上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦
元亀三年(1572年)6月15日、上杉配下の鰺坂長実&山本寺定長らが越中・加賀一向一揆と呉羽山にて交戦して敗れ、日宮城が開城されました。
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これまでも、何度かご紹介しています戦国期の越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・
射水(いみず=富山県射水市)や婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)の神保長職(じんぼうながもと)、
や
新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)の椎名康胤(しいなやすたね)
などなど
もともと、この越中に根を張る彼らの争いに、越中を支配下に治めたい越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=輝虎・長尾景虎)と、謙信を叩いておきたい甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん=晴信)が関与して、時には敵味方が入れ替わったりなんぞしながら、何度も合戦をくりかえしていたわけですが・・・
★これまでの戦い
永禄三年(1560年):増山城&隠尾城の戦い>>
永禄十一年(1568年):松倉城攻防戦>>
↑この間に、謙信と信玄が何度も川中島で戦ったり(8月5日参照>>)、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)が暗殺されたり(5月19日参照>>)、信玄が信濃(しなの=長野県)を攻略したり(8月7日参照>>)、
また、永禄十一年(1568年)の松倉城攻防戦の直後には、その前年に美濃(みの=岐阜県)を手に入れた(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が次期将軍の足利義昭(よしあき=義輝の弟)を奉じて上洛したり(9月7日参照>>)、信玄が完全に今川潰しにシフトチェンジしたり(12月12日参照>>)、
と、情勢がめまぐるしく変わります。
そんなこんなの元亀二年(1571年)、3度目の松倉城攻撃で、やっと城を陥落させた謙信は、この時点で越中のほぼ半分を手に入れた事に・・・(上記の松倉城攻防戦の後半部分参照>>)
しかし謙信がこの北陸方面の戦いに夢中になっていたばっかりに・・・
その松倉城のページでも書かせていただいたように、実は、甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐×相模×駿河の同盟)(3月3日参照>>)を勝手に破棄して駿河(するが=静岡県東部)の今川を攻めはじめた信玄に、激おこの元同盟者=相模(さかみ=神奈川県)小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)の北条氏康(ほうじょううじやす)が、敵の敵は味方とばかりに、この時点で謙信に同盟を申し込んで来て、両者は同盟を締結させていたわけですが、
その後、信玄が度々北条傘下の城を攻撃したりして来た(3月17日参照>>)ので、その都度、氏康は謙信に援軍を要請していたにも関わらず、上記の通り、忙しい謙信は、ほとんどその要請を無視していたわけで・・・
しかも、謙信は、すでに永禄二年(1559年)の時点で関東管領並み(6月26日参照>>)だったわけで、事実上関東支配している北条と仲良くいくはずもなく・・・
結局、元亀二年(1571年)10月の氏康の死(10月3日参照>>)をキッカケに、後を継いでいた息子の北条氏政(うじまさ)は、謙信と縁を切って武田との同盟を復活させたのです。
この間、自身は、この4ヶ月後に出発する例の西行(上洛目的?)(10月3日参照>>)の、すでに準備段階に入っていたとおぼしき信玄は、「さすがに北陸まで手が回らない」とばかりに、奥さん=三条の方(さんじょうのかた=妹が本願寺顕如の嫁)(7月28日参照>>)の縁をフル活用して加賀&越中の一向一揆を焚きつけて、謙信の行く手を阻もうと画策する一方で、今は謙信の味方となっている神保長職を説得工作で味方に引き入れて、これまで敵対していた越中一向一揆とも和睦させました。
しかし、信玄の呼びかけに応じてアッサリ寝返る事に納得がいかない長職の家臣=神保覚広(じんぼうただひろ)と小島職鎮(こじまもとしげ=日宮城代)は、謙信への義を重んじて長職に反発・・・覚広が城主を務める日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)に立て籠もったのです。
明けて元亀三年(1572年)5月、信玄の呼びかけに応じた形で砺波(となみ=富山県南西部)や五位庄(ごいのしょう=富山県高岡市)などに集結した加賀&越中の一向一揆連合軍は、そこから北陸街道を東に向けて進発したのです。
この一報を聞いた覚広は、すぐさま新庄城(しんじょうじょう=富山市新庄町)の鰺坂長実(あじさかながざね)に援軍を要請・・・それを受けた長実は、これまたすぐに、この状況を春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)の謙信に報告します。
それを受けた謙信は、味方の戦勝祈願をするとともに山本寺上杉家(さんぼんじうえすぎけ=越後上杉家の一つ)の当主=山本寺定長(さんぽんじさだなが)を援軍として派遣しました。
そうこうしている間にも、一向一揆衆の進軍は進み、やがて日宮城は一揆衆に包囲されてしまいます。
未だ到着せぬ援軍に心焦る覚広は、再び新庄城に急使を派遣し、
「もし、到着が遅れるようなら、一部の兵を呉羽山(くれはやま:五福山=富山市の西部)に登らせて景気づけの声援を送ってくれ!」
と頼みます。
そこで、味方となってくれた魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)主の河田長親(かわだながちか)とも協議の末、早速、鰺坂長実&山本寺定長らは呉羽山に討って出る事になりましたが、予想以上の大軍に膨れ上がった一揆軍の攻撃は激しく、結局、呉羽山を支える事が出来ずに退却をし始めますが、その時に神通川(じんつうがわ)の渡し場で猛攻を受けた事で、一揆側に神通川を抑えられてしまいます。
そうなれば、もはや援軍も期待できず・・・日宮城は孤立状態となってしまいました。
かくして元亀三年(1572年)6月15日、「もはや勝ち目なし」と悟った覚広らは、やむなく一向一揆衆に和睦を申し入れ、日宮城は開城となったのです。
開け渡しの隙に、主だった武将たちは、なんとか城を脱出・・・山づたいに石動山(いするぎやま)の天平寺(てんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町付近)へと逃げ込んだのでした。
一方、勢い止まらぬ一揆勢は、その日のうちに、富山城(とやまじょう=富山県富山市)をも占拠してしまいました。
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
こうして日宮城の戦いは上杉勢の敗戦に終わりましたが、この結果を聞いて激怒した謙信は、この2ヶ月後の8月15日、今度は、謙信自ら兵を率いて春日山城を出陣し、一路越中へ・・・新庄城を拠点に、一向一揆衆が占拠する富山城を囲む事になるのですが、そのお話は、いずれまた、その日付で書かせていただきたいと思います。
にしても・・・
普段、デレビ等の歴史番組で見かける謙信さんのお話は、ほとんどが川中島で、北陸なら、天正に入ってからの信長との七尾城(9月13日参照>>)か手取川(9月18日参照>>)なんかにお目にかかるくらい?で,すが、
こうやって見ると、意外に、頻繁に富山に来てはるんですね~~~っと、仕事の関係で10年間富山に住んでいた事のある茶々は、親しみを感じるのであった(*^-^)
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コメント
詳しく取り上げていただきありがとうございます
上杉謙信は合戦はもちろん味方の裏切り、代替わり、越後支配の称号を手に入れるのにでも大変苦労している一方で、足利家→信長と友好関係を結べたのは幸運だと思います。
が、その唯一のラッキーを自分から破棄して手取川で勝つには勝ちましたが敵対していったのがよくわからない人物ですよね
北条三郎(上杉景虎)がそんなに良かったんですかね・・・
他に理由が全くわからないです
投稿: ほよよんほよよん | 2017年6月15日 (木) 17時15分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
そうですね。
越前はともかく、越中は、やはり謙信にとって手に入れておきたい場所だったのかも知れませんね。
そこに、越前を制した信長が手を伸ばして来た…という感じだったのでしょうか?
投稿: 茶々 | 2017年6月16日 (金) 01時30分
それは私もあると思っていました!
原本が残っていないので確証はないですが、
柿崎景家か河田長親を通じて信長の朱印状が4通(?)上杉謙信の元に送られた可能性もあるそうです
最近出てきた長曾我部元親への信長の書状も土佐一国の安堵のみしか認めないきつい内容でしたから、武田勝頼が長篠の戦いで敗れた直後に所領の分配に関する約束(というか信長の命令)が届いて、それが謙信の意に沿わない内容だった可能性はあると思います。
元々越中は上杉領と思っていたところ、それは全て取り上げられて、代わりに勝頼の所領は攻め込めば自由に取って良いというような内容ではなかったかと個人的には思っています
投稿: ほよよんほよよん | 2017年6月16日 (金) 19時53分
ほよよんほよよんさん、こんにちは~
あくまで個人的な感じ方ですが…
信長は謙信に対して、かなり気をつかってた感があるので、「領地召し上げ」とか「切り取り次第」みたいな上から目線のような話かたはしないように思います。
やはり、以前のページ>>に書かせていただいているように、神保氏張が信長についた事とかが大きいように思います。
このページの内容のように、それまでは、敵対する越中国人や越中一揆の後ろには信玄の影が見え隠れしていたのが、信玄亡き後には信長が見え隠れしはじめて、「今度はお前かい!」みたいな?
投稿: 茶々 | 2017年6月17日 (土) 13時05分
私も基本的には茶々様の方が本筋かなぁと思っているのですが、特に落ち度もなく戦場での覚えめでたい柿崎景家が、急に処刑された理由がよくわかりませんし(これは個人的には俗説ではなくやはり事実だと思っています)、河田長親も本能寺の変後に息子が意味不明な形で暗殺され、河田家の知行が削られています。
話をそのまま取り次いできた(あるいは織田家の勢力を考えて妥当だと思って持ち帰った)柿崎景家に謙信が逆切れしぶった斬ってしまい、その後の取次になった河田長親は前例を恐れて謙信のイエスマンとなって魚津城の玉砕などを招いたとして、ほかの家臣から恨みを買ったと考えるのが自然かなぁと思った次第です
投稿: ほよよんほよよん | 2017年6月23日 (金) 23時06分
信長が従来の謙信を持ち上げるような態度から転換した理由としては、長篠合戦で南方に武田軍が寄っているのに、北信濃に攻め込まなかったことを同盟の不履行とみなしたからではないでしょうか。
高坂昌信らが海津城で8000で守備していたという話が残っていますが、例の動員シミュレータープログラムによると、勝頼が長篠まで14000を出陣、南下させると、北信濃で武田軍が用意できる兵力は3800と出ています。資料をそのまま解釈すると、要するに当時、実際には足りない兵力をブラフとして8000と言っていたということかと思います。
そうだとしても、1575年時点での謙信側の動員力は11300と推定されるので、信長が伸るか反るかわからないような危ない戦をしている最中、中立を保つような勝手な行為に不快感を持つのは自然ではないかと思います
投稿: ほよよんほよよん | 2017年6月23日 (金) 23時12分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
柿崎さんに関しては亡霊の話>>まで書いちゃってる私ですが、史実としては、柿崎さんがお亡くなりになった頃は、まだ上杉と織田は仲良かったんじゃないかな?と思っています。
投稿: 茶々 | 2017年6月24日 (土) 03時41分
柿崎さんが処断されたのはにわかに思えません。
もし謙信に他家との交わりで処断されたのであれば当然柿崎家は景家が斬られるだけでは済まない話になり次代の晴家が何事もなかったようにのうのうと柿崎城と周囲の所領を安堵されながら出てくるのはおかしいです。
それに景家さんの話はたしかに信長とまだ完全に切れる前だったと私も記憶しています
投稿: パンチ | 2017年12月24日 (日) 03時47分
パンチさん、こんばんは~
これは、上記のコメントの中にある亡霊の話>>のページへのコメントですよね?
おっしゃる通り、「怪談話」という物は話半分として受け取るのが良いかと思います。
謙信の死が、急死だった事から、後世に色々と取りざたされたのだと思います。
投稿: 茶々 | 2017年12月24日 (日) 04時45分