謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆(幸綱)
天正二年(1574年)5月19日、信濃(しなの=長野県)の豪族=真田の祖として知られる真田幸隆がこの世を去りました。
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真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)・・・
ご存じ!昨年の大河の主役=真田信繁(のぶしげ=幸村)のお祖父ちゃんであり、草刈さんの好演が光る真田昌幸(まさゆき)のお父ちゃんです。
とは言え、上記の通り、名前も複数あり、生まれた年もだいたいで、果ては、その父親すら決定打がないという謎の人・・・まぁ、あの北条早雲(ほうじょうそううん)しかり、美濃(みの=岐阜県)のマムシのおっちゃんしかり・・・戦国に入ってから力をつけた武家の初代っちゅーのは、往々にして謎多き感じなのかも知れませんが・・・
とにもかくにも、
第56代・清和天皇(せいわてんのう)(12月4日参照>>)の第4皇子である貞保親王(さだやすしんのう)の末裔とされる信濃の古い豪族=滋野(しげの)氏の嫡流で、小県(ちいさがた=長野県東御市)を支配していた海野(うんの)氏の海野棟綱(うんのむねつな)の長男もしくは次男、もしくは孫、もしくは娘婿とされる人物が幸隆・・・なので、海野棟綱につながる人物である事は確かでしょう。
そんな彼が、小県郡の真田庄(さなだしょう)に土着した事から、真田姓を名乗り始めたというのが、一般的で、故に、幸隆は真田の祖と称されます。
(注:娘婿説の場合は真田頼昌(さなだよりまさ)という人物が幸隆の父とされるので、この方が祖という事になりますが…)
てな事で、前半生がほぼほぼ謎な幸隆さんですが、そんな謎だらけになってしまう原因の一つと思えるのが、真田が、主家である海野氏もろとも事実上の滅亡に追い込まれた一件・・・(5月14日参照>>)
それは、幸隆が、おそらくは20代後半で、未だ弱小の土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)ではあるものの、周辺の領地に点在する海野一族の援護を受けつつ、領国経営に励んでいた物と思われる天文十年(1541年)の事・・・。
そこに、「領地拡大!」とばかりに侵攻して来たのが、大永元年(1521年)の飯田原の戦い(10月16日参照>>)に勝利して甲斐(かい=山梨県)一国を手中に治めた武田信虎(たけだのぶとら)です。
天文四年(1535年)、諏訪(すわ)氏と和睦した信虎は、佐久郡(さくぐん=長野県佐久市・北佐久郡・南佐久郡)へと侵出して海ノ口城(うんのくちじょう=長野県南佐久郡南牧村)を奪取(12月28日参照>>)・・・このために、佐久郡の大部分が武田に降る事となったのですが、真田含む海野一族は未だ抵抗を続けます。
そんな中、これまで敵対していた葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)の村上義清(むらかみよしきよ)と和睦した信虎は、その義清と、上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)の諏訪頼重(すわよりしげ)との3者連合軍で以って、海野城(うんのじょう=東御市本海野白鳥台)の海野棟綱を攻めたのです。
天文十年(1541年)5月14日、最も激戦となった海野平(うんのたいら)の戦いで敗北し(5月14日参照>>)、息子の海野幸義(ゆきよし)を失った棟綱は、やむなく逃走・・・関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を頼って上野(こうずけ=群馬県)へと亡命したのです。
もちろん、この戦いに、ともに参戦していたとおぼしき幸隆も、一族と同じく、箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)の長野業正(ながのなりまさ)を頼って亡命しています。
つまり、ここで事実上、真田は滅亡し、浪人の身となった幸隆・・・一説には、すべてを失い、身一つになったこの時に「残すは三途の川を渡るだけ(渡し賃が六文)」=「いつでも死ぬ覚悟はできている」という意味で、あの『六連銭(ろくれんせん=一文銭が6つ)』の旗印にしたのだとか・・・
(もともと海野氏の旗印だった説もありますが…(*´v゚*)ゞ)
って事は海野&真田にとってはにっくき武田・・・当然の事ながら、海野&真田は、亡命生活を送りつつも、かの憲政の上杉の威光を頼りに旧領の回復を模索するのですが、この後、幸隆だけは、一族と別行動をとる事になるのです。
実は、この海野平の戦いに勝利した直後、信虎は、その慰労も兼ねて、娘婿(長女=定恵院の結婚相手)であった駿河(するが=静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)のもとへ立ち寄るのですが、その間に、先に甲斐に帰国していた息子=晴信(はるのぶ)がクーデターを決行し、父=信虎を追放して新政権を樹立したのです(6月14日参照>>)・・・ご存じ、後の武田信玄(たけだしんげん)ですね。
こうして、武田を継いだ・・・いや、父から奪った信玄(当時はまだ晴信ですが信玄と呼ばせていただきます)は、父とは真逆の方針を打ち立て、諏訪とも村上とも同盟を破棄・・・翌・天文十一年(1542年)には諏訪への侵攻を開始し(6月24日参照>>)、当然、その後は村上義清とも敵対する(2月14日参照>>)事に・・・
敵の敵は味方・・・
そう、この時、幸隆にとっての1番の重要事項は、自らの領地=真田庄を取り戻す事です。
それを取り戻すためには・・・
先の戦いの後に、この真田庄を占領した村上義清と相対し、今や彼の敵となった信玄に与(くみ)するのが、旧領回復への最短の道!
恨みツラみを捨て、最も合理的な道を瞬時にして判断した幸隆・・・その先見の明は、なかなか大したものですね。
こうして、未だ上杉を頼る一族と離れて上野を脱出した幸隆は、武田への臣従を申し出るのです。
一説には、この時、信玄に幸隆を紹介したのは、名軍師として知られる、あの山本勘助(やまもとかんすけ)(2010年9月10日参照>>)だったとか・・・もちろん、信玄にとっても、ここらあたり=信濃東部の地の利を熟知している幸隆の存在は頼もしい限りですし、幸隆も、そこが自身のアピールポイントだったわけです。
以後、松尾城(まつおじょう=真田本城=長野県小県郡真田町)を本拠とし、武田軍の小県侵攻の先鋒として各地を転戦する幸隆は、信玄が攻めきれなかった戸石城(といしじょう:砥石城=長野県上田市上野)(9月9日参照>>)を、謀略によってアッサリ奪ったり、葛尾城の攻略(4月22日参照>>)にも一役かったり・・・
もちろん、その葛尾城奪取キッカケで越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と信玄が直接対決する事になる永禄四年(1561年)の川中島(9月10日参照>>)でも、嫡男=信綱(のぶつな)らとともに、あの啄木鳥(きつつき)戦法の別働隊として信玄をサポートしました。
永禄六年(1563年)の岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)攻略では、城中に「忍び」を放ち、敵方になっていた海野輝幸(てるゆき)らの内応を誘って、これを奪ったと言います(10月14日参照>>)。
さらに永禄九年(1566年)には、亡命でお世話になった箕輪城の長野さん(9月30日参照>>)にまでちゅうちょなく・・・
故に、幸隆は、「猛将」というよりは、『謀略の士』あるいは『謀将』などと呼ばれますが、それは、敵に回せばコワイものの、味方なら、これほど心強い味方はいないわけで・・・
そんなこんなの数々の功績により「信玄の懐刀(ふところがたな)」とまで称され、外様でありながら、譜代の家臣と同等の待遇を受けて、武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)の一人にも数えられた幸隆でしたが、いつしか病気がちになり、永禄十年(1567年)頃には隠居して、家督を嫡男の信綱に譲っていたとされます。
なので、義元亡き後の駿河への侵攻(12月13日参照>>)や、三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に代表される一連の「信玄上洛かも?」の戦いには、幸隆は参戦していません。
しかし、ご存じのように、この西上の途中で信玄は命を落とし(1月11日参照>>)、武田の行軍はストップ・・・軍団は、そのまま甲斐へと戻るわけで・・・
その信玄の死から約1年後の天正二年(1574年)5月19日、幸隆は戸石城にて病死します。
ところで・・・
死の1週間前の5月12日には、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)が、信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落城させています(5月12日参照>>)が、幸隆は、このニュースを聞いたのでしょうか?
先見の明があり、謀略に長けた幸隆が、もし、この一報を聞いていたとしたら、そこに感じた物は、
武田の「頼もしい未来」だったのか?
はたまた「危うき予兆」だったのか?
はたして、この、ちょうど1年後に勃発する長篠の戦い(5月12日参照>>)で、勝頼に従っていた嫡男の信綱、そして次男の昌輝(まさてる)もが討死にしてしまい、真田家は三男の昌幸が継ぐ事に・・・
しかし、ご存じのように、その後、武田は滅んでも(3月11日参照>>)真田は滅びませんでした。
それは、かつて、浪人からのし上がって『謀略の士』『謀将』と呼ばれた父=幸隆から、息子=昌幸が受け継いだ、ただ一つのゆるぎない目標=家を存続させるための智略をフル活用したなればこそ・・・
武田の滅亡から本能寺のゴタゴタにかけて、アッチに行ったりコッチに来たりして、豊臣の奉行たちから「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの=心中が読めないクセ者)」と称される事になる昌幸の真意測りかねる動向の数々は、周囲に何と言われようとも、そのただ一つのゆるぎない目標を実現させるための戦術だったわけです(6月4日参照>>)。
そして・・・そのただ一つのゆるぎない目標が、幸隆の孫たちである信之(のぶゆき=信幸)&信繁兄弟に受け継がれていく事は、皆さまご存じの通りでおます。
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コメント
茶々様、こんばんは。流石あの昌幸の父親ですね!生き残る為なら何でもする、格好良いです。『真田丸』の草刈昌幸は最高でしたよね。同時期にBSで『武田信玄』が放送されていて見てましたので、橋爪さんの幸隆も凄く良かったです。将棋盤持って売り込みに行くんですよね(^O^) 三谷さんは過去の大河ドラマから色々と狙って仕込んでましたよね。2つの大河が全く毛色の違うもので、しかし時系列が繋がっていたので両方共楽しく見る事が出来ました。
改めて、真田家は凄いなぁと思います!
投稿: | 2017年5月22日 (月) 01時33分
こんばんは~
『武田信玄』を見逃してしまっている私は、『風林火山』の佐々木蔵之介さんの印象ですね(*^-^)
いずれにしてもカッコイイです!
投稿: 茶々 | 2017年5月22日 (月) 02時45分
真田氏の強みは「男系家族」の点ですね。
も昌幸も子だくさんでした。幸隆が子だくさんだから信之・信繁のはとこと言う人も一定数いたでしょう。
そこへ行くと井伊家は男性が次々に死んでしまい、一時存亡の危機に立たされました。
最近思うのですが、戦国時代の真田家と井伊家の違いって何なんでしょう?家風で言えば「かかあ天下」であるかないかか?あるいは井伊家の方が途中までは男性が短命の家系であることか。
しかし、井伊家は戦国期の事を考慮したか江戸時代に入ると一転して子だくさんの時期もあります。幕末の井伊大老も10何人兄弟の末っ子だったとか。
投稿: えびすこ | 2017年5月22日 (月) 09時50分
えびすこさん、こんにちは~
真田家は女の子も複数いるので「男系」というより、やはり「子だくさん」って感じですが、この時代、子供が生まれても成人する確率が少ないですから、側室のような女性を何人持てるか?という、家の経済的な面もあるように思います。
投稿: 茶々 | 2017年5月22日 (月) 15時29分
真田丸のおかげで表裏比興の者から真田の一族を残すためだけを考えて戦った良い一族になりましたね。人は見方が変わると良いほうにも悪い方にも変わりますね、今までだいたい戦国ドラマの一部にでてくる昌幸は嫌なやつでしたよね(笑)幸隆爺ちゃんは良い役多くて、信之兄ちゃんは一瞬しかでてこないのがパターンでしたね
投稿: げん | 2017年5月24日 (水) 22時05分
げんさん、こんばんは~
やはりドラマや小説では、秀吉側や家康側かえら描かれる事が多いですからね~
彼らを翻弄する「憎いヤツ」って感じなんでしょうね。
その点、幸隆さんは信玄側から描かれる場合が多いので「強い味方」的な描かれ方が多い気がします。
投稿: 茶々 | 2017年5月25日 (木) 01時24分
真田幸隆の存在を初めて知ったのは、今から29年前に放送された、NHK大河ドラマ「武田信玄」において、俳優の橋爪功さんが演じている姿を見たのがきっかけでした。真田の名前が出てきたので、もしかしたら、真田信繁(幸村)に関係があるかもしれないと思いましたが、まさか信繁の祖父だとは、思いもよりませんでした。幸隆が、武田信玄(出家前は、晴信)に仕えたおかげで、最終的には、真田家が幕末まで存続することができたのではないでしょうか。幸隆は、先見性に優れた武将だといっても、過言ではないと思います。
投稿: トト | 2017年5月26日 (金) 10時04分
真田幸隆の存在を初めて知ったのは、今から29年前に放送された、NHK大河ドラマ「武田信玄」において、俳優の橋爪功さんが演じている姿を見たのがきっかけでした。真田の名前が出てきたので、もしかしたら、真田信繁(幸村)に関係があるかもしれないと思いましたが、まさか信繁の祖父だとは、思いもよりませんでした。幸隆が、武田信玄(出家前は、晴信)に仕えたおかげで、最終的には、真田家が幕末まで存続することができたのではないでしょうか。幸隆は、先見性に優れた武将だといっても、過言ではないと思います。
投稿: トト | 2017年5月26日 (金) 10時07分
トトさん、こんばんは~
そうですね。
幸隆には先見の明があったと思います。
投稿: 茶々 | 2017年5月26日 (金) 18時51分
記事にはあまり関係ありませんが
真田丸ブルーレイに未放送ムービーが収録されるようでウキウキです。ワンセット6万円なのがうむむ・・・という感じではありますが、私は買うと思います
あと、唐突ですが2020年リリースをめどに歴史ゲームを作ることになるかもしれません(全く違うギャグゲーム制作が専門なのですが…周囲から要望されている、、)
ところで記事にもどりますが、幸隆ら海野家が武田信虎らから排除されかかった理由は何なのでしょうか。常識的には扇谷上杉家へのご機嫌取りだとは思いますが…もちろん信玄が宥和
政策に切り替えたのは遠方の出陣でコストを掛けたくなかったということなのは分かりますが、信虎は北条家との和睦後も真田家とは敵対し続けたようなので、何かしら別の理由があったのかなとか思っています
投稿: ほよよんほよよん | 2017年5月27日 (土) 21時17分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
どうなんでしょうねぇ。。。
信虎にしてみれば、未だ領地拡大の途中で、息子に交代させられた感じですから、「海野や真田だけを排除」ではなく、これからもっと遠くへ…のつもりだったかも知れませんね。
世は戦国ですから、この先、村上や諏訪との同盟も永遠とは限りませんものね。
投稿: 茶々 | 2017年5月28日 (日) 01時06分