天文法華の乱へ向かう~山科本願寺の戦い
天文元年(1532年)8月23日、細川晴元方の軍勢が山科本願寺を包囲しました。
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後の天文五年(1536年)7月、京都の町を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)へと向かう途中の、山科本願寺の戦いと呼ばれる戦いです。
室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)として自らの意のままになる将軍を擁立して、事実上、政権を掌握した細川政元(ほそかわまさもと)(6月20日参照>>)・・・その死後に起こった養子同士の後継者争いで、ライバルの細川高国(たかくに)に勝利して(6月8日参照>>)、政権を奪取した細川晴元(はるもと)でしたが、そのVS高国戦で、ともに大活躍してくれた配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)と木沢長政(きざわながまさ)との間に亀裂が生じた際、晴元は長政側につきます。
そこに、三好一族や、長政の元上司で河内(かわち=大阪府東部)・山城(やましろ=京都府南部)の守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)=畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)も加わって、
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」
の構図ができる中、
天文元年(1532年)6月、長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を、元長方の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)に攻められて、分が悪い晴元は、法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)の大スポンサーだった元長に対抗して、京の宗教界で勢力を二分する山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)の第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に援助を要請・・・晴元の意向を受けた教祖様に扇動された一向一揆(いっこういっき=本願寺宗徒の一揆)が3万~10万もの大軍に膨れ上がって、河内へと乱入し、一秀を討ち取り、義堯と元長を自害させました。
しかし、止まらないその勢いは翌7月に入って大和(やまと=奈良県)へと波及し、興福寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)や春日大社に放火して回り、結果、奈良市中が燃え尽くされたのです(7月17日参照>>)。
この、あまりの勢いにビビッたのは、自らパンドラの箱を開けちゃった晴元自身です。
そもそも一揆とは、国家権力など、大きな権力に対抗する民衆の意思&不満が根底にあるわけで、今回、一向一揆の助けを借りて元長を倒したものの、そうやって盤石な政権を樹立すれは、今度は、政権を握る自分自身が一揆の対象になってしまうという矛盾・・・
まもなく、その脅威は皆の感じるとこととなり、「もうすぐ一向一揆衆が京都の町に乱入し、京中にある日蓮宗を襲撃する」との噂がたちはじめ、と京都市民は「今日か」「明日か」と眠れる夜を過ごす事に・・・
そのため、洛中にある法華宗の21ヶ寺の本山は武装を強化し、洛中の信者たちも自衛に立ち上がって、法華一揆が蜂起すると、晴元は法華門徒と手を結び、一向一揆に対抗する構えを見せます。
そんなこんなの8月2日、晴元が滞在中の堺(さかい)に一向一揆勢が乱入して戦闘状態に陥るも、何とか抵抗して晴元側の勝利に・・・これを受けた長政が、堺の本願寺道場に放火すると、たちまち、和泉(いずみ=大阪府南部)・摂津(せっつ=大阪府北部)・河内・大和の4ヶ所の一向一揆衆が蜂起し、またもや堺で戦闘に・・・
一方、京都では8月7日から10日にかけて、晴元側の亡き柳本甚次郎(やなぎもとじんじろう=柳本賢治の一族で後継)の遺臣を率いる山村正次(やまもとまさつぐ)が、法華門徒数千人とともに洛中や東山・山科などを騒ぎ回って本願寺を威嚇・・・
すると、8月15日には、コチラも数千人の本願寺門徒が清水寺(きよみずでら=京都市東山区)近くでかがり火を焚いて威嚇します。
8月16日と17日には、この東山山麓で両一揆勢同士の激しい戦闘が繰り広げられましたが、ここでは法華一揆の勝利・・・さらに19日には、一向一揆勢が山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に布陣して西国街道を抑えようとしますが、すぐに柳本勢率いる法華衆が向かい、激戦の末、一向一揆勢を敗走させました。
京都周辺での、この2度の勝利のおかげで、東山周辺と山崎周辺=都の東西を法華門徒で固める事ができたのです。
かくして天文元年(1532年)8月23日、柳本勢・法華門徒に加え、近江(おうみ=滋賀県)から駆けつけた六角定頼(ろっかくさだより)の軍勢も加えた細川晴元軍が山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を包囲したのです。
山科本願寺・包囲の図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
西側の粟田口(あわたぐち)には法華衆、
大津からの東の玄関口には六角勢、
南の汁谷口には柳本勢、
三井寺へと抜ける東岩倉山には付近の郷土民たち、
と、まさに完全包囲した状態で本願寺周辺に放火し、刈田をして回ります。
翌24日、早朝、いよいよ総攻撃を開始・・・やがて本願寺の各所が破られはじめ、そこから乱入して行った細川勢によって寺内のあちこちに火が放たれた事で、午前10時頃に勝敗は決しました。
「まるで城のようだ」
と言われた山科本願寺の坊舎は、跡形も無く焼き尽くされ、すべてが灰になりました。
この後、しばらくは法華・一向の両一揆の小競り合いがありましたが、10月頃には、ほぼ平常に戻り、京都の人々も一安心・・・
こうして、京都の本拠を失った本願寺証如は、この後、真宗の中興の祖である蓮如(3月25日参照>>)が隠居所として建てた摂津・大坂の石山御坊(いしやまごぼう)へと移り、以後、ここが本願寺門徒の本拠に(5月2日参照>>)・・・そう、後に織田信長(おだのぶなが)に真っ向立ち向かう石山本願寺(いしやまほんがんじ)(11月24日参照>>)です。
一方、勝利者側となった法華門徒は、事実上、洛中を掌握する事になったわけですが、そうなると・・・ん?晴元から見れば、一向一揆が法華一揆に代わっただけな気がしないでもない・・・
で、ここに登場するのが、洛中に多くの所領や末寺を抱える比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)・・・彼らもまた、法華門徒の一人勝ちを快く思わないわけで・・・かくして天文五年(1536年)7月、京都の町を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)となります。
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