘が交代した事で、もとから信玄についてゲリラ戦を展開していた越中の一向一揆は、神保を離れて椎名の味方に・・・
ご存じのように、この時代の一向一揆=武装した本願寺門徒は侮れない・・・たび重なるゲリラ戦法で、長職は、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)と放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を落とされたため、やむなく増山城に逃げ込みます。
ここで謙信は、康胤の松倉城への抑えとして配下の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)に河田長親(かわだながちか)を配置して放生津城攻めに向かうと同時に長職と連携して守山城を猛攻撃しました。
ところが、この間に遠く離れた越後にて、信玄の誘いに乗った本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)の本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗をひるがえした・・・との情報が舞い込んで来ます(11月7日参照>>)。
やむなく謙信は、直江景綱(なおえかげつな)ら重臣たちに、この場を任せて、自らは春日山城へと戻り、すぐさま準備を整えて本庄城の攻撃へと向かいました。
謙信自ら指揮を取るその猛攻撃に半年ほど耐えたものの、同年11月、本庄繁長は人質を差し出しての講和を申し出ます。
実は、期待していた信玄からの援軍が思うように得られ無かったのです。
そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、9月に、あの織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした年・・・
心情的に、この信長の上洛に影響を受けたか否か?
あるいは「(川中島でゴチャゴチャしっぱなしの)北がダメなら南へ」と思ったか否か?
「このままやったら徳川家康(とくがわいえやす)に駿河取られてまう~」と思ったか否か?
はたまた、信玄に、畿内に目を向けてほしくない信長の「今なら駿河イケまっせ」の誘いに、とりあえず乗ってみたか否か?
その心の内は、ご本人のみぞ知るところですが、ここからの信玄は、この12月には薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)からの今川館の攻防戦(12月13日参照>>)と、完全に駿河(するが=静岡県東部)攻略に向けて舵を切った事は明白なところ・・・なので、おそらく本庄救援まで手が回らなかったのでしょう。
しかも、謙信にとっての信玄の矛先変更の影響は、そればかりではありませんでした。
翌永禄十二年(1569年)の明けてまもなく、信玄の勝手な約束破りの矛先変更に激おこの同盟者=小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)の北条氏康(ほうじょううじやす)が、謙信との同盟を求めて来たのです。
同年の6月に北条との同盟を締結させた謙信は、その2ヶ月後の8月・・・再び、松倉城攻略に乗り出すのです。
まずは小菅沼城(こすがぬまじょう=魚津市小菅沼)など周辺を攻撃して松倉城を孤立させた後、大軍で以って松倉城に迫る上杉軍でしたが、迎える椎名軍は、防御のために自ら城下町に火を放ち、この孤立状態のまま、約100日間の籠城に耐えぬきます。
もともと松倉城が天然の要害であった事や、例の一向一揆が味方していた事もあって、長期に渡る籠城に耐える事ができたのでしょうが、一方の攻める上杉軍にも人馬の披露激しく、しかも、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報を得た謙信は、やむなく、またもや松倉城を落としきれないまま、10月に兵を退く事になってしまいました。
とは言え、謙信にとって、この松倉は越中の中でも、屈指の手に入れておきたい場所・・・なんせ、松倉城の南には河原波金山&松倉金山という金の成る木、いや、山があったのですから・・・
やがて元亀二年(1571年)3月、3度目の松倉城攻略のため、大軍を率いて越中に侵攻した謙信は18日に富山城(とやまじょう=富山県富山市)を陥落させ、神保長職の求めに応じて、奪われた守山城を奪還すべく、庄川(しょうがわ)あたりまで攻め込み、念願の松倉城攻略へとこぎつけました。(3月18日参照>>)
一説には・・・
この時も、大軍で包囲したにも関わらず、なかなか落ちなかった松倉城に苦戦していたところ、「実は、宇都呂(うつろ=現在は廃村)の集落から密かに水を引き、同時に信濃からの食糧を運びこんでいるから」との噂を聞きつけた謙信が、宇都呂の集落を焼き払って水路を破壊し、東からの糧路を絶った事により、ようやく松倉城が落ちた・・・との話もあります。
とにもかくにも、この「元亀二年三月に、松倉城を、かの河田長親に与えた」(『三州志』より)との記録が残っていますので、やはり、ここでようやく松倉城を攻略した事は確かでしょう。
一方の康胤・・・この敗北によって椎名は、かなりの痛手を被り、弱体化の一途をたどる事となってしまいます。
一旦は謙信に降伏し傘下に収まるも、天正四年(1576年)に再び反旗をひるがえしたところを、やはり謙信に攻められ、その最期は蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)にて自刃したと伝わります。
ちにみに、前半のところで書かせていただいた通り、椎名康胤の後を継ぐ者は、長尾家から養子に入った長尾景直のみ・・・いち時は椎名小四郎(しいなこしろう)を名乗っていた彼ですが、何年後かの上杉VS織田の月岡野の戦いでは、、シッカリ上杉側の人として登場(9月24日参照>>)します。
なので、戦国武将としての椎名氏は、この康胤を最後に、事実上の滅亡となったのですが・・・
北陸を巡っての攻防戦は、まだまだ続きます。
次の戦いとなるのは、またまた寝返る神保長職に、「ついて行けんわ」と袂を分かつ神保覚広と、信玄に扇動された一向一揆衆が交戦する事になる【上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦】>>でどうぞ
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