足利義輝VS三好長慶、和睦のキッカケ~白川口(北白川)の戦い
永禄元年(1558年)6月9日、京都白川口で、将軍=足利義輝&細川晴元勢が三好&松永勢と交戦した白川口の戦い(北白川の戦い)がありました。
・・・・・・・・・・・
これまでも、何度か書かせていただいている室町幕府管領=細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)の息子たちによる後継者争い・・・周辺の戦国武将たちをも巻き込んで展開された一連の合戦は、永正十七年(1520年)5月の等持院表の戦い(5月5日参照>>)に勝利した細川高国(たかくに)が第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)擁立して、一旦は政権を握るものの、高国に敗れた細川澄元(すみもと)の遺児=細川晴元(はるもと)が大永七年(1527年)2月の桂川原の戦い(2月13日参照>>)で高国に勝利し、その後の天文法華(てんぶんほっけ)の乱(7月27日参照>>)でも、支援してくれる六角定頼(ろっかくさだより)(4月6日参照>>)とともにウマく立ち回った事、出身地の阿波(あわ=徳島県)からの重臣である三好元長(みよしもとなが)+三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟らの協力なんかもあり、ほぼ、晴元が政権を握った形となっていました。
ところが、政権を握った晴元が、自らが擁立していた足利義維(よしつな=義晴の弟)を捨て、敵の高国が擁立していた将軍=義晴と和睦した事に元長が反発・・・元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げ、義維も阿波へと逃れました。(7月17日参照>>)
しかし、元長の後を継いだ、わずか11歳の息子の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、父の仇のはずである晴元に反発する事なく従い、やがて晴元政権下で1-2を争う重臣となって力をつけていくのですが・・・
ご存じのように、後に「戦国初の天下人」と称される先見の明ある名武将の長慶は・・・ひょっとして、このタイミングを待ってたのか???
天文十二年(1543年)、亡き高国の後継者(養子)の細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて、「打倒!晴元」掲げて挙兵すると、長慶は晴元政権から離脱します(9月14日参照>>)。
こうして、氏綱と連携して晴元政権と真っ向から対立する中、天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで(6月24日参照>>)で長慶が見事勝利し、晴元らが将軍=義晴を伴って近江の坂本へと避難した事から、長慶が事実上京都を掌握しました。
翌天文十九年(1550年)の5月には、将軍=義晴が避難場所の坂本にて病死した事を受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)=足利義輝(よしてる)が第13代室町幕府将軍に就任(12月20日参照>>)・・・当然のごとく、若き新将軍は京都奪回を目標に掲げて、アノ手コノ手で三好政権に対抗するわけですが、そんな中、天文二十年(1551年)には、六角定頼の息子=六角義賢(よしかた=承禎)と長慶の間で志賀の戦い(2月26日参照>>)が展開されたりしました。
その後も一進一退の攻防戦が繰り広げられる中、永禄元年(1558年)5月、義輝は、大規模な京都奪回作戦を画策します。
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
警戒する長慶は、5月19日、家臣の松永久秀(まつながひさひで)や三好長逸(ながやす=三好三人衆の一人で元長の従兄弟とも)らが、1万5千の兵を率いて、鳥羽(とば)から九条大宮を北上し、御霊神社(ごりょうじんじゃ=京都市上京区)から大原口へ出て、富小路の東を通って鳥羽に戻るというコースをたどって市街を巡回させました。
これには、
「義輝&晴元勢に東山を越えさせない」と
「京都市中の守りを強固にする」の2つの意味がありました。
そのうえで、6月2日には長逸が勝軍山(しょうぐんやま=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に布陣して、更なる備えを固めます。
一方、6月4日に六角勢の援軍を得て近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)を出陣した義輝は、6月8日に東山の如意ヶ嶽(にょいがたけ=京都市左京区と滋賀県大津市の境・西側に大文字山がある)を占拠します。
かくして永禄元年(1558年)6月9日、洛中へと乱入して来た義輝勢と三好・松永勢が激突・・・白川口(北白川付近)にて激しい戦いを展開しました。
戦況としては・・・
六角の支援で参戦した甲賀(こうが=滋賀県甲賀)の武士や、義輝の近臣など数十名が討ち取られましたが、一方の三好勢も戦死者が3~400人に上りました。
とは言え、はなから数の多さに違いがあったため、戦況としてはおおむね三好勢が優勢・・・
勝ちに乗じた三好勢が、勝軍山の陣を焼き払って洛中へと戻ると、それを追うかの如く、今度は義輝&晴元勢が如意ヶ嶽から勝軍山へと陣を移動して、態勢を整え直して洛中へと進軍し、三好勢と交戦・・・
このような状況が何日も続きますが、結局、義輝勢は思うような成果が得られず・・・いつまでも続くこう着状態になった事から、11月27日に至って、六角義賢の提案による和睦が成立したのです。
大規模な洛中への侵攻であったにも関わらず、結果的には三好政権をくつがえすどころか、逆に「三好強ぇ~」ってなった感のある一連の戦いではありますが、ここで和睦した事により、将軍=義輝は5年ぶりに京都に戻る事ができて(11月27日参照>>)、めでたしめでたし・・・
しかも、かの長慶が、上下関係を大切にしてくれる体育会系の人だった(5月9日参照>>)おかげで、その後の義輝は将軍としての腕も振るう事ができたわけですが、結果的には、その有能さが、かえって松永久秀&三好三人衆のあの行動を産んでしまう原因となるのは、何とも・・・義輝の最期となるそのお話は【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】>>でどうぞ。
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 斎藤道三VS織田信秀の狭間で鷹司が滅びる~大桑城牧野合戦(2024.12.04)
- 松山城奪取戦~上杉謙信と北条氏康の生山の戦い(2024.11.27)
- 戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎(2024.11.20)
- 奈良の戦国~筒井順賢と古市澄胤の白毫寺の戦い(2024.11.14)
コメント