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2017年5月12日 (金)

信玄を越えた?武田勝頼が高天神城を奪取

 

天正二年(1574年)5月12日、武田勝頼が徳川方の小笠原信興が守る遠江高天神城を包囲し、世に言う「高天神城の戦い」が始まりました。

・・・・・・・

とは言うものの、本邦戦国史上、「高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)と呼ばれる戦いは3度あります。

1度目は元亀二年(1571年)3月から・・・

もともとは、あの源平合戦の頃から、砦のような物が構築されていたらしい高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)ですが、清和源氏の流れを汲む今川氏(いまがわし)が、南北朝時代に駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)守護(しゅご=現在の県知事)になった事から、その配下の福島氏(ふくしまし)城代を務めていましたが、天文五年(1536年)の、あの花倉の乱(6月10日参照>>)で、勝利した今川義元(いまがわよしもと)が今川家の当主となり、逆に福島氏が没落した事で、その後は、やはり今川配下の国衆であった小笠原氏(おがさわらし)が城代として治めていました。

しかし永禄三年(1560年)に、あの桶狭間(おけはざま)で義元が倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ今川氏真(うじざね)の代になって今川に陰りが見え始めると、時の城主であった小笠原信興(おがさわらのぶおき=長忠とも)は、このタイミングで遠江に侵攻してきていた三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)の傘下へと、ちゃっちゃと鞍替えします。

ところが、ご存じのように、これらの今川の旧領地を狙っているのは家康だけではありません。

そう、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)という大物が・・・

一説には、義元亡き後の今川の領地のうち、駿河を信玄が、遠江を家康が切り取る話し合いが、あの織田信長(おだのぶなが)の仲介で成っていたとも言われる両者の関係ですが、永禄十一年(1568年)に家康が、掛川城攻防戦(12月27日参照>>)にて氏真を攻めて、戦国大名としての今川氏を事実上滅亡させると、今度は、その家康と信玄の直接対決で、お互いの取り分を決める争いと化して来るわけで・・・

とにもかくにも、北条氏とのゴタゴタ(【蒲原城の攻防】参照>>)にも忙しい元亀二年(1571年)3月、信玄は、家臣の内藤昌豊(ないとうまさとよ)に約2万の軍勢をつけ、この高天神城を攻めさせたのです。

この内藤昌豊は武田四天王の一人に数えられる猛将・・・しかも、守る城兵は、わずかに2000。

しかし、この高天神城・・・構築された山の高さ自体はさほど高く無いものの、山の斜面が急な、天然の要害に築かれているうえ、これまた、その要害効果を最大限に活かすナイスな場所にナイスな城郭を配置してある堅固な城で、さすがの大軍を率いても、容易に落とせるものではなく、結局、信玄は、自身の生涯で、この高天神城を落とす事ができないまま、元亀四年(1573年)4月12日、直前の野田城での戦い(1月11日参照>>)を最後に、この世を去ってしまうのです。

Takedakatuyori600a その信玄亡き後の武田を継いだのが、信玄の四男=武田勝頼(たけだかつより)です。

とは言え、ご存じのように、この勝頼は、本来は武田家を継ぐべき息子ではなく、母方の諏訪(すわ・長野県中部)地方を治めるべく育てられた人で、その名も、武田家の通字(とおりじ=その家系で代々に渡って名前に用いられる字)である「信」ではなく、諏訪家に用いられる「頼」の字が当てられ、いち時は諏訪勝頼(すわかつより)と名乗ってたくらい、それは周知の事でした。

よって、巡り巡って家督を継ぐ事になった時点でも、父の代からの重臣たちからは賛否両輪飛び交うばかりか、信玄の残した遺言もが、いかにも勝頼が中継ぎ投手と言わんばかりの内容だった(4月16日参照>>)ために、おそらく勝頼には、当主になった途端から、かなりの重荷を背負わされてる感があったと思われます。

しかし・・・
一般的には、カリスマ的な信玄から受け継いだ武田家を滅亡に導いてしまう事で、なにかと愚将扱いされる勝頼さんですが、実は、戦国最強の猛者だったとも言われ、それこそ、信玄も、そこを見込んでの後継者指名だったでしょうし、勝頼自身も、父に負けてはいない自分を見せたい願望もあった事でしょう。

そう、勝頼は、信玄の死後、ほとんど期間を置かず、父の遺志を引き継ぐかのように、領地拡大に乗り出すのです。

攻めて攻めて攻め抜いて、父の代よりも広大な領地を得て、武田家の強さを見せる・・・これこそが、カリスマ父を越える最短の手段であり、おそらく勝頼は、それが可能な猛将だったはずです。

そんなさ中、信玄の死からわずか2ヶ月後に、武田の傘下だった亀山城(かめやまじょう=愛知県新城市)奥平定能(おくだいらさだよし)信昌(のぶまさ)父子が徳川へと・・・一説には、「信玄死す」の機密情報を手土産しての寝返りだったとも・・・(9月8日参照>>)

遺言で「3年は隠せ」と言われた信玄の死ではありますが、そんなこんなで、おそらくは、すでに周囲の諸将に伝わった以上、隣国の家康だけでなく、彼と同盟を結ぶ信長やら、あの人やらこの人やら、戦国の猛者たちが動き出す事は必至なわけで、ヤラねばヤラれる戦国時代・・・まして、2年前の三方ヶ原(12月27日参照>>)で、父がコテンパンにやっちゃってるわけですから、受け継いだ勝頼も、ここで手を緩めるわけにはいきません。

かくして天正二年(1574年)、2月5日に美濃(みの=岐阜県)明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市)を陥落させた(2月5日参照>>)勝頼は、3ヶ月後の5月3日、2万余の大軍を率いて本拠の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・5月12日には、その大軍で、高天神城を包囲したのです。

これが2度目(第2次)高天神城の戦い

迎える信興は、わずかに1000・・・なので、当然の事ながら、包囲と同時に、家康へ救援要請を飛ばします。

一方、父の苦戦を知っている勝頼は、大軍で力攻めをするかたわら、おそらくは容易に落ちない事を踏まえて、家臣の穴山梅雪(あなやまばいせつ)に命じて、話し合いによる説得工作も展開しました。

救援が来るまで時間を稼ぎたい信興は、開城に応じるように見せかけながら、のらりくらりのかわし作戦。

しかし、救援を受けた家康も、「武田が2万以上の大軍」と聞き、さすがにこの時点での徳川には、そこまでの兵力は無かったため、即座に信長へ連絡を入れ、救援の救援を要請します。

その知らせが岐阜(ぎふ)の信長のもとに届いたのは6月4日・・・信長にとっては、この年の正月からややこしい事になっていた越前(えちぜん=福井県)一向一揆(1月20日参照>>)の動向が気になるところではありますが、ソチラは羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)丹羽長秀(にわながひで)らに任せ、自らは6月14日に岐阜を進発し、東へと向かいます。

しかし、当然の事ながら、この間にも勝頼の攻撃&説得工作は継続していたわけで・・・

『真田文書』(信濃史料)によると・・・
武田軍は、すでに5月28日には二&三の曲輪(くるわ=土塁・石垣・堀などで区画された城内の場所)を突破し本曲輪まで到達しており、もはや落城も時間の問題のように見えたのだとか・・・ただ、さすがに堅固をうたわれた城で、そこからなかなか先に進めなかったようですが、

しかし、わずかながらのこう着状態であっても、先の見えない戦時下では不安がつのるもの・・・

攻める勝頼にとっては、今日明日にも援軍が到着するかも知れないので、すばやく決着をつけたい・・・

一方、守る信興にとっては、その勝頼の気持ちがわかるぶん引き延ばしたいけど、いつ来るかわからない援軍を、どんどん窮地になる城内で、ずっと待っていられるのだろうか?という不安・・・

その間にも継続される攻撃と説得・・・やがて6月17日、何度目かの説得交渉で、勝頼から、駿河に1万貫の所領の約束を取り付けた信興は、城を開け渡す事にしたのです。

『横須賀根元記』によれば、
この時、開城を決意した信興は、城兵たちに対し
「この城は開け渡す=自分は武田につくけど、君らは、僕といっしょに武田に行くか、徳川につくかは自由にしてええからな」
と言ったのだとか・・・で、この時、信興とともに武田に降った者を「東退組」、徳川に行った者を「西退組」と呼ぶのだそうです。

ところで、高天神城が開城された17日・・・信長軍は、三河領の吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)に到着していましたが、その開城の一報が届いたのは2日後の19日、今切渡(いまぎれのわたし=静岡県湖西市:浜名湖南部の渡し船発着場)越えようとしていた時でした。

「もはや落城してしまったものはどうしようもない」
とばかりに、信長は、そのまま、吉田城へと引き返したとの事・・・

こうして、偉大なる父=信玄も落とせなかった高天神城を陥落させた勝頼・・・その喜びもひとしおだった事でしょう。

勝頼は、この時の一連の侵攻で、支城を含めて18もの城を落とし、遠江の東半分を制圧・・・まさに破竹の勢いで領地拡大を成し遂げていったわけですが、

そう・・・
このイケイケムードにストップがかかるのは1年後・・・有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いです。

それはもちろん、あの時、徳川に寝返った奥平父子・・・・彼らを、そのままにしておくわけにはいきませんから、当時、彼らが任されていた長篠城を攻めに・・・
勝頼軍が長篠城を囲んだのが4月21日>>
そして設楽ヶ原の決戦が5月21日>>

さらに、皆様ご承知の通り、この長篠で敗れてから7年後に武田は滅亡する事になるのですが、その滅亡に向かう一連の戦いの始まりとも言えるのが、今回の高天神城・・・

皮肉にも、今回、武田に落ちた高天神城を、家康が奪い返す3度目(第3次)高天神城の戦いが、武田滅亡へのカウンドダウンの始まりとなるわけで・・・それは天正九年(1581年)3月22日の事でした。

武田滅亡の関連ページもどうぞm(_ _)m
第3次高天神城の戦い>>
信長が甲州征伐を開始>>
田中城が開城>>
穴山梅雪が寝返る>>
高遠城が陥落>>
武田勝頼、天目山の最期>>
勝頼とともに死んだ妻=北条夫人桂林院>>

で・・・
ご存じのように、この3ヶ月後に本能寺の変があるので、もう、信長さんのエピソードが目白押し・・・さらにくわしくは【織田信長の年表】>>から、気になるページへどうぞm(_ _)m
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コメント

実に難しい話ですよね
勝頼も掛川城の方がより重要だと分かってはいたと思いますが、結局先回りされる形で増築されてしまったようで、高天神城を攻めたのは間違いとまでは言えないような気がします

いわゆる英語で言うところの「アーリーライザー」だったんですかねぇ
諏訪原城跡など呆れるほど高い城壁で徳川・武田と向かい合って残っていますが、徳川方の方が倍近い高さというところを見ると、遠征軍の方は高い土塁を積み上げるほどの役夫を連れてくるわけにもいかないので、拠点化を考えると元々高台にある高天神城を狙わざるを得なかったような気がします

投稿: ほよよんほよよん | 2017年5月15日 (月) 15時09分

ほよよんほよよんさん、こんにちは~

亡き父の遺志を継いだ者として、領地拡大も必須ですし、代替わりキッカケの寝返りを、そのまま見過ごすわけにもいきませんしね。

投稿: 茶々 | 2017年5月15日 (月) 15時52分

勝頼さんもうちょっと頑張って欲しかった。穴山梅雪あたりの取り巻きが悪かったかね?長篠合戦で突撃しすぎましたかね?真田昌幸をもっと信用していれば少しは違ったのか、信玄が偉大すぎたのか。個人的には勝頼大好きですよ

投稿: げん | 2017年5月16日 (火) 00時32分

げんさん、こんばんは~

最近では、「長篠の戦いで多くの戦死者が出たものの、それキッカケで、短期間でウマく世代交代が出来た勝頼は、かなりの統率力があった」と考える研究者の方もおられるようで…

勝頼さんの評価は徐々にあがって来ているみたいですね。

投稿: 茶々 | 2017年5月16日 (火) 02時22分

私も勝頼には一定の評価をしているのですが、
やはり本音に近いところでは勝頼は北条氏政に一杯食わされたような気がしています
北条家そのものが両関東公方や里見家などと争った件を除いて基本的に宥和政策ですし
四公六民等のいわゆる「善政」に代表されるスタンスで
これは江戸期にも継承されています

近年、真田昌幸らが活躍した
上野での武田領が国峰城を超えて広がっていたという研究があるようで
小田原城で防ぎきった経緯があるとはいえ
ゲームなんかでは結構強めの設定ですが、
実際の北条家はかなり弱かったのではないかと見ています
反面、豊臣(羽柴)秀吉による小田原攻めは兵糧が持たず結構きわどい勝負で、
山王門が井伊直政の攻撃を受け水路が陥落しなければ持ちこたえていた可能性もあるとか・・?

江戸末期も財政難から薩長相手に戦いきれなかった事情があるように
そもそもこのタイプの善政とか軽減税率とかいうのは
長い目で見て民衆のためなのか疑わしい一面はあると思います

北条氏政のような偽善者ではなく、重税を課してでも戦い抜いたという点は私もさすがだと思っています。
ただやはり色々な策が先読みされているので名将・・・とは、う~ん
という個人的な評価ですか
特に信玄時代からの同盟があるとはいえ、北条家との友好関係は将来を閉ざしたと感じます

投稿: ほよよんほよよん | 2017年5月19日 (金) 22時19分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

強いか弱いかというよりは、北条は、天下を取ろうとするのではなく、関東を独立国家のような感じで維持して行く事を考えていたように思います。

投稿: 茶々 | 2017年5月20日 (土) 03時31分

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