永正の乱~越後守護・上杉定実VS守護代・長尾為景
永正十一年(1514年)5月26日、永正の乱と呼ばれる一連の戦いの中で長尾為景が攻めていた岩手城が落城し、城主の宇佐美房忠が討死にしました。
(永正の乱とは、永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱で管領家の内紛や古河公方の内紛なども含みますが、今回は「岩手城落城」の日付に合わせ、越後における永正の乱のお話させていただきます)
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ご存じ、越後(えちご=新潟県)の王者=上杉謙信(うえすぎけんしん)ですが、彼が登場する前の室町幕府政権下での越後は、鎌倉公方(かまくらくぼう=京都にいる将軍に代わって関東を治める足利尊氏の四男・基氏の家系)の執事(しつじ=‘管領)の家柄である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)につながる越後上杉家が代々守護(しゅご=現在の県知事)を務め(9月19日参照>>)、その配下としてサポートする守護代(しゅごだい)が長尾家でした。
しかし、明応三年(1494年)に、当時の守護だった上杉房定(うえすぎふささだ)が亡くなり、息子の上杉房能(ふさよし)がその後を継いで方針転換した事から、両者の関係がギクシャクし始め、永正四年(1507年)8月、守護代だった長尾為景(ながおためかげ)が、房能の養子の上杉定実(さだざね)を味方に引き入れ、幕府に働きかけて新守護に定実を擁立し、武力で以って房能を追いだして自刃に追い込みました(8月7日参照>>)。
この一件に怒り心頭なのが、房能の兄で当時は関東管領を務めていた上杉顕定(あきさだ)・・・その報復とばかりに、永正六年(1509年)に反為景派の勢力を結集して越後へ攻め入り、定実&為景らを越中(えっちゅう=富山県)へと敗走させて、自ら越後を統治します。
ところが、その翌年、曲がりなりにも幕府から守護として認められている定実の「越後奪回」を旗印に為景らは挙兵・・・味方になってくれた信濃衆(しなのしゅう=信濃の国人豪族)の高梨政盛(たかなしまさもり)の活躍で長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市)の戦い(6月20日参照>>)に勝利し、負けた顕定は自刃(討ち取られたとも)に追い込まれました。
こうして、再び越後に戻った定実&為景には、しばらくの間は平穏な日々が続く事になるのですが・・・
お察しの通り・・・
守護の座にありながら、事実上は、国政のほとんどを為景が仕切る事に定実が、徐々に不満を募らせていく・・・当然ですが、越後の中でも皆が皆、為景に好感を持っているワケでは無いですし、守護である以上、その定実を純粋に盛り上げたいと思う者もいるわけで・・・
そんなこんなの永正十年(1513年)、為景は、定実派の宇佐美房忠(うさみふさただ=宇佐美定満の父とされる)らが、先の戦いでの活躍の影響で信濃衆の中で高梨が力を持つ事に懸念を感じていた島津貞忠(しまづさだただ)をはじめとする信濃衆の井上氏(いのうえし)・栗田氏(くりたし)・海野氏(うんのし)などの仲間を集めて挙兵の準備をしているとの噂を耳にします。
案の定、その年の8月に入ると、彼ら信濃衆は、関川口(せきがわぐち=新潟県妙高市付近)や上田口(うえだぐち=新潟県南魚沼s市付近)に集結し、あからさまに侵攻する機会をうかがう様子・・・これを受けた為景は、長尾房長(ながおふさなが=上田長尾家)や、揚北衆(あがきたしゅう=越後北部の国人豪族)の中条藤資(なかじょうふじすけ)などに声をかけて出陣を要請しました。
対する宇佐美房忠は、9月29日、揚北衆の一人である安田城(やすだじょう=新潟県阿賀野市)の安田長秀(やすだながひで)を攻撃すべく新発田(しばた=新潟県新発田市)を進発します。
これを迎え撃つべく出発した為景方の長尾房景(ながおふさかげ=古志長尾氏)&福王寺掃部助(ふくおうじかもんのすけ=友重?)らは、10月21日に沼河(ぬなかわ=新潟県糸魚川市)にて房忠軍と遭遇・・・合戦は房景らの勝利となりました。
一方、それらの遭遇戦と前後して、為景は、自ら兵を率いて房忠の小野城(おのじょう=新潟県上越市柿崎区)を取り囲みます。
しかし、この状況をチャンスと見た上杉定実・・・その為景の小野城攻撃中の留守を狙って、彼の居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を奪い取ったのです。
一報を聞いて、慌てて春日山城に戻った為景は、すぐさまを城を取り囲み、アッ言う間に定実を生け捕りにして、自らの館に幽閉・・・10月28日には、再び小野城に出陣して房忠討伐に取りかかりますが、今度は定実派の信濃衆が房忠を援護すべく為景に対抗・・・
しばらくの間、一進一退の小競り合いが続きますが、翌・永正十一年(1514年)1月16日の上田庄(うえだしょう=新潟県南魚沼市)の戦いに、為景方の長尾房長らが勝利した事で、為景方に形勢が傾き、その年の5月からは兵を増強して、集中的に小野城へ攻撃を仕掛けました。
この集中攻撃に、耐え切れないと判断した房忠は小野城を捨て、守り堅い要害である近くの岩手城(いわてじょう=同・柿崎区)に移動しますが、もはや傾き始めた形勢を逆転する事ができず、永正十一年(1514年)5月26日、岩手城は落城し、房忠以下、一族はことごとく討死ににして果てたと言います。
この勝利により、長きに渡った守護VS守護代の戦いは終了となり、以降は、守護=定実は存在するものの、完全無視!
為景が越後の国政の実権を握って采配を振る事になります。
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
(この図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
ただ・・・一説には、
岩手城落城の際に、一族の中で房忠の息子ただ一人だけが、片倉壱岐守(かたくらいきのかみ)なる人物に守られながら、伊達稙宗(だてたねむね=独眼竜政宗の曽祖父)を頼って羽前(うぜん=山形県)へ逃れたとの情報も・・・
ご存じの方も多かろうと思いますが、この稙宗さん・・・伊達家を奥州随一に引き上げる名将でありますが、一方で、息子=晴宗(はるむね)との壮大な父子ゲンカ=天文の乱(洞の乱)をやった人でもあります(4月14日参照>>)。
実は、そのケンカの原因の一つには、後継ぎ息子のいなかった上杉定実のもとに、自らの三男=伊達実元(さねもと=つまりは晴宗の弟)を養子に出そうとしていた稙宗の計画を、息子の晴宗が猛反対したという事もあったようで・・・
なんか、
定実
房忠 △ 稙宗
みたいな三者関係が見えて来るような来ないような・・・
結局、この養子縁組は実現せず、定実は後継ぎがいないまま天文十九年(1550年)に病死・・・越後守護家が断絶した事を受けて、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる)の命によって、ここで正式に越後守護職を代行する事になったのが、為景の息子=長尾景虎(ながおかげとら)・・・後の上杉謙信なのですよ。
やはり、コチラも・・・
今後の上杉と伊達の関係が見えて来るような、来ないような・・・歴史っていろんな所でつながってるんですね~
と、しみじみo(*^▽^*)o
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コメント
長尾為景についても最近は研究が掘り下げられているようで、敗戦も幾つかあり、意外と椎名家に対して劣勢だった時期もあり、越後統一に一辺倒の人物でもなかったらしいですね。
しかし、それにしても室町時代中期の関東における上杉家の発言権の大きさには驚かされます
奥州がそうだったように、上杉家も分家に分かれすぎたことで勢力が分散し戦国化が漸く可能になったという印象で、もし一枚岩なら関東や北越には戦国時代が来なかったかもしれませんね
投稿: ほよよんほよよん | 2017年6月 8日 (木) 07時39分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
上杉同士で色々ありましたからね。
そもそも関東は足利が制御できて無かったですしね。
投稿: 茶々 | 2017年6月 9日 (金) 01時57分