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2017年7月28日 (金)

公家の姫から武将の嫁に…武田信玄の奥さん~三条殿

 

元亀元年(1570年)7月28日、甲斐の武田信玄の正室である三条殿が、50歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

天文二年(1533年)に、室町幕府の関東管領職を代々務める家系=扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の当主=上杉朝興(うえすぎともおきの娘を正室に迎えるものの、翌年、そのが難産のために母子ともに亡くなってしまった事で、独り身となっていた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=当時は太郎)・・・

Takedasingen600b その後、天文五年(1536年)に16歳で元服し、名を晴信(はるのぶ)と名乗り、新たな一歩を踏み出した信玄(今回は信玄の名で通します)に後添えを・・・
と尽力してくれたのは駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)でした。

ご存じのように、都の貴族とも太いパイプを持っていた義元が、藤原北家(ふじわらほっけ=藤原四家の一つ藤原武智麻呂の家系)閑院流(かんいんりゅう)の嫡流で清華家(せいがけ=太政大臣になることのできる家格を持つ7家)の一つの三条家(さんじょうけ)三条公頼(さんじょうきんより)(次女)との縁を結んでくれたのです。

ちなみに、公頼の3人の娘のうち、
長女は、管領(かんれい=室町幕府での将軍補佐)家=細川家の後継者であり現段階での政権保持者である細川晴元(はるもと)(2月13日参照>>)の奥さんに・・・

三女は、もう少し後に、本願寺第11世=顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)のもとに嫁いでいますので、まさに、三者三様のロイヤルウエディング!

なので、今回の主役=信玄に嫁いだ真ん中の姫は、この後、三条殿(さんじょうどの)、あるいは三条の方(さんじょうのかた)、あるいは三条夫人(さんじょうふじん)と呼ばれる事になりますが、本日のところは三条殿と呼ばせていただきます(本名は不明です)

しかし・・・ロイヤルウエディングと言えば聞こえが良いですが、上記の通りの政略結婚

荘園持ってりゃ、お公家さんに一定量の収入が見込めた時代と違って、世は乱世・・・戦国武将が力で以って土地を支配し、取ったり取られたりが日常茶飯事で検地もままならない時代には収入も当てにできないわけで・・・戦国とは、お公家さんには困った時代ですよね~

てな事で、金も力も無いお公家さんは、力を持つ武将を頼り、地方の武将は中央とのつながりとともに高貴な家柄とつながるチャンスを得るという、両者の利害関係の一致による結婚・・・15歳を迎えた頃の初々しいお姫様は輿(こし)に乗り、おそらく、生まれて初めて都を離れて、見た事も見ない山多き風景に驚きつつ甲斐へとやって来た事でしょう。

とは言え、そんな高貴なお姫様を信玄がムゲに扱うはずはなく・・・てか、この時代、16歳の少年なら、「都育ちのお姫様がキタ━(゚∀゚)━!」ってだけで、テンションMAXだったのでは?
まして前妻と死別ですし・・・おそらくは大切に大切に扱った事は、想像に難くないですね。

そんな二人の仲睦まじさの証拠と言ってな何ですが・・・結婚の翌年の天文七年(1538年)には長男の武田義信(よしのぶ)を、天文十年(1541年)には次男の海野信親(うんののぶちか=竜芳)を、天文十二年(1543年)には三男の武田信之(のぶゆき=西保信之)と長女=黄梅院(おうばいいん)を、さらに、生年は不明なれど、後に穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)(3月1日参照>>)に嫁ぐ事になる次女の見性院(けんしょういん)・・・と立て続けに子宝に恵まれます。

次男の信親には目の障害があり、三男の信之は後に早世するという憂いはあるものの、この頃は、おおむね穏やかな新婚生活を送っていた事でしょう。

とは言え、天文十年(1541年)に夫=信玄が父の信虎(のぶとらを追放(6月14日参照>>)して武田家を継いだ途端、それまでの父の時代には同盟関係にあった諏訪(すわ=長野県諏訪市)への侵攻を開始(6月24日参照>>)、倒した諏訪頼重(すわよりしげ)(諏訪御寮人)を娶って後、天文十五年(1546年)に「その姫が男児(後の勝頼)を産んだ」と知った時には、三条殿もかなりのお怒りだったとか・・・

まぁ、それも、夫への愛情があればこそのお怒りでしょうし、それを知った信玄も、速やかに諏訪御寮人を諏訪の上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)に移し、この息子に武田家の通字(とおりじ=代々に渡って名前に使用する文字)である『信』の文字を使わず、諏訪家の通字である『頼』の文字を使う事を決意したのだとか・・・ま、もともと、諏訪御寮人との間に生まれたこの勝頼(かつより)を諏訪の後継ぎとして、以前から諏訪に仕える者たちの不満を抑え込む目的だったのでしょうけど・・・

その後、信玄が、村上義清(むらかみよしきよ)との一連の戦い(2月14日参照>>)の中で、戸石城(といしじょう=長野県上田市・砥石城)を落とすのに苦労していた(9月9日参照>>)時期には、信玄はその前線基地となる上原城に行きっぱなしでしたが、もう、この頃には三条殿も諏訪御寮人にヤキモチを焼くほど若く無く・・・というよりは、もはや信玄の正室=オカミサンとしての地位は揺るぎない物で、彼女自身も、武田家の奥向きを統率する者としての自らの役割を充分理解していた事でしょう。

信玄も
「お前が家におると思うからこそ、安心して戦えるんやで」
と三条殿へのねぎらいの言葉もかけています。

ただ、そんな中での天文二十年(1551年)、実父の三条公頼が、滞在先の周防(すおう=山口県)で起こった大寧寺の変(たいねいじのへん)(8月27日参照>>)に巻き込まれて命を落とした事は不幸な事でしたが・・・

その後、難攻した戸石城を、真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)(5月19日参照>>)の策略によって、ようやく落とし、義清が自身の葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡)を捨てて、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)を頼った(4月22日参照>>)事で、いよいよ、あの川中島の戦いへ突入の兆しが見え隠れする天文二十二年(1553年)、甲斐の武田、相模(さがみ=神奈川県)の北条、駿河の今川の間で相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)が成立(3月3日参照>>)・・・その証として、お互いの息子&息女による婚姻関係が結ばれる事となり、信玄の長男=義信と、今川義元の娘=定恵院(じょうけいいん)との縁談がまとまります。

冒頭に書いたように、この今川は都の公家とも深い縁・・・というのは、義元の母である寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)勧修寺流(かじゅうじりゅう)の公家=中御門宣胤(なかみかのぶたね)の娘であるという事もあっての縁・・・

もちろん、義元の奥さんは信玄の姉なので、今回の義信と定恵院の縁談は従兄弟夫婦になるわけですが・・・そう、三条殿にとっては、同じ藤原北家の流れを汲むお嬢さんが息子の嫁になってくれるわけで、
「京の都が近くに来たみたいヽ(´▽`)/」
とたいそう喜んでいたとか・・・

もちろん、お互いの子供同士がテレコテレコで婚姻を結ぶという事なので、武田家も、長女の黄梅院を相模の北条氏康(ほうじょううじやす)の息子=氏政(うじまさ)に嫁がせる事になり、三条殿にとっては可愛い娘との別れとなるわけですが、それはそこ、結婚という祝うべき門出にともなう別れなのですから・・・

これより、長きに渡る川中島の戦いが始まるとは言え、隣国とは同盟を結び、ハッキリと敵対する者を敵として戦っていたこの頃が、三条殿にとっては、最も幸せな日々だったのかも知れません。

しかし・・・
1次=天文二十二年(1553年):布施の戦い>>
2次=弘治元年(1555年):犀川の戦い>>
3次=弘治三年(1557年):上野原の戦い>>
4次=永禄四年(1561年):八幡原の戦い>>
そして、ほとんど合戦の体をなしていない
5次塩崎の対陣>>
の永禄七年(1564年)まで・・・と、
信玄と謙信が川中島でのドンパチを繰り返していた間に、戦国の世は大きく動きました。

そう、永禄三年(1560年)5月の桶狭間の戦いです。
(参照ページ↓)
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【名を挙げた毛利良勝と服部一忠】>>

これまで天下に1番近い男と思われていた今川義元が、未だ全国ネットでは名も知れていない、しかも自国の尾張(おわり=愛知県西部)の統一さえもままらない一武将=織田信長(おだのぶなが)に倒されてしまったのです。

同盟者である夫=信玄の行動は??

もちろん信玄も、すぐには動きません・・・周辺がどう動くのかも見据えなければ・・・

しかし、かの信長は、その翌々年の永禄五年(1562年)には尾張を統一(11月1日参照>>)、かの最後の川中島の翌年=永禄八年(1565年)には美濃(みの=岐阜県)へ侵攻(8月28日参照>>)を開始し、2年後の永禄十年(1567年)には、名城とうたわれた稲葉山城(いなばやまじょう)を陥落させ、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改めて、確実に新たな一歩を踏み出しています。

一方の信玄も、永禄九年(1566年)には長野業正(なりまさ)箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市)を陥落(9月30日参照>>)させたり、永禄十年(1567年)に信濃(しなの=長野県)を制覇(8月7日参照>>)したり、と北東方面への進撃には余念が無かったわけですが・・・

ところが、この間、ほぼほぼ何もしなかったのが、亡き義元の後を継いだ今川氏真(いまがわうじざね)・・・もちろん、そこには、義元の死を機に独立を図った徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)【桶狭間の戦い~その時、家康は…】参照>>など、配下の離反者も相次いでいて、何もしなかったというよりは、できなかったし、やってはいてもあまり効果が出なかったりで、氏真には氏真の言い分があるわけですが・・・(3月16日参照>>)

とは言え、お察しの通り、これらの状況をキッカケに、信玄は明らかに南への侵攻を画策し始めます。

おそらく、この夫の方向転換は、妻の三条殿も気づいており、心穏やかでは無かったと察しますが、彼女が大きく反対する事はありませんでした。

代わりに真っ向から反対したのが長男の義信・・・なんせ、奥さんは今川の人ですし、同盟の破棄は、この婚姻関係も破棄するする事になるのですから・・・

しかし、信玄は四男の勝頼に、信長の姪で養女の龍勝院(りゅうしょういん)を迎える事を決定し(実際に嫁いだかどうかは微妙)、猛反対する義信を廃嫡(はいちゃく=後継ぎから除外する事)して幽閉・・・さすがに、この事を知った三条殿は、仏間に籠ったきり、何日も出てこようとしなかったのだとか・・・

そんな義信が、永禄十年(1567)10月、自刃に追い込まれる(10月19日参照>>)、信玄は、その嫁=定恵院を今川に送り返して、完全なる決別の意思表示をし、翌・永禄十一年(1568年)12月、いよいよ駿河への侵攻を開始するのです。
【駿河に進攻~薩埵峠の戦い】参照>>
【今川館の攻防戦~駿河を攻略】参照>>
もちろん、信長の仲介による家康との連携で・・・
【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】参照>>
そして北陸方面での代理戦争もぬかりなく・・・
【謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦】参照>>
【謙信VS越中一向一揆~日宮城攻防】参照>>

そんな中、上記の掛川城落城の際、あまりのドタバタで輿が用意できず、氏真とその奥さんが徒歩へ逃げるという屈辱を味わった北条は・・・そう、例の三者同盟によるテレコ婚姻で、今川氏真に嫁いでいたのが、北条氏康の娘=早川殿(はやかわどの=氏政の妹)だったわけで、娘をそんな目に遭わされて激おこの氏康は、息子=氏政と黄梅院を離縁させ、甲斐に送り返して来ます。

夫=氏政との間には、嫡男=北条氏直(ほうじょううじなお)を筆頭に4人もの男の子をもうけいていた黄梅院・・・なので、おそらく仲が良かったであろう夫と、そして可愛い息子たちとも引き裂かれた彼女は、それから、わずか半年後の永禄十二年(1569年)6月、27歳の若さでこの世を去ってしまいます(6月17日参照>>)

さすがの信玄も、娘の悲しき姿には心を痛めた事でしょうが、戦国の世は、そんな心の痛みが癒えるのも待ってはくれず・・・

その年の10月には三増峠の戦い(みませとうげのたたかい=神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺)(10月6日参照>>)、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)攻防戦(12月6日参照>>)と、北条との合戦にあけくれる信玄に対し、

たった2年の間に長男も、そして長女も失った三条殿の落ち込み様は見るのも辛く、その後は、ほとんど言葉を発する事も無い無表情な人になってしまったと言います。

そして、長女が亡くなった翌年の元亀元年(1570年)7月28日、信玄の本拠=躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)西曲輪(くるわ)屋敷にて、三条殿は静かに50年の生涯を閉じたのです。

残された信玄が、上洛?とおぼしき西行の途中で病に倒れるのは、このわずか3年後・・・天正元年(1573年)4月の事でした。
【武田信玄最後の戦い~野田城攻防戦】参照>>
【武田信玄公の命日】参照>>
【信玄・最後で最大の失策~勝頼への遺言】参照>>
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2017年7月22日 (土)

信長の小谷侵攻~山本山城の戦いと虎御前山城構築

 

元亀三年(1572年)7月22日、翌年の浅井家の滅亡小谷城落城につながる山本山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・その後、再三に渡って「新将軍に挨拶に来んかい」と呼びかけるも、上洛に応じなかった越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)に対して、元亀元年(1570年)4月、信長は、義景の本拠であった金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市金ヶ崎町)天筒山城(てづつやまじょう)を攻めますが【4月28日参照>>)、そのさ中に、自身の妹(もしくは姪)お市の方を嫁にやって味方についけていたはずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)が朝倉についた事を知り、挟み撃ち寸前のところをギリギリセーフで撤退に成功し、岐阜(ぎふ)へと戻る事ができました。
金ヶ崎の退き口】参照>>
【信長を狙撃した杉谷善住坊】参照>>
【瓶割柴田の野洲川の戦い】参照>>)

怒り心頭の信長は、その2ヶ月後の6月に、浅井を倒すべく、仲良しの徳川家康(とくがわいえやす)クンを誘って、長政の居城=小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)近くに侵攻・・・これが姉川の戦いです。
【姉川の合戦】参照>>
【姉川の七本槍】参照>>

この戦い自体は織田&徳川連合軍の勝利に終わったものの、信長が撤退する敵を深追いしなかった事から、力を温存できた浅井&朝倉は、その後もゲリラ的合戦を続け
【宇佐山城の戦い~森可成・討死】参照>>
信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】参照>>
それは、その翌年には、戦場から逃げた浅井&朝倉の残党をかくまう比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)にも飛び火します。
【信長の比叡山焼き討ち】参照>>
【比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>

とは言え、配下&傘下の者は、上記の通りのゲリラ的動きを繰り返すものの、本家本元の長政は小谷に籠ったまま・・・信長は、姉川近くの横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)を置き、その周辺にも配下の武将を配置して誘いをかけるなど、「城からおびき出し作戦」を続けつつ監視していました。

そんなこんなの元亀三年(1572年)7月19日、具足初め(ぐそくはじめ=初めて具足をつける儀式)を終えたばかりの嫡男=織田信忠(のぶただ=当時は奇妙丸)を連れた信長が、横山城に着陣・・・翌日、小谷へと向かって進撃を開始し、秀吉をはじめ、佐久間信盛(さくまのぶもり)柴田勝家(しばたかついえ)丹羽長秀(にわながひで)など、そうそうたるメンバーに小谷城を攻めさせたのです。

城下に火を放ち、城門近くまで迫って数十人を討ち取りましたが、城内からは、さほどの抵抗も無く、この日の戦いは終了・・・その日のうちに、勝家らを、近くの虎御前山(とらごぜやま=滋賀県長浜市)に陣取らせて守りを固めました。

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小谷城跡からの眺望…眼下に見えるのが虎御前山、右奥に木々の影から伸びているのが山本山、正面の琵琶湖上右奥に浮かぶのが竹生島

翌・7月22日には、秀吉に、山本山城(やまもとやまじょう=同長浜市)に籠る阿閉貞征(あつじさだゆき)を攻めさせました。

秀吉が城山の麓を焼き払うと100人ほどの城兵が撃って出て来たので、応戦して50人ほど討ち取りますが、それ以上の出撃はなく、守りを固めるいっぽう・・・なので、山本山に対してはこれまでとし、次に蜂須賀(はちすか)らが湖上へと回り、湖側から小谷へとチョッカイを出し続けますが、やはり、守りを固めるいっぽう・・・

最後には、「アホ~」「バカ~」「マヌケ~」「アホ言うヤツがアホじゃぁ~」と散々に罵り、悪態をついて相手を挑発してみますが、やっぱり小谷はノッて来ない・・・なので、この日は諦めて兵を退く事に・・・

翌・23日には、与語(よご=余呉)木之本(きのもと=長浜市)も焼き払い、さらに24日には、秀吉や長秀らが草野(くさの=同長浜市)に攻め入り、近隣の村から農民や一向一揆衆が逃げ込んで籠城する大吉寺(だいきちじ=長浜市)へと迫り、一揆勢の僧兵らを多数討ったと言います。

同時に、琵琶湖の湖上からは打下(うちおろし=滋賀県高島市)林員清(はやしかずきよ)堅田(かただ=滋賀県大津市)猪飼野昇貞(いかいの のぶさだ=正勝)坂本(さかもと=同大津市)明智光秀(あけちみつひで)など、琵琶湖西岸を本拠とする武将たちが、武装した船で海津(かいづ=高島市)塩津(しおづ=長浜市)の浜に漕ぎ寄せて周辺を焼いたほか、沖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま=長浜市)にも攻撃を仕掛けました。

こうして、信長が様々な挑発行為を行うも、やはり小谷城の長政は打って出ては来ない・・・なので、信長は、小谷のすぐ近くにある虎御前山に城を構築する事とし、7月27日から、その工事に取り掛かります。

一方の浅井長政・・・この状況を見据え、すでに、朝倉への援軍要請の使者を派遣しておりました。
「今の織田軍は、あの長島一向一揆相手に戦って、メッチャ疲れてますよって、今、朝倉さんが出てくれはったら、絶対イケます!チャンスでっせ!」
と・・・とまぁ、確かに長島一向一揆は前年の5月頃勃発(5月16日参照>>)してますので、一揆の事は本当ですが、「織田軍が疲れてる」というのは、ちょっと盛った感じ?ですが、そこはご愛敬で・・・で、この後、義景自らが率いる朝倉の援軍が到着するのが7月29日

しかし、到着してみると、すでにあちらこちらに織田軍がウヨウヨ状態で、信長自らが陣を置いて城の準備に勤しんでいる様子・・・さすがに、すぐに何かを仕掛ける事はできず、やむなく義景は小谷の北側の高山に布陣しました。

当時の虎御前山は、かなり見晴らしが良く、北には山々の朝倉軍の動きも見え、西は比叡山、南は遠く石山寺(いしやまでら=滋賀県大津市石山寺)まで望めたとか・・・とは言え、虎御前山から横山城までは約12kmあり、しかも、途中が悪路であったため、信長は、両所の間に2ヶ所の砦を築き、その一つの宮部(みやべ)の砦には宮部継潤(みやべけいじゅん)(3月25日参照>>)を配置して守りを強化する一方で、敵の進路を阻む築地(ついじ=泥土をつき固めて作った塀)を造ったり、逆に、味方には川をせき止めて渡りやすくしたりと、戦場となるであろう周辺に万全の準備を整えます。

しかし、ここに来ても長政はいっこうに動こうとはせず、義景も、着陣したからと言って何の動きもない・・・なので、信長は堀秀政(ほりひでまさ)(5月27日参照>>)を使者にたてて、
「せっかく、ここまで出て来はったんですから、日付なと決めて、一戦交えましょうや」
と、義景に誘いをかけてみますが、何日経っても知らん顔・・・

結局、何の進展も無いままだったので、信長は、虎御前山城には、秀吉を指揮官として残し、自らは横山城へと戻ったのです。

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信長の小谷侵攻~山本山城の戦い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この後、浅井&朝倉勢が、例の築地を壊しに来たりして、ゲリラ的なちょっとした小競り合いは度々起こるものの、大きなぶつかり合いになる事はなく、12月には義景も越前へと退去・・・そのまま運命の天正元年(1573年)を迎える事になります。

この年、2月に反発をあらわにした将軍=義昭に対して、ただ1度のための大船を建造して琵琶湖を渡って(7月3日参照>>)力の差を見せつけた信長が、その義昭の拠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻撃(7月18日参照>>)したのが7月・・・

そして翌月の8月8日・・・小谷城落城=浅井家の滅亡となるその戦いが開始される事になるのですが、皮肉な事に、そのキッカケとなるのは、今回の前哨戦で、浅井のために山本山城を死守してくれたはずの阿閉貞征の寝返りだったのです。

てな事で、つづきのお話=浅井&朝倉の滅亡については
【刀禰坂の戦い~生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興】>>
【朝倉義景が自刃で朝倉氏滅亡~一乗谷の戦い】>>
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】>>
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2017年7月17日 (月)

天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

 

天文元年(1532年)7月17日、後の天文法華の乱につながっていく大和一向一揆がありました。

・・・・・・・・・・・

京都の市街を戦場とした事で、町中が焦土と化したと言われる応仁の乱ですが、実は、その応仁の乱よりも被害が大きかったとされるのが、天文五年(1536年)7月に起こった天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)です。

そのページには、有名な京都の祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾巡行で、先頭を行く長刀鉾(なぎなたぼこ)に飾られる長刀は、この乱で法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)宗徒に八坂神社が勝利した証の長刀で、街中を練り歩いて、それを京都市民に披露する意味もあった事を書かせていただきましたが・・・

もともとは奈良の興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の末社だったのが、平安時代に比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)に属するようになった八坂神社・・・その後、室町時代には延暦寺から切り離されてはいましたが、未だ、そのつながりが強固な物だったようで・・・

つまり、上記の天文法華の乱は、天台宗VS法華宗の争乱という事になりますが、ここに至るまでには本願寺も絡んでいるうえ、もともとは武士同士の権力争いが宗教勢力を巻き込んで(≧ヘ≦)・・・と実にややこしいんですが、どうぞ、最後までお付き合いを・・・

・‥…━━━☆

応仁の乱(5月20日参照>>)の後、その東軍の大将=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)は、自らの意のままになる傀儡(かいらい=あやつり人形)の室町幕府将軍を擁立する(4月22日「明応の政変」参照>>)ほどの権力を持つ管領(かんれい=将軍の補佐)となりますが、その死後に起こった政元の養子同士の後継者争いの中で、大永七年(1527年)の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)などに勝利してライバルの細川高国(たかくに)(6月8日参照>>)を追い落とした細川晴元(はるもと)が、堺公方足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立して京都を掌握し、ようやく、わずかばかりの平和が訪れた頃、

先の高国討伐で、ともに功を挙げた、阿波(あわ=徳島県)にいた頃からの晴元の家臣=三好元長(みよし もとなが=長慶の父)と、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)との間に亀裂が生じ始めていました。

その原因は・・・
上記の通り、そもそもは義維を擁立して政権を握るつもりだったはずの晴元が、高国という敵を排除した途端に、その高国とツルんでいた第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる=義維の兄)和睦を働きかけて近づいて行った事に、元長が苦言を呈した事で、両者がギクシャクし始めたところに、

このタイミングで、かの高国討伐をキッカケに晴元に急接近した木沢長政が、晴元の威を借りて、そもそもの主君であった河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)であり、室町幕府の管領家でもある畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)から独立を企てた事にありました。

当然、激怒した義堯は、元長の一族の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)に命じて、長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻めさせますが、一方の長政は、即座に晴元に救援を要請・・・ここに、元長とは一族でありながらも、何かと敵対していた三好政長(みよしまさなが=之長の甥)が加わって、
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」

となったわけですが、

そんな中、享禄四年(1531年)8月と天文元年(享禄五年=1532年)6月の2度に渡って一秀らから飯盛山城を攻められ、分が悪い晴元&長政らは、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)宗徒の出陣を要請します。

かつて、本願寺中興の祖である蓮如(れんにょ)上人が、あの加賀一向一揆で「過激な事はするな」と言い残して越前(えちぜん=福井県)を退去した(8月21日参照>>)ように、また、先代である実如(じつにょ=蓮如の息子で証如の祖父)「武士を敵としてはいけない」と言い残したように(…と言いながら自分も細川政元に協力して朝倉と戦ってますが…)、本来、戦いに関わらない姿勢にあった本願寺法主でしたが、当時、未だ血気盛んな17歳だった証如は、この要請を引き受けてしまいます。

実は、この時、都の宗教界を本願寺と二分していたのが法華宗で、その法華宗の大スポンサーだったのが元長さん・・・未だ若い証如は、宗教上での敵対勢力を弱体化させる絶好のチャンス!と思ったのでしょう。

もちろん、教祖様の呼びかけに応じて終結した本願寺宗徒=一向一揆衆たちはズブの素人の烏合の衆・・・本来なら、とてもプロの武将に太刀打ちできませんが、この時「集まった人数は3万を超えた」と言われるほど大人数で、飯盛山城を囲む三好勢を取り囲んで猛攻撃を開始します。

さすがに、突然現れた大軍になす術のない三好勢・・・勢いずく一揆勢は天文元年(1532年)6月15日一秀を討ち取った後、撤退しようとする義堯を追撃して自刃に追い込んだのです(飯盛城の戦い)

さらに、その5日後の6月20日には、10万ほどに膨れ上がった人数で、元長のいる顕本寺(けんぽんじ=大阪府堺市堺区)を取り囲み、元長をも自害させました。

こうして、晴元&長政は飯盛山城を死守する事ができたわけですが・・・

この時、天文元年の2度目の飯盛山城攻めから、畠山の要請により参戦していた大和(やまと=奈良県)の国衆=筒井順興(つついじゅんこう=順慶の祖父)は、速やかに撤退して、居城である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)に、無事、戻る事ができましたが、なんと、この後、河内で暴れまわった一向一揆が、その勢いのまま奈良へとやって来るのです。

と、言っても、河内の一揆衆がそのまま奈良に・・・というよりは、「その動きが波及して来た」という感じ・・・

なんせ、この奈良には、古くからの一大宗教勢力=興福寺があったわけで・・・

これまでも、あの全盛期の平家相手に真っ向から立ちふさがったり(12月28日参照>>)、中央政府に度々強訴(ごうそ=僧兵の武力で以って集団で訴え要求する事)を起こしたり(10月5日参照>>)と、かなりの武力行使で当地に君臨していたわけで・・・
*【僧兵~僧侶の武装と堕落】も参照>>

しかし、この頃の奈良には、すでにかなりの数、本願寺に帰依する者も出て来ていて、そんな彼らの中には、今もって権勢をふるう興福寺に嫌悪感を持っていた者も少なく無かったのです。

そんな彼らが、教祖様=証如の呼びかけに立ち上がるのは当然の事・・・

かくして天文元年(1532年)7月17日、集結した大和の一向一揆衆は、ホラ貝を吹き鳴らし、鐘をけたたましく打ちまくりながら、興福寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)に放火して回ったのです。

記録によれば、興福寺の伽藍(がらん=寺院の主要建築群)そのものと、一乗院(いちじょういん=奈良県奈良市)大乗院(だいじょういん=同奈良市)を除いて、他の僧坊はほとんど、焼かれるか破壊されるか・・・

大事な経典は破られ、高価な法事の道具は盗まれ・・・さらに、その勢いは春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)にまで及び、蔵や神主さんの家まで破壊されたのだとか・・・この時、抵抗する術もなかった奈良在住の興福寺宗徒たちは、手に手を取って、南の高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)を目指して落ちて行ったのです。

勢いが、ようやく終息に向かった8月9日の夜・・・残った物はほとんど無く、奈良中がすっかり焦土となっていたと言います。

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大乗院庭園…庭園へのくわしい行き方は本家HP:奈良歴史散歩「ならまち」で>>

こうして「天文法華の乱~大和一向一揆」は、終焉を迎えました~~
って、延暦寺+八坂神社VS法華衆は?

そうなんです。
本チャンは、まだ先の先・・・

この戦いで分が悪いと本願寺に支援を求めた細川晴元・・・開けちゃいけないパンドラの箱を開けちゃいました~

この争乱で勢いづいた・・・
いや、勢いがつき過ぎた本願寺を法華宗でおさえ、
ほたら、また法華宗が勢いづいて・・・
と、エンドレスな宗教勢力争いに武士が関与して、
あんな事やこんな事が・・・

とにもかくにも、この続き=山科本願寺の戦いについては、8月23日の【天文法華へ向かう~山科本願寺の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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2017年7月12日 (水)

応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い

 

延徳二年(1490年)7月12日、応仁の乱後も続いた畠山氏の主導権争いの中で、大きな衝突となった一乗山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いがくっついて、その配下となる全国の大名を巻き込み、全国を東西真っ二つに分ける大乱となった応仁の乱・・・

モメた原因の一つが、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県・三重県の一部)
大和(やまと=奈良県)などの重要地の守護(しゅご=現在の県知事)を任されていた畠山氏の後継者争いでした。

Hatakeyamayosinari400 そもそもは、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)だった畠山持国(はたけやまもちくに)が、自らの後継者を弟の畠山持富(もちとみ)に定めていたにもかかわらず、途中で「やっぱ、ヤメた~」と持富を廃して、息子の畠山義就(よしひろ・よしなり)に譲ろうとしたために、持富の家臣や息子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が抵抗・・・持国も持富も弥三郎も亡くなった後は、弥三郎の弟である畠山政長(まさなが)が父と兄の遺志を受け継いで、義就との後継者争いを繰り広げる事になったわけです。

ただ、これには、単に持国が後継者決めに優柔不断だったり、家内で両者がウダウダやってたり・・・の畠山家ばかりのせいではなく、そこには、その力があまり大きくならないように守護大名を内部分裂させておきたい将軍家の思惑なんかもあったわけですが・・・。

なんせ、これまで、文安五年(1448年)11月に持国が義就を後継者に指名してから後、
享徳三年(1454年)9月
 =細川勝元の支持を受け弥三郎が上洛
 義就は京都を追われる
同年12月
 =義政の承認を受け義就が家督を継ぐ
 =弥三郎は京都を追われる
康正三年(1457年)7月
 =義就の勝手な出兵に義政激怒で所領没収
長禄三年(1459年)9月
 =弥三郎が死亡で派閥は弟の政長を擁立
長禄四年(1460年)9月
 =義就が朝敵(ちょうてき=国家の敵)
 =政長が畠山の家督を継ぐ
寛正四年(1463年)9月
 =恩赦により義就は赦免
寛正五年(1464年)
 =政長が管領に
文正元年(1466年)
 =義就が挙兵して上洛して義政に謁見
 =政長が管領職を辞めさせられる

とまぁ、このように、武力で以ってどっちかが上洛すれば、相手が退去・・・しかも、それをいちいち幕府=将軍が認めたり、辞めさせたりのくりかえし・・・(10月16日参照>>)

Ouninnoransoukanzu2 で、上記のように、管領職を辞めさせられた義政が、名誉挽回とばかりに起こしたのが、応仁の乱勃発(5月20日参照>>)の直接の引き金となる応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)なのです。

勃発後、すぐには、5月の五月合戦(5月28日参照>>)、10月の相国寺の戦い(10月3日参照>>)など、京都市街で大きなぶつかり合いがありましたが、ご存じのように、この応仁の乱・・・
途中から、東西の武将が入れ替わったり、総大将がトンズラしたり(11月13日参照>>)してるうちに、徐々にグダグダ感満載の戦いと化していくわけで・・・

で、東西の大将である細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全(やまなそうぜん=持豊)が、文明五年(1473年)に相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事をキッカケに、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が息子の足利義尚(あしかがよしひさ=9代)将軍職を譲って正式に隠居した事を受けて、その翌年には、それぞれの大将の息子=細川 政元(ほそかわまさもと)山名政豊(やまなまさとよ)が和睦・・・さらに文明九年(1477年)9月には義就が領国の河内に、11月には、最後までゴネまくっていた大内政弘(おおうちまさひろ)周防(すおい=山口県)にと(11月11日参照>>)・・・それぞれ京都を去って行った事で、やっとこさ応仁の乱は終結となるのです。

しかし、応仁の乱は終わっても、両畠山の抗争は終わりませんでした。

なんせ、上記の経緯の通り、幕府から認められた管領職についているのは義政なので、河内や紀伊など畠山の領国の守護は政長なわけですが、実際に河内の誉田城こんだじょう=大阪府羽曳野市誉田)に入って実権を握っているのは義就なわけで・・・未だに、どっちも譲らないんですから、当然です。

河内が難しいならば・・・と、政長が紀州への侵入を試みるも失敗した文明十四年(1482年)7月の戦闘をキッカケに、再び両畠山氏の戦闘が頻繁に行われるようになります。

戦場になった地では、田畑は荒らされるうえに、配下の者は、土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民に至るまで兵士として駆り出されるわけで・・・この頃、頻繁に戦場となっていた河内や山城の一般人から見れば、「もう、えぇかんげんにしてくれ!」ってなるのも当然で、この文明十四年(1482年)の12月には、歴史教科書でも有名な山城の国一揆(12月11日参照>>)が起こり、住民が話し合いで以って両畠山氏の撤退を要求するという前代未聞の下剋上を成功させています。

それでもまだ、あちらこちらで小競り合いを続ける両者・・・そんなこんなの延徳二年(1490年)7月12日大きな戦闘が起こります。

記録によって記述が様々なのですが、それらを合理的に統合して、現時点では、
あれからずっと、紀伊への侵入を画策しつつも、実現できずに苦労していた政長に、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)周辺の根来衆(ねごろしゅう=根来寺一帯に居住した僧兵集団)が協力を快諾した事から、それを足がかりに、イザ紀州へ攻め込もうと政長勢が駐屯していた一乗山(いちじょうざん=同岩出市)に、義就勢が押し寄せて猛攻撃を仕掛けた・・・という見方がされています。

結果としては、義就側の大敗・・・政長の主力であった根来衆相手に、数百余りが討死にし、その中には高野山の法師も多数含まれていたとされ、かなりの大戦だったと都でも評判になったとの記録が残っています。

また、主だった者の70余りの首が、その後京都に送られて「政長が首実検をした」との記録もある事から、この戦いに政長自身は出陣しておらず、その時は京都にいたものと考えられています。

とにもかくにも、この大敗は義就にとってはかなりの痛手であったようで、義就は翌・延徳二年(1491年)12月に、この世を去ります(内容かぶる部分ありますが…12月12日参照>>)

父の死を受けて息子の畠山義豊(よしとよ=基家)が後を継ぎますが、そこを一気に潰そうと考えたのか?政長は「義豊討伐」を願い出、時の第10代将軍=足利義稙(よしたね:義材・義尹=義政の弟の子)を擁して、根来衆やら紀伊の国衆やらを引き連れて義豊攻撃に向かうのですが・・・

ところが、将軍と元管領(時の管領は細川政元)が留守となったこの間、京都で、どえらい出来事が・・・有名な明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)です。

これは、時の管領の細川政元が義稙を廃して、自らの意のままになるであろう足利義澄(よしずみ:義遐・義高=義政の兄の子)を第11代将軍に擁立して政権を掌握するという明応二年(1493年)に起こったクーデター・・・

この政変によって、将軍=義稙とそこにつながる政長が率いる軍団は、一夜にして賊軍となってしまったのです。

やむなく、元将軍=義稙は義豊側に投降し、政長は失意のまま自殺(討死にとも)・・・戦場を逃れた政長の息子=畠山尚順(ひさのぶ)は紀州へと身を隠し(8月11日参照>>)・・・おかげで、義豊は、政長に奪われたままとなっていた守護職を取り戻す事に成功したのです。

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応神天皇陵(誉田御廟山古墳・大阪府羽曳野市誉田)…誉田城は、この天皇陵を利用して構築した城と言われています。

しか~し・・・畠山両者の戦いは、ま~だ終わりません。

逃れた尚順が地元=紀州を味方につけ、勢力を挽回した事から、早くも、政変から約半年後の10月に両者の衝突が起こったのを皮切りに、
明応四年(1495年)、
明応六年(1497年)、
明応八年(1499年)・・・さらに、この明応八年(1499年)1月の戦いで義豊が戦死すると、その息子の畠山義英(はたけやまよしひで)が引き継いで
明応八年(1499年)12月、
翌・明応九年(1500年)・・・と、

とにかく、義豊側が尚順を紀州に追い込めば、ほとぼり冷めた頃に尚順が河内に侵攻・・・それが治まれば、また義豊側が紀州に・・・と、両者の戦いは続いていくのです。

とは言え、両者が、そんなこんなしているうちにも時代はどんどん進んでいくわけで・・・やがて、大和の派遣争い(9月21日参照>>)、政元亡き後の細川家の後継者争い(2月13日参照>>)、両者ともに巻き込まれつつあるうちに、徐々に他の武将たちが力をつけてくる下剋上・・・

結果的には・・・
義就系統は、上記の義英の息子の畠山義堯(よしたか=義宣)が、守護代の木沢長政(きざわながまさ)に裏切られて自刃に追い込まれた(7月17日参照>>)後、そのまた息子の畠山在氏(ありうじ)の時代に、その木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗北した事から、事実上の滅亡となります。

一方の政長系統は、尚順から5代後の畠山高政(たかまさ)の時代に、やはり台頭していた三好(9月28日参照>>)と敵対した関係から、足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛して来た織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に近づき、その子孫たちは織田→豊臣→徳川の流れで生き残り、伝統ある名家を重んじる徳川家康(とくがわいえやす)によって、あの今川家(3月16日参照>>)と同様に、江戸幕府内の高家(こうけ=江戸幕府内で儀式や典礼を担当する役職)として幕末まで続く事になります。

戦国の世で生き残っていくのは大変ですね~
振り返ってみると、この畠山両家は、戦国の幕開けとも言われる応仁の乱から、信長の上洛まで、ずっと戦っていたわけですから・・・
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2017年7月 5日 (水)

春日源助殿へ~武田信玄のラブレター❤

 

天文十五年(1546年)7月5日、武田信玄が、あの有名なラブレターを送りました。

・・・・・・・・・・

文春砲が鳴りやまない今日この頃ですが、いつの時代も、有名人というのは大変なものです。

古くは舎人(とねり)親王(11月14日参照>>)にしろ、近くは昭和の歌人=斉藤茂吉(もきち)(2月25日参照>>)にしろ、そして、今回の武田信玄(たけだしんげん)にしろ・・・
まさか、自分の書いたラブレターが日本中に公開されるとは!(lll゚Д゚)

まぁ、前回ご紹介させていただいた上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)『出家願望の手紙』(6月28日参照>>)でも、ご本人は「他人に見られたら恥ずかしい」っておっしゃっていますので、その内容に関わらず、手紙という物が、宛てた人以外の人に見られるのは、だいたいにおいて恥ずかしい物ではあります。

とは言え、歴史上の有名人となると、やはり、「その手紙が残っている」というだけで価値があるわけで、ましてや、それが、包み隠さずホンネを吐露した感じの内容であるなら尚更・・・

ただし、歴史が大好きで、歴史上の人物は全員大好きな不肖茶々・・・決して、こういった類の物を、バカにしたり、貶めるつもりでご紹介するわけではありません。

以前、別のページのコメントにも書かせていただいたのですが・・・

芸能事務所がアイドルやタレントを売り出すのに使う心理学を応用したテクニックの一つに『二重構造の原理』というのがあるんですが、それは、大衆の支持を得るためには、物質的な異質性心情的な同一性の二つを兼ね備えていないと人気が出ないという事なのだそうで、

物質的な異質性というのは、アイドルやタレントの場合は、カワイイ容姿だったり歌のうまさだったり…一方の歴史上の人物の場合は、強さだったり天才的な策略だったり、歴史に残るような偉業を成し遂げていたり…これは、一般人とは比較できないほど優れていなければなりません。

しかし、その一方で、心情的には同一=つまり一般大衆と同じように悩み苦しみ失敗する…心情的には一般大衆と同質の物を持っていないと共感を呼ぶ事ができず、大衆の支持を得られないって事なのですね。

邪魔だと思えば父も追放(6月14日参照>>)、敵をビビらせるためには3千人の生首を並べたり(8月17日参照>>)、三方ヶ原に勝利した翌日には、あの織田信長(おだのぶなが)を挑発(12月23日参照>>)したり・・・

そんな絶対的猛者の信玄が、大好きな男の子の心を捕まえておきたくて右往左往してる様子・・・心理学をカジった事のある茶々としては、このギャップが魅力的で、むしろ、「だからこそ人気がある」のだと思っているのです。

ちなみに、たまに、このラブレターの相手が男だという事に注目してしまう場合がありますが、以前、江戸時代に流行った若衆歌舞伎(6月20日参照>>)のページに書かせていただいてるように、この時代の男同士の恋愛は、特別珍しい事ではありませんので、そこではなく、人間味あふれる信玄さんの様子に、ご注目です。

・‥…━━━☆

一、弥七郎に頻(しきり)に度々申し候へども、虫気(むしけ)のよし申し候あひだ、了簡(りょうけん)なく候。全くわが偽(いつわり)になく候。
一、弥七郎伽
(とぎ)に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんずく今夜存知よらず候のこと。
一、別して知音
(ちいん)申したきまゝ、色々走り廻り候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。 

この条々、いつはり候はば、当国一、ニ、三明神、富士、白山、殊(こと)に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、諏訪上下(すわかみしも)大明神、罰を蒙(こうむ)るべきものなり。よって件(くだん)の如し。
内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候あひだ、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべく候。

 七月五日
     晴信
(←花押)
  春日源助との

・‥…━━━☆

現代風に意訳すると・・・

・‥…━━━☆

「弥七郎には、何回か言い寄ったんは言い寄ったんやけど、腹痛やって断られて、結局は何も無かったんや~これ、ホンマ、嘘ちゃうからな」
「弥七郎に夜の相手をさせた事は無い!それは、前から無い!もちろん、夜だけやなくて昼間も無いって事やで。
まして、今夜なんて事、あるわけないやろ」
この事、知ってほしくて、色々動きまわるんやけど、かえって疑いをかけられて、ホンマ困ってんねん。
 

もし、この手紙に書いた事が嘘やったら、神様の罰でも何でも受けるつもりやから、ホンマ、わかってな?
ほんまやったら、正式な誓いの紙に書かなアカンところやねんけど、今夜は
庚申(こうしん)待ちでみんな起きてるよって、他人の目があるさかい、明日、もっかい、ちゃんとした誓いの紙に書くからね~」

・‥…━━━☆

てな感じ・・・て、
何回か言い寄っとんのかい!(*`ε´*)ノ
断られて無かったらいっとったんかい!(=゚ω゚)ノ

というツッコミはさておき、

なんだか、右往左往する様子が目に浮かぶような、見てるコチラの顔も思わずニンマリしてしまうような、リアル感満載の手紙です。

正式には『春日源助宛武田晴信誓詞(東京大学史料編纂所蔵)と呼ばれるこの手紙・・・

この時の信玄は未だ出家前なので名前は晴信(はるのぶ)、この手紙自体には、年号がありませんが、最後の方に出て来る「甲役人多く候」「庚申待ちをしている人が多いので…」という風に解釈できるところから、7月5日が庚申の日(庚申待ちとは=3月6日参照>>)だった天文十五年(1546年)の手紙であろうと推測されているのです。

また、宛先の「春日源助との」とは、『甲陽軍鑑』(9月9日参照>>)の原本を記録したとも言われる武田四天王の一人=春日虎綱(かすがとらつな=高坂昌信)と一般的には言われています(異説もあり)

とは言え本当に、相手がイケメンの誉れ高い春日虎綱で、書いたのが天文十五年なのだとしたら、信玄25歳で虎綱19歳・・・映像として描くなら、もう、これ以上ないドキドキもんのボーイズラブシーンのような気が・・・

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とまぁ、アホな事を言うとりますが・・・

実は、この手紙・・・まったく別の見方もできます。

冒頭に書いた、江戸時代に流行した若衆歌舞伎(再び6月20日参照>>)などは、ほぼほぼ趣味嗜好の世界ですが、そのページにも書かせていただいたように、戦国時代の男同士の関係は、単に恋愛だけではなかったわけで・・・

もちろん、おおもとには「戦場に女性を連れていけない」からの「夜のお相手」という部分もあったでしょうが、結果的に、それがあったればこそ、そこに揺るぎない主従関係が生まれた事も確かでしょう。

その関係が保たれている限り、主君から見れば「忠義を貫いてくれる部下」であり、家臣から見れば「自分を引き上げてくれる上司」だったという事です。

裏切りが当たり前の戦国の世で、主君の命令に忠実な家臣を育てる場合、パワハラ気味な強い態度で、力で以って言う事を聞かせる事もアリかも知れませんが、「この上司のためなら死んでもイイ(゚▽゚*)」というまでの信頼関係を構築する事も大事で、そのための一つの手段が「体のつながりを持つ」という事だったワケです。

今回の信玄の手紙も、主君から年下の家臣に宛てたにしては、けっこう丁寧な書き方で、だからこそ、必死のパッチで疑いを晴らそうとしているように感じてしまうわけですが、

戦国時代には、それこそ、「体の切れ目が縁の切れ目」とばかりに、その一族もろともに謀反を起こした例も少なく無い・・・なんせ、美少年の後ろには、その一族もついていて、美少年の肩には、その一族の未来ものしかかっているわけで・・・
【あんなに愛した仲なのに…陶晴賢・大寧寺の変】参照>>)

てな事で、一見、アタフタして浮気の弁解をしているように見えるこの信玄の手紙は、実は、家臣をつなぎとめておくための、計算ずくのしたたかな手段?・・・いや、物事を穏便に済ますための、信玄独特の気配り?の現れだったのかも知れません。
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