織田の物にはさせへんで~上杉謙信の飛騨侵攻
天正四年(1576年)8月4日、飛騨地方攻略に乗り出した上杉謙信の軍が飛越国境に到着しました。
・・・・・・・・・
雌雄を争った川中島も一区切りを迎え(8月3日参照>>)、敵対した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、今は亡き今川義元(いまがわよしもと)の領地=駿河(するが=静岡県東部)の攻略に舵を切った事で、越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)の目は、これまで何度も遠征していた越中(えっちゅう=富山県)&加賀(かが=石川県)=西の方角へ向かっていきます。(参照ページ↓)
【謙信の増山城&隠尾城の戦い】>>
【謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦】>>
【謙信VS越中一向一揆~日宮城攻防】>>
一方、永禄十一年(1568年)に、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)ですが、間もなく生じた義昭との亀裂の末、元亀四年(天正元年=1573年)に義昭を填島城(まきしまじょう=京都府宇治市)に攻めて(7月18日参照>>)追放・・・しかし、追放後も安芸(あき=広島県)の毛利(もうり)のもとに身を寄せて、各地の戦国武将に「反信長」を呼び掛けた義昭の画策により、徐々に『信長包囲網(のぶながほういもう)』のような態勢が築かれていくのですが、
しかし、同じ天正元年(1573年)に、その『信長包囲網』の中心的存在だった武田信玄が亡くなり(1月11日参照>>)、北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井(あざい)(8月28日参照>>)&越前(えちぜん=福井県)の朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)が信長に倒された事で、『信長包囲網』内の最大勢力が、本願寺第11代・顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)を教祖とする本願寺宗徒=一向一揆となりつつある頃、、
信長は、倒した浅井&朝倉のその先=加賀&越中の北陸へと迫りはじめるのです。
【信長VS越前一向一揆~桂田攻め】>>
【先走り過ぎた若き猛者・長繁の最期】>>
【織田信長VS越前一向一揆】>>
上記の通り、これまで何度も越中に遠征している=北陸を手中に治めておきたい謙信は、信長が安土築城(2月23日参照>>)を開始した天正四年(1576年)、再び越中富山に侵攻を開始したのです(3月17日参照>>)。
一方の信長自身は、5月に天王寺合戦(5月3日参照>>)、7月に第1次木津川口海戦(7月13日参照>>)と、まさに一向一揆の本丸=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との交戦を展開中でしたが、そんなさ中の5月18日に、謙信は長年敵対していた本願寺と和睦(5月18日参照>>)・・・事実上、謙信もまた『信長包囲網』の一翼となった事になりますが・・・
そんな時、飛騨(ひだ=岐阜県北部)大野郡(おおのぐん=現在の高山市付近)の国人(土地に根付いた地侍)=塩屋秋貞(しおやあきさだ)から謙信のもとに書状が届きます。
この飛騨という場所は、もともとは、源氏の流れを汲む京極氏(きょうごくし)が代々守護(しゅご=今で言う県知事)を務めていた京極氏の領地でしたが、ご存じのように、その京極氏が応仁の乱後に徐々に衰退していったため(8月7日参照>>)、戦国の世にはそれぞれの国人領主が群雄割拠する場所となっていました。
ただ、地理的に、謙信の越後と信玄の甲斐に挟まれてるうえ、信濃(しなの=長野県)とも隣接している事から、多くの国人たちが、甲斐と信濃を支配する信玄の傘下に入っていましたが、上記の通り、その信玄が死に、後を継いだ武田勝頼(かつより)が、前年の天正三年(1575年)には長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)(5月21日参照>>)にて信長に大敗したとのニュースが駆け抜けた事から、飛騨の諸将たちは、動揺しつつも「この先見据えて慎重に行動せねば!」と状況を静観していたわけですが・・・
そんな中、京極氏の一族で元家臣だった三木氏の姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱から改名)が、いち早く信長にすり寄っていた事から、ここに来てずいぶんと勢力を拡大し、飛騨統一の勢いを見せ始めていたのです。
そこで、謙信派の塩屋秋貞が、
「このままでは飛騨は姉小路の物=姉小路の物は織田の物、織田の物は織田の物になってしまいまっせ。今のうちやったら何とかなります。僕が迎えを出しますよって援軍お願いします(人><)」
という書状を送ったわけです。
先にもお話したように、もともと越中を手中に治めておきたい謙信・・・ひょっとしたら「飛騨の事はそれほど…」と思っていたかも?ですが、かと言って越中に接している国が敵に回れば、それはそれで厄介です。
「ならば…」
と飛騨への出陣を決意した謙信は、自ら、7月下旬に春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出発し、まずは魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)に入った後、配下の河田長親(かわだながちか)を大将とした6000余騎の軍勢を、先発隊として飛騨へ向かわせたのです。
この先発隊が越中の加賀沢(かがさわ=富山県富山市加賀沢)から飛騨小豆沢(あずきさわ=岐阜県飛騨市宮川町)へと入った天正四年(1576年)8月4日、国境まで出迎えた塩屋の者と落ち合い、総大将=謙信の到着を待ちます。
やがて謙信も到着し、用意していた多数の牛に荷物を運搬させつつ、塩屋秋貞らの道案内にて南西方面に向かいますが、運悪く台風が来ていて三日三晩暴風雨と濃霧が続いたうえに、進む道が大変な悪路だったため、かなり厳しい行軍・・・やっとこさ塩屋城(しおやじょう=岐阜県飛騨市宮川町)に到着した後、数日間滞在してしばし休息を取りました。
この時、幾人かの近在の者が、自ら降伏の意を表して謙信のもとへ挨拶に来た事から、ゴキゲンの謙信は、この後、悪路をものともせず駒を進め、姉小路頼綱の松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山市)を攻めるべく高山へと入り、川上川(かわかみがわ=高山市の清見町付近)付近に陣を構えます。
この間、松倉城を包囲しつつ、謙信は、白川郷に帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村保木脇)を持つ内ヶ島氏理(うちがしまうじよし)を攻撃すべく、約800の別働隊を向かわせますが、この時、城主の氏理が信長の命により越前での戦いに駆り出されていて、たまたま留守であり、城兵がほんのわずかであったため、あっけなく落城・・・アッという間に戻って来て、またまた松倉城包囲の兵に合流・・・
一方、囲まれた松倉城の頼綱は・・・
イザとなれば、謙信と相まみえるつもりで防御は固めたものの、上記の通り、揺るがぬ強さを見せつけられたうえに、小島城(こじまじょう=岐阜県飛騨市古川町)の姉小路時光(ときみつ)や、水無神社(みなしじんじゃ=岐阜県高山市)の宮司や氏子までが謙信に降った事を知り、さすがに「もはや、これまで!」と感じるようになりました。
そうなると、道は二つ・・・
城を枕に一族郎党滅亡覚悟で戦うか?
お家と血筋を残すために降伏するか?
頼綱は後者を選びました。
謙信は、最初は頼綱らをせん滅させるつもりでいましたが、現段階では、未だやり残した事があったので、頼綱の降伏を許し、彼が新たに切り取った大野の地を没収し、もとから持っていた旧領を安堵する事で、頼綱を受け入れました。
頼綱が謙信に降った事を知った周辺の国人や小豪族たちが、次々と謙信の傘下となって行く中、謙信は、そのやり残した事をやりに高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市)へと駒を進めます。
実はこの高原城の江馬輝盛(えまてるもり)・・・彼こそまさに、上杉と武田の間に挟まれて、その動向が常に揺れていた人物なのです。
かの川中島では、バッチリ武田の軍勢として参戦し、かなり武田ドップリの雰囲気を醸し出しておきながら、信玄死すの情報を、いち早く謙信に知らせて降伏する雰囲気を醸し出して来たり・・・まぁ、大物に挟まれた戦国領主が生き残るためには、得てして、そんな感じなんでしょうけど・・・
とは言え、このまま宙ぶらりんの状態で良いわけがなく、ここでハッキリと決着をつけなければ・・・
もちろん、迎える輝盛も、その事は重々承知・・・周辺の支城の防備を固め、主力を高原本城に集結させ、武田勝頼や越中の椎名康胤(しいなやすたね)(4月13日参照>>)に援軍要請の使者を出して籠城戦に挑みます。
しかし、さすがの上杉軍・・・支城の守りは次々と破られ、天然の要害を利用した防衛網も突破され、やがては、城の櫓も焼かれ、出丸も占拠されてしまいました。
しかも、勝頼の援軍は重臣の反対で立ち消えとなり、康胤は、早々に謙信に下ってしまっていて、どちらの援軍も期待できず・・・やむなく輝盛も、謙信との和睦を決意しました。
謙信は、領地の半分は没収したものの、高原は、鎌倉以来の江馬氏伝来の土地でもある事から、この地は安堵としました。
こうして、飛騨一帯は謙信の物となり、この戦いで最も功績のあった塩屋秋貞には、新たな領地と飛騨目代(もくだい=代官)の役職が与えられる事となりました。
以上、謙信の飛騨侵攻でしたが、実は、細かな部分は江戸以降の軍記物によるところが大きく、どこまで史実かは微妙なところではありますが、『上杉三代日記』の天正四年の条にも、「飛騨一国は越後仕置」とある事から、この時期に謙信が飛騨に遠征して飛騨の国人たちが上杉になびいた事は確かでしょう。
しかし、世の中、皮肉な物・・・
この翌年の9月、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)を落とし(9月13日参照>>)、手取川(てどりがわ=石川県白山市付近)にて(9月18日参照>>)織田の北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)と相まみえる謙信は、さらにその翌年・・・つまり、この飛騨攻略から、わずか1年半後に命を落とし(3月13日参照>>)、その後の上杉が後継者争いにゴタゴタ(3月17日参照>>)してしまった事から、謙信が手中に治めておきたかった、これらの地のほとんどは、その間に信長の物となってしまう(10月4日参照>>)のです。
ホント戦国とは・・・一寸先はわからない物ですね。
●信長亡き後の後の戦国飛騨の生き残りについては1月27日の【三木×広瀬×牛丸×江馬~戦国飛騨の生き残り作戦】でどうぞ>>
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コメント
茶々さん、こんばんは。
徳島は暑いです。阿波踊り期間中です。飛騨の祭りは高山祭が春と秋なので良いですね。
ところで飛騨は山々ばかりなのと耕す地域は少ないです。確か白川村だと富山の方の観光案内があるくらいに岐阜なのに富山の方が親しみがわくぐらいに北陸と言う感じです。謙信が信長よりも早く制圧したのもわかるなと思いました。
ここの東条甚つと違い私は非常に神経質なのでご迷惑をかけているかなと思いますがこれからもよろしくお願いします。
投稿: non | 2017年8月14日 (月) 17時59分
nonさん、こんばんは~
>白川村だと富山の方の観光案内
世界遺産の登録で「白川郷&五箇山」となってるからでしょうね。
投稿: 茶々 | 2017年8月15日 (火) 01時37分