信長の小谷侵攻~山本山城の戦いと虎御前山城構築
元亀三年(1572年)7月22日、翌年の浅井家の滅亡と小谷城落城につながる山本山城の戦いがありました。
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永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・その後、再三に渡って「新将軍に挨拶に来んかい」と呼びかけるも、上洛に応じなかった越前(えちぜん=福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)に対して、元亀元年(1570年)4月、信長は、義景の本拠であった金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市金ヶ崎町)と天筒山城(てづつやまじょう)を攻めますが【4月28日参照>>)、そのさ中に、自身の妹(もしくは姪)のお市の方を嫁にやって味方についけていたはずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)が朝倉についた事を知り、挟み撃ち寸前のところをギリギリセーフで撤退に成功し、岐阜(ぎふ)へと戻る事ができました。
【金ヶ崎の退き口】参照>>
【信長を狙撃した杉谷善住坊】参照>>
【瓶割柴田の野洲川の戦い】参照>>)
怒り心頭の信長は、その2ヶ月後の6月に、浅井を倒すべく、仲良しの徳川家康(とくがわいえやす)クンを誘って、長政の居城=小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)近くに侵攻・・・これが姉川の戦いです。
【姉川の合戦】参照>>
【姉川の七本槍】参照>>
この戦い自体は織田&徳川連合軍の勝利に終わったものの、信長が撤退する敵を深追いしなかった事から、力を温存できた浅井&朝倉は、その後もゲリラ的合戦を続け、
【宇佐山城の戦い~森可成・討死】参照>>
【信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】参照>>
それは、その翌年には、戦場から逃げた浅井&朝倉の残党をかくまう比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)にも飛び火します。
【信長の比叡山焼き討ち】参照>>
【比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>
とは言え、配下&傘下の者は、上記の通りのゲリラ的動きを繰り返すものの、本家本元の長政は小谷に籠ったまま・・・信長は、姉川近くの横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)に木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)を置き、その周辺にも配下の武将を配置して誘いをかけるなど、「城からおびき出し作戦」を続けつつ監視していました。
そんなこんなの元亀三年(1572年)7月19日、具足初め(ぐそくはじめ=初めて具足をつける儀式)を終えたばかりの嫡男=織田信忠(のぶただ=当時は奇妙丸)を連れた信長が、横山城に着陣・・・翌日、小谷へと向かって進撃を開始し、秀吉をはじめ、佐久間信盛(さくまのぶもり)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)など、そうそうたるメンバーに小谷城を攻めさせたのです。
城下に火を放ち、城門近くまで迫って数十人を討ち取りましたが、城内からは、さほどの抵抗も無く、この日の戦いは終了・・・その日のうちに、勝家らを、近くの虎御前山(とらごぜやま=滋賀県長浜市)に陣取らせて守りを固めました。
小谷城跡からの眺望…眼下に見えるのが虎御前山、右奥に木々の影から伸びているのが山本山、正面の琵琶湖上右奥に浮かぶのが竹生島
翌・7月22日には、秀吉に、山本山城(やまもとやまじょう=同長浜市)に籠る阿閉貞征(あつじさだゆき)を攻めさせました。
秀吉が城山の麓を焼き払うと100人ほどの城兵が撃って出て来たので、応戦して50人ほど討ち取りますが、それ以上の出撃はなく、守りを固めるいっぽう・・・なので、山本山に対してはこれまでとし、次に蜂須賀(はちすか)らが湖上へと回り、湖側から小谷へとチョッカイを出し続けますが、やはり、守りを固めるいっぽう・・・
最後には、「アホ~」「バカ~」「マヌケ~」「アホ言うヤツがアホじゃぁ~」と散々に罵り、悪態をついて相手を挑発してみますが、やっぱり小谷はノッて来ない・・・なので、この日は諦めて兵を退く事に・・・
翌・23日には、与語(よご=余呉)や木之本(きのもと=長浜市)も焼き払い、さらに24日には、秀吉や長秀らが草野(くさの=同長浜市)に攻め入り、近隣の村から農民や一向一揆衆が逃げ込んで籠城する大吉寺(だいきちじ=長浜市)へと迫り、一揆勢の僧兵らを多数討ったと言います。
同時に、琵琶湖の湖上からは打下(うちおろし=滋賀県高島市)の林員清(はやしかずきよ)や堅田(かただ=滋賀県大津市)の猪飼野昇貞(いかいの のぶさだ=正勝)、坂本(さかもと=同大津市)の明智光秀(あけちみつひで)など、琵琶湖西岸を本拠とする武将たちが、武装した船で海津(かいづ=高島市)や塩津(しおづ=長浜市)の浜に漕ぎ寄せて周辺を焼いたほか、沖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま=長浜市)にも攻撃を仕掛けました。
こうして、信長が様々な挑発行為を行うも、やはり小谷城の長政は打って出ては来ない・・・なので、信長は、小谷のすぐ近くにある虎御前山に城を構築する事とし、7月27日から、その工事に取り掛かります。
一方の浅井長政・・・この状況を見据え、すでに、朝倉への援軍要請の使者を派遣しておりました。
「今の織田軍は、あの長島一向一揆相手に戦って、メッチャ疲れてますよって、今、朝倉さんが出てくれはったら、絶対イケます!チャンスでっせ!」
と・・・とまぁ、確かに長島一向一揆は前年の5月頃勃発(5月16日参照>>)してますので、一揆の事は本当ですが、「織田軍が疲れてる」というのは、ちょっと盛った感じ?ですが、そこはご愛敬で・・・で、この後、義景自らが率いる朝倉の援軍が到着するのが7月29日。
しかし、到着してみると、すでにあちらこちらに織田軍がウヨウヨ状態で、信長自らが陣を置いて城の準備に勤しんでいる様子・・・さすがに、すぐに何かを仕掛ける事はできず、やむなく義景は小谷の北側の高山に布陣しました。
当時の虎御前山は、かなり見晴らしが良く、北には山々の朝倉軍の動きも見え、西は比叡山、南は遠く石山寺(いしやまでら=滋賀県大津市石山寺)まで望めたとか・・・とは言え、虎御前山から横山城までは約12kmあり、しかも、途中が悪路であったため、信長は、両所の間に2ヶ所の砦を築き、その一つの宮部(みやべ)村の砦には宮部継潤(みやべけいじゅん)(3月25日参照>>)を配置して守りを強化する一方で、敵の進路を阻む築地(ついじ=泥土をつき固めて作った塀)を造ったり、逆に、味方には川をせき止めて渡りやすくしたりと、戦場となるであろう周辺に万全の準備を整えます。
しかし、ここに来ても長政はいっこうに動こうとはせず、義景も、着陣したからと言って何の動きもない・・・なので、信長は堀秀政(ほりひでまさ)(5月27日参照>>)を使者にたてて、
「せっかく、ここまで出て来はったんですから、日付なと決めて、一戦交えましょうや」
と、義景に誘いをかけてみますが、何日経っても知らん顔・・・
結局、何の進展も無いままだったので、信長は、虎御前山城には、秀吉を指揮官として残し、自らは横山城へと戻ったのです。
信長の小谷侵攻~山本山城の戦い位置関係図
↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
この後、浅井&朝倉勢が、例の築地を壊しに来たりして、ゲリラ的なちょっとした小競り合いは度々起こるものの、大きなぶつかり合いになる事はなく、12月には義景も越前へと退去・・・そのまま運命の天正元年(1573年)を迎える事になります。
この年、2月に反発をあらわにした将軍=義昭に対して、ただ1度のための大船を建造して琵琶湖を渡って(7月3日参照>>)力の差を見せつけた信長が、その義昭の拠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻撃(7月18日参照>>)したのが7月・・・
そして翌月の8月8日・・・小谷城落城=浅井家の滅亡となるその戦いが開始される事になるのですが、皮肉な事に、そのキッカケとなるのは、今回の前哨戦で、浅井のために山本山城を死守してくれたはずの阿閉貞征の寝返りだったのです。
てな事で、つづきのお話=浅井&朝倉の滅亡については
【刀禰坂の戦い~生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興】>>
【朝倉義景が自刃で朝倉氏滅亡~一乗谷の戦い】>>
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】>>
でどうぞo(_ _)oペコッ
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コメント
浅井長政に関しては、何か最近いろいろ香ばしい?新研究が色々出てきているようですね。
浅井家の武家屋敷がなぜか一乗谷にもあったとか(どう考えても実質的な従属大名)六角家?と京極家の争いに乗じて旧主京極家の領土を横領した件を信長から返還するよう裁定を受けたりとか…
どう考えてもつじつまが合わないことが多いですが、複数の外面を使い分けていたと考えるのが最近有力なようで、
信長や信玄などに対しては形式上の主君を京極家とする独立大名として振る舞いながら、保険として秘密裏に朝倉家に人質を出していた(延暦寺などはその事情を知っていた?)ということのようです。
浅井家の朝倉家中での動員力と、伊勢などへの出陣で信長に出した援軍した兵力が違う(約三千と五千)のも興味深いところで、五千が当時の徳川家とほぼ同数ということを考えても相当な高下駄をはいていて、同盟破棄についてはハッキリ言えば織田家の同盟国として身分不相応なムリがついに来たという意味もあったようです。
そう考えると、(やっと記事の内容になりますが)朝倉家がなぜ織田家に勝つ超チャンスともいえる小谷城への後詰めになんども来ていながら、(姉川と刀根坂を除いて)勝負しなかった理由も分かるような気がします。
浅井朝倉連合軍と言いながらも、浅井家には何の発言権もなかったのではないかと。ただ朝倉家も浅井家から送られた人質を持て余して出陣だけはしてきたというか、そういう感じではないのかなぁと…
従属大名が勝手に始めた大合戦に与力することに大半の朝倉家臣は最初から反対だったのではないでしょうか。
信玄も信長同様に何か騙されたのが史実ではなかったかと思います。
投稿: ほよよんほよよん | 2017年7月30日 (日) 17時23分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
従属関係については、様々に考えられる部分もあろうかと思いますが、そもそもに金ヶ崎&天筒山があるので、浅井だけで勝手におっぱじめた戦いでは無いように思います。
足利義昭との関係もありますし…
教科書等では、信長に義昭が追放された時点で「室町幕府が滅亡した」となっていて、実際に、そのまま次の将軍家は徳川に移行してしまうので、ついつい義昭の事を忘れがちですが、この時点では、まだ毛利に庇護されて、本人元気で、将軍がやるべき定例の仕事をやってはります。
将軍が畿内を追われたら幕府が滅亡なら、義晴の時も義輝の時も滅亡になってしまいますから、浅井&朝倉が戦っていた頃は、実際には、義昭の影響もまだまだあった時期なんじゃないか?と、個人的には思っています。
なので私としては、朝倉から見て「浅井が勝手に始めた合戦」という印象は無いように感じています。
投稿: 茶々 | 2017年7月31日 (月) 03時02分
従属関係については色々な解釈はありそうですね。すいません。ただ一乗谷の浅井屋敷は単に浅井長政の館だけではなく、浅井家臣団のものとみられるものもある(時期の特定が進むとなおありがたいのですが・・・現在は久政時代なのか長政時代なのかその前なのか不明瞭)ので、複数の相手と交流があったという感じでしょうが、比重が大きいのは朝倉家といえるのではないかと思っています。
私も実は茶々様のように考えていた時期が長いですが、本願寺と織田家は最初石山御坊の明け渡しの方向で佐久間信盛の使者と下間一族との間で2年ほど交渉が行われた?ものの、浅井長政の働きかけがあってから中断している様子で…
実に不思議なのは有名無実もいいところの足利義昭にいわゆる信長包囲網が作れたとされているところです。義昭が発した書状は数多いですが、多くは拒否されています。なにより姉川の戦いからタイムラグがあります。しかし浅井長政の出した書状は数は少ないですが、高い確率で相手を懐柔・篭絡しています。
浅井長政が義昭に好条件を提示して最初は織田方として動いていた義昭がそれに同調したと考えてもいいような気はします…
槇島城などで義昭は小兵力で意地でも信長に張り合って信長もまともに相手にせず追放に留めていますが、これは甘い対応というよりはホントに義昭は主役ではなかったからではないかと個人的には思っています。そもそもこんなちょっと頑固系で器用さに欠ける立ち回りしかできない人物に将軍の肩書があったとしても人が付いてくるのかなぁと思うところです。むしろ肩書を篭絡に実績のある浅井にレンタルしたと考えた方が…
タイミング的にみても、野田福島の戦いでの本願寺勢の加勢は、浅井長政による姉川の戦いの報復とみてよいのではと思います。
投稿: ほよよんほよよん | 2017年8月13日 (日) 23時55分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
武将の力関係については様々に解釈できるでしょうね。
義昭も将軍としての器量があったかどうかは微妙なところですが、私としては将軍という肩書そのものには、ある程度のブランド力があったように感じています。
なんせ、天皇からの宣旨を受けて就任する物ですから…
天下を掌握した秀吉でも、再三「養子にしてくれ」と義昭に迫ってたわけですから、義昭本人はともかく、その頃でも将軍というブランドには一目置かざるを得ない状況だったのではないか?と…
投稿: 茶々 | 2017年8月14日 (月) 02時01分