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2017年6月 2日 (金)

本能寺にて信長横死~その日の安土城と留守居役・蒲生賢秀

 

天正十年(1582年)6月2日、戦国最大のミステリーとも言われる『本能寺の変』がありました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日未明・・・ご存じ、主君=織田信長(おだのぶなが)と、その嫡男=信忠(のぶただ)を死に追いやった明智光秀(あけちみつひで)による謀反です。

【本能寺・前夜】参照>>
【本能寺の変~『信長公記』より】>>

未明に起こったこの出来事が、信長の本拠=安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市安土町)に、噂のように流れて来たのは、その日の午前10時頃だったと言います。

これだけの重大ニュースですから、またたく間に広がり、上層部はもちろん、一兵卒の耳にまで届きますが、未だ噂の段階ではウッカリした事は言えず・・・とりあえずは、皆がお互いの行動を見つつ、表面的には普段と変わらずにいましたが、そうこうしているうちに、京都から逃げて来た下働きの者たちの話も入って来て、事は具体的かつ現実的に・・・

やがて、午後4時頃には、京からの急使によって正しき情報が確認された事で、早速、その情報が騎馬で以って城下の各面々にも知らされると、城下は大変な騒ぎとなっていきます。

泣き悲しんで取りみだす者もいれば、「この際、家財なんかいらん!」とばかりに、妻子だけを連れて、身一つで本国(美濃=岐阜県)目指し、安土を退去する者も・・・

もちろん、この「身一つで退去」というのは、おそらく、これから安土を制圧しに来るであろう明智軍を恐れての事・・・それは城下の一般市民も同じで、市街戦なんて事になれば一大事ですから。

とは言え、この日、本能寺(ほんのうじ=現在は京都市中京区)で信長を、二条御所(にじょうごしょ=京都市上京区)で息子の信忠を自害させた光秀は、次に、逃亡者&落人を求めて京都市街をしらみつぶしに探索した後、すぐ、その日のうちに京都から勢田(せた=滋賀県大津市・瀬田)へと軍を進め、勢多城(せたじょう)主の山岡景隆(やまおかかげたか)
「人質を差し出して明智軍に協力してくれへんか」
と申し入れますが、景隆も、そして、ともにいた弟の山岡景佐(かげすけ)も、
「信長さんには、恩があるんで協力できません!」
とキッパリ断り、勢田城に火を放ち、勢田橋(せたばし=瀬田の唐橋)を落として、山中へと逃れたのです。

その後の山岡兄弟は、その身を隠しつつ、西からやってくる豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)(6月6日参照>>)に、畿内の明智軍の様子を逐一報告して、光秀の動きの邪魔をしていたとか・・・

とにもかくにも、山岡兄弟が、ここで橋を落として城を燃やしてくれたおかげで、この日の明智軍は、これ以上琵琶湖(びわこ)の東岸を進む事ができず、新手の軍勢を加える事もできなかったため、やむなく光秀は、この橋のたもとに守備隊を置いて、自身は居城である坂本城(さかもとじょう=滋賀県大津市下阪本)へと向かったのです。

なので、結果的には、今すぐに明智軍の襲撃を受けるという事はなかった安土ですが、それこそ、情報は錯そうするし、パニックになる人もいるしで、右往左往の状態が鎮まる事がない中、その日の夜になって山崎片家(やまざきかたいえ=秀家・堅家とも)が、安土にあった自らの邸宅に火を放って、いち早く居城の山崎山城(やまざきやまじょう=滋賀県彦根市)に引き籠ってしまった事から、ますます周囲のパニックが加速します。

そんな中で、安土城の二の丸の留守居役の一人だった蒲生賢秀(がもうかたひで)は、主君=信長の妻子たちを、自らの居城である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)に避難させて、いずれやって来るであろう明智軍との籠城戦を決意し、すぐさま日野城にいる息子=蒲生氏郷(うじさと)に、その意を伝えて準備を手配させました。

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安土城跡大手口より城下を望む

しとしとと降り続いていた雨が大雨に変わった翌・6月3日、息子=氏郷は、輿(こし)51鞍をつけた馬100匹伝達用の馬200匹を用意して出立・・・早朝には、安土城下まで駆けつけました。

いよいよ安土城からの脱出が始まりますが、信長の妻子たち&侍女たち&近衆たちの中には、城を出る事を拒む者や、出るにあたっても
「城内にある金銀財宝がもったいない」
と、持って逃げようとする者も少なくありませんでしたが、賢秀は、
「そんな見苦しい事はやめなはれ!」
と諌めます。

「せやけど、このまま明智に奪われるのも悔しいですやん。
いっその事、城に火を放って、全部、燃やしてから立ち退いたら…」

という意見にも、
「信長公が心をこめて造らはった壮麗な城を、俺の一存で燃やすなんか、恐れ多いですわ!」
とこれまた一蹴・・・何も持ち去らず、どこも傷つけずに、秀らは安土城を退去して行きました。

こうして、日野城に籠ったのは約1500人ほど・・・明智軍が来れば一戦交える覚悟で籠城戦の準備に取り掛かり、本願寺門徒などの武装勢力に声をかけたり、氏郷の娘を人質に出して織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)に援軍を要請するなど、様々な策を講じました。

実際に、この時の信雄は、伊勢(いせ)から鈴鹿(すずか)を越えて、甲賀(こうが・こうか)あたりまで出張っていたのだとか・・・

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

やがて6月5日・・・ここで光秀が、堅秀らが退去した安土城に入ります。

早速、近江(おうみ=滋賀県)諸豪に降伏を呼び掛け、旧知の諸将に援軍を要請すると、北近江の阿閉貞征(あつじさだゆき)若狭(わかさ=福井県南部)武田元明(たけだもとあき)、その義兄弟の京極高次(きょうごくたかつぐ=姉か妹の京極龍子が元明の嫁)などが次々に味方を表明。

ただ、ご存じのように、光秀の娘婿&舅の細川忠興(ほそかわただおき)幽斎(ゆうさい=藤孝)父子(6月9日参照>>)や、期待していた筒井順慶(つついじゅんけい)(2007年6月11日参照>>)などは、味方する事はありませんでしたが・・・

一方で光秀は、6月7日には朝廷からの勅使(ちょくし=天皇からの使者)を安土城に迎えるとともに、未だ城主が留守となっている丹羽長秀(にわながひで=堺にてと四国出兵の準備中=4月16日の真ん中あたり参照>>佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)や、秀吉(高松城攻撃中=6月4日参照>>長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を奪い取るなどして、着々と周辺を平定して行きます。

そんなこんなの同じく7日、
「味方をすれば近江半国を与える」
との破格の条件を携えた明智側の使者が、秀のもとにやって来ますが、賢秀は、
「あんだけ信長公に世話になっておきながら、一旦変が起これば光秀につくんかい!」
と、逆に使者としてやって来た旧信長の家臣たちに怒り、会う事すらせずに追い返したと言います。

この時点で、光秀から安土城の事を任されていた明智秀満(あけちひでみつ=光秀の娘婿)は、この使者の返答を聞き、日野城攻めを決意・・・早速、軍を編成して攻撃の準備を整えますが、そこに入って来たのが、疾風のごとき速さで備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区)(6月4日参照>>)から戻って来た秀吉が、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に出陣して来たという一報でした。

慌てて、日野城攻撃のために準備した軍勢を山崎の合戦(天王山の戦い)(6月13日参照>>)の先鋒として派遣し、自らも向かおうとしますが間に合わず・・・やむなく坂本へ行こうとするところを、あの有名な湖水渡りの名場面となりますが、そのお話は2014年6月15日の【明智秀満の湖水渡り】のページ>>で。。。

戦わずして安土から退去した賢秀の一連の行動は、一部には「弱腰」との批判もあるようですが、結果的には、
安土を退去からの~
日野城籠城からの~
秀吉の天王山到着で籠城戦回避

となったワケで、「信長の縁者の命を守る」という点においては、秀の判断は「正しかった」という事なのかも知れません。

ただし、
残念なのは、本能寺から13日後の6月15日、安土城が不明の出火で炎上してしまう事・・・(2010年6月15日参照>>)

その権威の象徴でもあった安土城が、主の死とともにこの世から消え去るのは、劇的であるとも思えますが、歴史好きとしては何ともくやしいですね。

★本能寺の変、関連ページ
光秀の連歌会の句は本能寺の意思表明?>>
本能寺・前夜>>
本能寺の変~『信長公記』より>>
堺の商人・黒幕説>>
豊臣秀吉・黒幕説>>
徳川家康・黒幕説>>
家康暗殺計画説(431年目の真実)>>
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コメント

コメントをする前にお知らせしたいのですが、蒲生堅秀の名前ついてですが、正しくは、蒲生賢秀です。なぜなら、最初の主君である、六角義賢から偏諱を受け、賢秀と名乗ったという話があるからです。本題に戻りますが、賢秀は、本質的には、律儀者だったのではないでしょうか。というのは、賢秀は、織田信長に降伏した際に、嫡男である蒲生氏郷が、信長の娘婿として取り立てられた事情がありますから、賢秀としては、明智光秀の誘いに対し、信長への義理を守って拒絶したのは、当然の判断だと思います。その判断のおかげで、賢秀は、氏郷と共に、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えたのかもしれません。結果として、氏郷が、秀吉から会津92万石を与えられましたからね。

投稿: トト | 2017年6月13日 (火) 10時47分

トトさん、こんにちは~

ありゃ(*´v゚*)ゞ
ご指摘ありがとうございます。
完全に「ケン」の文字の変換ミスです。
お恥ずかしい…

慌てて、以前書いた蒲生氏郷のページ>>を確認してみましたが、ソチラは、ちゃんと「賢」になってました(*゚ー゚*)

氏郷さんについては、上記のページで見ていただけるとありがたいです。

投稿: 茶々 | 2017年6月13日 (火) 11時50分

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