上杉謙信の出家願望と大熊朝秀~駒返の戦い
弘治二年(1556年)6月28日、上杉謙信が天室光育に「出家を決意した」との手紙を送りました。
・・・・・・・・・
謹而言達 於今度宗心身上之儀ニ 以両使條々申展候段 定而可被聞召届候…
で始まる弘治二年(1556年)6月28日付けの、この手紙・・・上記の部分の内容は
「謹んで言わせてもらいますが、このたび、宗心の身の上に関して、2名の使者を派遣しましたので、おそらく願いは、お聞き届けいただいた事でしょう…」
てな感じ、
「宗心」というのが上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)が自身で名乗った出家名で、「(聞き届けてほしい)願い」というのは「出家」です。
そう、謙信は、この時、本気で「出家する!」と宣言して高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)へと向かっているのです。
この手紙・・・
実際には、この文章の後に、自身が若くして後を継いだ時の事やら、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)主になった経緯やら、領主としていかに国内を平定したかなどが、滔々と、半ば「俺ってスゴイやろ?」的な雰囲気を醸し出しつつ書いてある、けっこう長い手紙なわけですが・・・
そこは、そう・・・手紙の相手が、謙信が幼い頃から信頼を寄せ、ホンネを吐露できる親しい相手であった林泉寺(りんせんじ=新潟県上越市・上杉氏の菩提寺)の天室光育(てんしつこういく
)という僧侶だったのもあって、ついつい書いちゃった~って感じなのかな?
なんせ、手紙の最後のほうには、
「後先考えず、筆の向くまま書いてしもたので、誤字脱字も多いでしょうから、(この手紙を)他人に見られて笑われたらどないしょかと思います~けど、節目になる事なので、お知らせだけはしときたいという、僕の気持はわかってもらえたかと…」
てな、感じで締めくくっていますから。
で、その中には「出家したい」と思った理由めいた物も書かれていて・・・
「国内をやっとこさ平定し、五穀豊穣で一安心…僕がやる事も、もう無くなりましたし、昔から『功名を遂げた者が身を退いた』例もある事ですし…」
という一方で
「僕が、必死で外敵を撃退して平和を取り戻したのに、家臣らは、それぞれが自分勝手な事ばっかり言うて、味方同士でモメて…そんな事してたら僕の苦労も水の泡になるから、ここで身を退く事にします」
てな、家臣へのグチとも、脅しとも言える内容が書いてあるのだとか・・・
そんな感じなので、謙信に「出家願望」があって、実際に、この時期に「高野山に向かった」事は確かなれど、出家の理由については、今も謎・・・色々と推理はできますが、「コレだ!」という決め手は無いようで、
上記のように、
「とりあえず、国内平定して一旦平和になったから」
「自分の苦労を理解してくれない家臣に嫌気がさしたから」
あるいは、家臣たちをちょっとビビらせて、逆に結束を強めるための「偽りの出家」「お芝居の出家」だったなんて話もあります(←今風に言うと「出家するする詐欺」?)。
・・・で、謙信が、この手紙を受け取った天室光育に、
「手紙の内容を家臣のみんなに伝えといてね~」
と言って春日山城を去った事もあって、
間もなく、急使によってこの一報を聞いた上田長尾家(うえだながおけ)の長尾政景(ながおまさかげ=謙信の姉婿・景勝の実父)(7月5日参照>>)は、取るものも取りあえず一門のもとにはせ参じ、国中に知らせて方々を招集し、皆の総意のもとに、主君の出家をストップさせるべく、政景自ら、謙信の後を追ったのです。
かくして、関山権現(せきやまごんげん=新潟県妙高市関山)で祈祷中だった謙信に追いついた政景は(場所は奈良の葛城山の麓だったとも)、涙ながらに
「そのお心はお察ししますが、殿さまあってこそ治められるこの国…今、出家された事が知れ渡れば、騒動を起こす者もおるかも知れません。
国の難は民の悲しみ…何とか、決心を覆してお戻りになって、国の安泰を維持してください。
家臣一同が皆、そう願ってます」(『上杉謙信言行録』より)
と説得したのだとか・・・
で、この説得に応じた謙信は、還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)して春日山城へと戻り、家臣たちに今後の忠誠を誓う「誓紙(せいし=誓いの言葉を記した紙・起請文)」を差し出させて、この出家騒動は一件落着となるのですが・・・
実は、このゴタゴタの中で、騒ぎに乗じて反旗をひるがえした人物がいました。
それは、父の時代から長尾家に仕える重臣の一人=大熊朝秀(おおくまともひで)・・・彼だけは、上記の誓紙を出す場にはいなかったのです。
この頃の謙信の重臣と言えば、この大熊朝秀と本庄実乃(ほんじょうさねより)、そして直江景綱(なおえかげつな=直江兼続の義父)の名前が挙げられますが、実は、もともと朝秀と実乃の仲が悪く、事あるごとに反目していた事から、その下となる家臣も2派に分かれて対立していたとも言われます。
その原因となったのは、あの謙信の家督相続・・・ご存じのように、謙信には長尾晴景(ながおはるかげ)という兄がいて、父=長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)が隠居する際に家督を譲られたのは、このお兄さんの方・・・
しかし、父が亡くなり、仏門に入っていた弟が還俗して活躍し始めると、「温厚な性格で融和政策をとる兄より、イケイケで勝ちまくりの弟の方が良くネ?」てな事になって、結局、天文十七年(1548年)に、兄は隠居して弟に家督を譲ったという経緯があったわけで・・・
そうです。
この時に、朝秀は兄=晴景派で、実乃は弟=謙信(景虎)派だったという話も・・・まぁ、この時は、守護の上杉定実(うえすぎさだざね)が間に入った事で家中分裂の危機を回避したので、その後は両者ともが謙信に仕えていたわけですが、それからずっと、その確執が埋まる事が無かった可能性も・・・
ただし、一方で、この謙信の家督相続の際には朝秀自身が謙信擁立に尽力したという説もあるので、あくまで、諸説あるうちの一つの可能性という事なのかも知れませんが・・・
また、それ以外にも、
朝秀自身は謙信の信頼を得ていたものの、周囲は長尾家の家臣ばかりで、その身の置き所に悩んでいたとか、
朝秀が、守護である上杉家を、もとの強い上杉家に再興したいと思っていた事が、結果的に守護代の長尾家に反発するような形になってしまったのだとか、
様々な要因が考えられていますが・・・
理由はともかく、このタイミングで大熊朝秀は、謙信と敵対していた武田信玄(たけだしんげん)からの再三の誘いに応じ、自らの城であった箕冠城(みかぶりじょう=新潟県上越市板倉区)を捨てて、越中(えっちゅう=富山県)へと退いて一揆を扇動し、信玄の援軍を待ったのです。
これが、弘治二年(1556年)8月23日の事・・・
そう、上記の涙ながらの説得に応じて、出家を止めて戻って来たとされる謙信ですが、一方では、この「大熊朝秀謀反の知らせを聞いて戻って来た」とも言われます。
なので、この一連の流れが、実は、分裂した家臣団のどちらか一方を切り、一つにまとめるための策だったとも・・・
とにもかくにも、還俗して春日山城に戻った謙信は、すばやく軍を編成して、越後(えちご=新潟県)へと進撃して来た朝秀軍を駒返(駒帰:こまがえし=新潟県糸魚川市)にて打ち破ったのです。
敗れた朝秀は、甲斐(かい=山梨県)の信玄のもとに身を寄せ、以降、大熊家は武田の家臣として生きていく事になります。
もし、上記のように、出家うんぬんの話からのすべてが、家臣を一つにまとめるための策だったとしたら、あまりに計画通りに事が運び過ぎの感もあり、切られた大熊朝秀の立場は???
って事にもなりますが、実は、ここで武田の家臣となった大熊家・・・信玄亡き後の織田&徳川連合軍の怒涛の進撃で多くの武田の家臣が裏切る中、朝秀は、武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)の最期となる、あの天目山(3月11日参照>>)まで従って、その忠義を貫き、主君とともに果てているのです。
ちなみに、朝秀の長男=大熊常光(おおくまつねみつ)は、この武田滅亡のゴタゴタの中で見事に生き残った真田昌幸(さなだまさゆき)(6月4日参照>>)に仕えていた事で、彼は無事・・・大熊家はその後も、真田の家臣として代々仕えたとの事なので、その点はご安心を・・・
謙信とは離れても、武田とは離れなかった朝秀・・・そこには、彼にしかわからない戦国武士の意地の貫き方があったという事なのかも知れませんね。
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