室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い
永正十七年(1520年)5月5日、細川高国が三好之長を破った等持院表(とうじいんおもて)の戦いがありました。
・・・・・・・・・・・・
室町幕府将軍を補佐する立場にある管領(かんれい)が、現将軍=第10代足利義稙(あしかがよしたね:義材・義尹)を廃して、自らの意のままになる将軍=第11代足利義澄(よしずみ)を擁立するというクーデター=明応の政変(めいおうのせいへん)を(4月22日参照>>)をやってのけた細川政元(ほそかわまさもと)が永正四年(1507年)6月に暗殺され(6月23日参照>>)、その3人の息子=全員養子の間で勃発した後継者争い・・・
関白・九条政基(まさもと)の子=澄之(すみゆき)。
阿波(あわ=徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)。
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の高国(たかくに)。
はじめは、お互いに協力して、澄之の追い落としを謀った澄元と高国でしたが(8月1日参照>>)、予想通り、澄之亡き後に対立・・・
やがて周防(山口県)の大物=大内義興(よしおき)を味方につけた高国は、亡き政元に追放されていた前将軍の義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)8月の船岡山の戦いで勝利・・・一方の澄元は摂津(せっつ=大阪府)へ敗走後、地元の阿波へと逃亡しました(8月24日参照>>)。
勝利した高国と義興は、義稙を将軍職に復帰させて政権を掌握・・・こうして、しばらくの間は、この高国政権下で平穏な日々が続きます。
・・・が、
そう、実は、このしばしの平穏は、高国政権確立のために、しばらくの間京都に滞在していた大内義興のおかげだったようで・・・
案の定、義興が領国の周防に戻った永世十五年(1518年)頃から、澄元の動きが活発になって来ます。
翌・永世十六年(1519年)11月、それまで阿波に引っこんでいた澄元は、阿波細川家に仕える家臣=三好之長(みよしゆきなが)とともに兵を挙げ、海を渡って兵庫へ上陸し、高国配下であった越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)の瓦林政頼(かわらばやしまさより=正頼)を攻めたてます(1月10日参照>>)。
これを受けた高国は、その救援のために約5000の兵を従えて向かいますが、その力足りず・・・翌・永正十七年(1520年)の2月3日に越水城が落城してしまったため、やむなく京都へと退こうとします。
が、夜陰に紛れて後退する高国軍を、澄元に同調する国衆=西岡衆(にしのおかしゅう=京都・乙訓地域の自治を担った武士集団)が襲撃・・・動揺した高国は、さらなる襲撃を恐れて近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=大津市)へと逃れます。
この時、将軍=義稙にも、「ともに近江へ…」と声をかけたものの、義稙は、それを拒否・・・残念ながら、義稙の心は、すでに高国から離れ、澄元へと移りつつあったのです。
やむなく、将軍を奉じる事なく近江に向かった高国は、近江守護の六角定頼(ろっかくさだより)を頼ります(この時の六角氏は定頼の父=六角高頼が主導の説もあり)。
一方、勝利した澄元・・・自身は、その本拠を伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)に置き、3月には、之長率いる三好勢が京都へと入りました。
ここで、一時的に政権を握った形になった澄元側・・・しかし、さすが、近江に逃れたと言えど政権保持者の高国は、この間に、頼った六角氏だけではなく、越前(えちぜん=福井県)や美濃(みの=岐阜県)、丹波(たんば=兵庫県北東部・京都府中央部)などの有力武将に声をかけ、彼らの援軍を得ていたのです。
こうして、合計=4万とも5万とも言われる大軍となった高国軍・・・5月3日、まずは定頼が、弟の大原高保(おおはらたかやす)を陣代に据えた一軍を、琵琶湖西岸の山越えで京都に入らせ、鴨川東岸の吉田河原(よしだかわら)に布陣させます。
続いて約7000の丹波の援軍が船岡山(ふなおかやま=京都市北区)に到着・・・2日後の5日には、高国自ら率いる本隊が鴨川を渡って上京へと入り、相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)付近に到着しました。
こうして、等持院(とうじいん=京都市北区)に待機していた三好軍を北と東から挟む形に・・・
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして永正十七年(1520年)5月5日正午頃、政権争奪を賭けた市街戦が等持院の東南で展開される事と相成ります。
士気衰える事無くヤル気満々で決戦に挑んだ三好軍ではありましたが、伝えられるその数は、わずかに4~5000であったと言われ、さすがに4~5万の軍勢に囲まれては太刀打ちできず・・・奮戦も空しく、夕刻には勝敗が決しました。
この敗戦を受けて、之長は逃亡を図りますが、逃げきれずに捕縛され、6日後の5月11日に百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ=京都市左京区)にて切腹・・・同じく捕縛された之長の息子=芥川長光(あくたがわながみつ)&三好長則(みよしながのり)兄弟も、父の後を追うようにして切腹して果てました。
知らせを聞いた澄元は、伊丹城を出て播磨(はりま=兵庫県南西部)に向かい、赤松氏の支援を受けて阿波へと逃亡しますが、約1ヶ月後の6月10日、その阿波にて志半ばのまま、32歳の若さで病死してしまいました。
一方、あの時、高国が「ともに近江へ…」と誘ったにも関わらず、行動をともにしなかった将軍=義稙・・・当然ですが、この時に険悪なムードになった二人の関係も修復される事はありませんでした。
その後も、京都を離れて、高国の討伐を画策する義稙ですが、もはや従う家臣もほとんどおらず、淡路島に滞在した後、讃岐(さぬき=香川県)の細川家を頼って四国へやって来ますが、わずか3年後の大永三年(1523年)4月、彼もまた阿波国の撫養(むや=徳島鳴門市)にて病死するのです。
この間に高国は、先の第11代将軍=足利義澄の息子である足利義晴(あしかがよしはる)を第12代室町幕府将軍として擁立し、あの西岡衆をも攻撃し、確固たる高国政権を樹立するわけですが・・・
等持院…くわしい場所は、本家HP=京都ぶらり歴史散歩の「きぬかけの道」のページでどうぞ>>
細川澄元に三好之長・・・さらに、対立した将軍まで亡くなって、まさにわが世の春となった高国ですが、そんな彼の前に登場するのは、無念の死を遂げた澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、之長の孫(息子説もあり)=三好元長(みよしもとなが=長慶の父)・・・
この後、世代交代した澄元勢が、高国打倒に向けて動き始めるのは、今回の等持院表から6年後の大永六年(1526年)10月・・・
そのお話は、
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>で、ご覧あれ!
とにもかくにも、彼らの京都争奪戦が、後の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)からの織田信長(おだのぶなが)の畿内掌握(9月29日参照>>)・・・と、皆さまご存じの戦国絵図へとつながっていくわけです。
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 斎藤道三の美濃取り最終段階~相羽城&揖斐城の戦い(2024.12.11)
- 斎藤道三VS織田信秀の狭間で鷹司が滅びる~大桑城牧野合戦(2024.12.04)
- 松山城奪取戦~上杉謙信と北条氏康の生山の戦い(2024.11.27)
- 戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎(2024.11.20)
- 奈良の戦国~筒井順賢と古市澄胤の白毫寺の戦い(2024.11.14)
コメント