三好長慶が天下を取る~江口の戦い
天文十八年(1549年)6月24日、三好長慶が三好政長に勝利して事実上、戦国初の天下人となる江口の戦いが終結しました。
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室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後、3人の養子によって行われた後継者争いで、故郷の阿波(あわ=徳島県)に退去して無念の死を遂げた父=細川澄元(すみもと)に代わって敵対勢力を倒し(2月13日参照>>)、時の将軍=第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)とも和睦して、事実上、政権を掌握した細川晴元(はるもと)・・・
阿波時代から、晴元の重臣として活躍していたのが、三好元長(みよしもとなが)+三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟ら三好一族でしたが、そんな晴元が政権樹立が見えたタイミングで、もともと次期将軍候補として擁立していた足利義維(よしつな=義晴の弟)をアッサリ捨てて、上記の義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)
しかし、そんな元長の後を継いだ息子の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、その身が未だ11歳の若さであった故か?父の仇を討つ事無く従順に晴元に仕え、着々と細川政権内での地位を獲得していき、やがて1-2を争う重臣となっていくのですが、一方で、父の一件のせいか?晴元は何かと政長を優遇し、あのドサクサで政長の物となっていた亡き父の官職も返してはもらえぬまま・・・
政長は阿波時代からの長老とは言え、血筋から見れば、三好の総帥は長慶・・・一族の中で政長だけが突出してしまうと一族間での乱れも生じる事から、長慶はその旨、晴元に様々訴えるのですが、晴元は聞く耳持たず、相変わらず、政長と、その息子=三好政康(まさやす=宗渭・政勝、三好三人衆の一人)にベッタリ。
その間の天文十二年(1543年)には、後継者争いの3人の養子のうちの一人=細川高国(ほそかわたかくに)(6月8日参照>>)の後継者(養子)の細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて挙兵したりの一件(9月14日参照>>)もありながらも、まだ平静を保っていた長慶でしたが、
やがて天文十七年(1548年)、政康のたび重なる不祥事?あるいは、父の死に政長が関与していた事をこの時点で知った?(様々な理由が推理されます)などなど・・・とにもかくにも、ここで「もう我慢できひん!」となった長慶は、晴元に政長父子の討伐を願い出ますが、やはりこれも却下・・・
「そこまで政長の味方しはるんやったら、晴元さんも敵とみなしまっせ!」
とばかりに軍事行動に出る覚悟を決めた長慶は、舅(側室の父)の若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)主=遊佐長教(ゆさながのり)に声をかけます。
一方、この長慶の行動を、謀反と判断した晴元の舅でもある近江(おうみ=滋賀県)の雄=六角定頼(ろっかくさだより)は、和泉(いずみ=大阪府南部)の細川元常(ほそかわもとつね)や紀州(きしゅう=和歌山県)の根来衆(ねごろしゅう=根来寺を中心とする僧兵たちの集団)などに出兵を要請します。
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして翌・天文十八年(1549年)2月、尼崎に出陣した長慶は、3月に入って、別働隊を駆使して政長に与する細川晴賢(ほそかわはるかた)の中嶋城(なかじまじょう=大阪市淀川区)を攻める一方で、その東に位置する柴島城(くにじまじょう=大阪市東淀川区)も攻め、その南にあたる政康の居る榎並城(えなみじょう=大阪市城東区)を追い込んで包囲・・・政長はなんとか伊丹城へと退却しましたが、長慶勢に包囲された榎並城は、以後、籠城戦となります。
これに対して晴元は近江へと赴いて、六角定頼らの出陣を要請した後、摂津多田の塩川城(しおかわじょ=兵庫県川西市)に入り、4月28日には武庫郡(むこぐん=兵庫県西宮市の大部分と宝塚市&尼崎市の1部)一帯に放火・・・翌日には、晴元に与する伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)の伊丹親興(いたみちかおき)も尼崎周辺に放火して回りました。
これは、上記の榎並城を包囲する別働隊と、越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)の長慶本隊とを分断する作戦・・・こうやっておいて、晴元&政長で以って政康を援護しようというわけです。
5月2日には、これから来てくれるであろう六角軍に備えて、三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)の城将=香西元成(こうざいもとなり)に、長慶方の芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう)が守る芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)を攻めさせようとしますが、
それを阻止すべく惣持寺(そうじじ)の西川原(大阪府茨木市西川原)で待ち構えていたのが三好長逸(ながやす=三好三人衆の一人で元長の従兄弟とも)でした。
ここで香西隊の行軍が阻止されたため、政長は伊丹城から三宅城へと移動・・・晴元も塩川城から三宅城へと移動しました。
そんなこんなの6月11日、政長は三宅城を出て江口城(えぐちじょう=大阪市東淀川区)に入ります。
この江口は、北中島の東北隅に位置しており、淀川と神崎川によって3方を囲まれた天然の要害・・・ここを拠点にゲリラ戦を試みて三好軍を妨害しつつ、やがて北東方面からやって来るであろう六角氏の援軍を待つ作戦でした。
この動きを見た長慶は、自らの弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>)と十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った)(5月1日参照>>)を別府(べふ=大阪府摂津市)の川畔に派遣・・・三宅城と江口城の連絡を断ち、兵糧の道を断ち、かつ東西から江口を挟み込む作戦です。
かくして天文十八年(1549年)6月12日、世にいう江口の戦い=長慶VS政長&晴元の最終決戦の幕が上がったのです。
開始からまもなく、近江からはせ参じてくれた政長方の新庄直昌(しんじょうなおまさ)が討死にするも、六角氏の援軍を待つつもりの政長軍は、守りを固める姿勢を崩さず、徹底した守勢を貫きます。
そう・・・実は、六角定頼の息子=六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)率いる大軍が、この6月24日には、すでに山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)まて来ていたのです。
そこから江口までは、わずか半日の行程です。
しかし、一方で、この時、政長は、
♪川舟を 留て近江の 勢もこず
問んともせぬ 人を待(つ)かな♪
という歌を詠んだとされ、なんだか援軍の到着に一抹の不安を感じている様子がうかがえます(『足利季世記』より)。
携帯やスマホの無い時代・・・待ち合わせ場所に遅れた友達が、今、どこまで来てのるか?
ひょっとして、その情報が政長まで届いていなかった???
その状況を見透かしていたのか?否か?
長慶は、ここで一気に勝負に出ます。
天文十八年(1549年)6月24日、六角氏の援軍が江口に到着する直前に、長慶は、弟らと江口を東西から挟み込むように連携し、江口城の政長を急襲したのです。
政長が江口に入ってから約2週間・・・
しかも、上記の通り、長慶によって三宅城との連絡も、兵糧の補給路も断たれた状態・・・
さらに、この江口城は、この戦い以前には文献に登場せず、戦いの後に、この城が長慶の物となったものの、そもそもの記録がほとんど無い謎の城なわけで、ひょっとしたら、城と言っても、この時点では、今回の戦いのために構築した急ごしらえの櫓(やぐら)のような物だった可能性も??
だとしたら、そこに仕掛けられた長慶方の総攻撃+挟み撃ちには、もはやひとたまりも無い状態だった事でしょう。
間もなく、政長をはじめとする800名が討死し、江口城は陥落しました。
また、一説に政長は、榎並城へと逃走を図ろうとしたものの、淀川で水死したとも伝わります(『応仁以来年代記』による)。
この敗戦によって、政長を援護するべく三宅城にいた細川晴元は、戦わずして京へと戻りますが、長慶の追撃を恐れて、将軍=義晴とともに、近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと避難していきました。
また、勝敗が決した事で榎並城の政康も、城を退去して逃亡・・・伊丹城の伊丹親興は和睦を結んで長慶の傘下となりました。
こうして、これまでの細川政権は崩れ、細川氏綱を冠にした三好政権が誕生する事になるのですが・・・
このあとは、坂本へと逃れた将軍=義晴の後を継いだ足利義輝(よしてる)による、アノ手コノ手の京都奪回作戦が繰り広げられる事になるのですが、そのお話は、それぞれの関連ページ「でどうぞm(_ _)m
★関連ページ
【三好VS六角の志賀の戦い】>>
【義輝VS三好長慶~白川口の戦い】>>
【剣豪将軍・義輝~京都奪回作戦の日々】>>
【三好を支えた「鬼十河」~十河一存】>>
【やさし過ぎる天下人…三好長慶】>>
【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】>>
【信長の上洛を阻む六角承禎】>>
【信長の登場で崩壊する三好三人衆】>>
これだけの死闘を繰り広げた三好×六角×細川が、この後の織田信長の登場で、三者ともに崩れてしまうのは、何とも・・・
悲しくもあり、盛者必衰のコトハリでもあり(´;ω;`)ウウ・・・それが戦国のならい&時代の流れという物かも知れません。
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