足利義昭を奉じて~織田信長の上洛
永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えて上洛する織田信長が、美濃を出立しました。
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ご存じの足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛ですが、これまでも、このブログ内のいろんな所でチョコチョコ出て来てますので、内容がかぶり気味になるかとは思いますが、とりあえず今回は、信長上洛の様子を、時系列的にまとめてご紹介してみたいと思います。
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兄である第13代将軍・足利義輝(よしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)&三好三人衆らに暗殺された(5月19日参照>>)永禄八年(1565年)5月、幕臣の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らの手引きにより幽閉先から脱出した義輝の弟=足利義昭は(7月28日参照>>)、越前(福井県)一乗谷の朝倉義景(よしかげ)のもとに身を寄せながら、自分を担ぎあげて上洛してくれそうな戦国大名たちに対して、せっせとお誘いの手紙を送るのですが、なかなか色よい返事をしてくれる大名は現れず・・・
しかし、そうこうしているうちの永禄十一年(1568年)2月8日、かの久秀と三好三人衆が擁立した義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)に朝廷からの許しが出て、第14代室町幕府将軍宣下がなされ、事実上、畿内は義栄以下、久秀や三好三人衆が牛耳る事態に・・・。
これまで、「できれば名のある大名に京都に連れてってもらいたい!」と願っていた義昭ですが、上記の通り、待った無しの状況となり、以前から朝倉家臣の明智光秀(あけちみつひで)なる武将が勧めてくれる織田信長へ方針転換・・・永禄十一年(1568年)7月、「これからは、織田くんの事を、ひたすら頼りにしたいんやけど…」と信長に打診したのです(10月4日参照>>)。
当時の信長は・・・
永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(5月19日参照>>)で今川義元(いまがわよしもと)を破って後、永禄五年(1562年)に尾張一国を統一・・・今回の義昭接触の前年の永禄十年(1567年)に斎藤氏から稲葉山城を奪い(8月15日参照>>)、その地を岐阜と改めて本拠とし、あの『天下布武』の印鑑を使い始めたばかり・・・
『天下布武』とは、「天下に武を布(し)く」=「俺の武力で天下を治めるゾ」ってな意味(別解釈もアリ)ですから、「この岐阜の地から、まずは畿内を制して…」と天下を視野に入れていた信長にとっては、今回の事は、まさに渡りに舟・・・
「微力ながら、天下のために忠義を尽くします」と、義昭の申し入れを快諾した信長は、早速、義昭のもとに使者を送ると同時に、美濃の立正寺(りっしょうじ=立政寺=岐阜県岐阜市)に宿所を準備します。
永禄十一年(1568年)7月25日、美濃へと到着した義昭ご一行の部屋に準備されていたのは、ドド~ンと銅銭千貫文(現在だと一億超えの現金)と、その横には、これまたドド~ンと、太刀や鎧に始まる豪華絢爛な武具の数々・・・
大喜びする義昭らを見て、一刻も早い上洛を決意した信長は、近江の佐和山(さわやま=滋賀県彦根市)へと向かい、妹(もしくは姪)のお市の方を嫁がせて味方につけた北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)に初対面した(2011年6月28日の前半部分参照>>)後、その佐和山から、義昭の使者に自分の使者をつけて、南近江(滋賀県南部)を支配する大物=六角承禎(じょうてい・義賢)(10月7日参照>>)の説得にあたります。
「義昭公が上洛されるので、忠誠の証として人質を出し、それ相当の対応してくれはりますか?」と・・・しかし、承禎の答えはNOでした。
しかし、まだ諦めず、7日間渡って説得を続け、「義昭公が将軍になったあかつきには、承禎さんを幕府所司代(しょしだい=侍所の副長官)に任命するて言うてはりますよって…」と提示しましたが、やはり承禎は拒否し続けました。
こうなると、力づくで近江を制して上洛するしかありません。
信長上洛の道のり
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かくして永禄十一年(1568年)9月7日、「一気に近江を平らげて、すぐにお迎えを差し上げますよ」と、義昭に別れの挨拶をした信長は、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて出陣したのです。
その日は平尾村(岐阜県不破郡垂井町)に陣を取り、翌日には近江の高宮(滋賀県彦根市)に到着・・・ここで2日間の休養をとり、そこに浅井の軍も加わった11日には、愛知川(えちがわ)付近に滞在して、自らが馬に乗って周辺の状況を確認し、周辺に散らばる六角氏傘下の城のうち、承禎らの籠る観音寺城(かんのんじじょう)と箕作城(みつくりじょう)との和田山城(わだやまじょう)の3ヶ所に狙いを定めます。
翌12日は、自らの軍勢を3隊に分けて、それぞれに配置して攻撃を開始・・・13日には観音寺城の承禎らも夜陰に紛れて逃走し、世に言う観音寺城の戦いは織田方の勝利に終わりました(9月12日参照>>)。
ここで、約束通り、立正寺の義昭のもとに不破光治(ふわみつはる)を派遣して「どうぞ、ご上洛を…」と・・・これを受け取った義昭は、ようやく岐阜を出立し、21日には米原(まいばら)、22日には安土(あづち)の桑実寺(くわのみでら)に到着・・・
一方の信長は、24日には守山(もりやま=滋賀県守山市)まで進出し、翌25日は琵琶湖を渡れず瀬田で足踏みしたものの、26日には琵琶湖を渡り、三井寺(みいでら=園城寺・大津市)の極楽院に陣取りました。
翌27日には、義昭も琵琶湖を渡り、同じく三井寺の光浄院に入り、さらに翌28日には、信長が東福寺(とうふくじ=京都市東山区)に陣を移動させると同時に、柴田勝家(しばたかついえ)・蜂屋頼隆(はちやよりたか)・森可成(もりよしなり)・坂井政尚(さかいまさなお)の4名に先鋒を命じて、三好三人衆の一人=石成友通(いわなりともみち=岩成友通)の拠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)方面へと攻撃を仕掛けさせます。
もちろん、友通も抵抗しますが、この日のうちに150余の首を挙げられ、翌29日には、信長自身が出馬した事によって降伏し、勝竜寺城は開け渡されました。
ちなみに・・・一般的に「足利義昭を奉じて信長が上洛」という場合、上記の三井寺に入った9月26日か、東福寺に陣を張った9月28日が「上洛の日」とされる事が多いです。
その後、30日に信長が山崎(やまざき)に着陣すると、先鋒は三人衆の一人=三好長逸(みよしながやす)が籠る芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)へ・・・そしてここも、その日の夜には敵兵が退城し、織田方の物となります。
この時、いち時は畿内を掌握して事実上の天下人だった事もある細川晴元(ほそかわはるもと)(2月13日参照>>)の息子=細川昭元(あきもと)は、三好三人衆に担がれて、名目上の管領(かんれい=将軍の補佐役)となっていましたが、長逸とともに芥川山城を退去し、14代将軍の義栄もつれて阿波(あわ=徳島県)へと逃れました。
また、三人衆の残りの一人=三好政康(まさやす)も、いずこともなく身を隠しました。
続いて10月2日には池田勝正(いけだかつまさ)の池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を攻撃・・・ここでは激しい戦いとなり、敵味方ともに多くの死傷者を出しますが、最後には城に火をかけ城下町を焼き払った事から、勝正は人質を差し出しての降伏となりました。
ちなみに、この時、14日間に渡って芥川山城に滞在していた信長のもとには、「この機会に…」と面会を希望する人が後を絶たず、門前には行列ができたとか・・・その中には、わずかの間に三好三人衆と袂を分かつ(11月18日参照>>)事になった松永久秀もいて、彼は、信長に名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して、また、今井宗久(いまいそうきゅう)も名物の茶壷「松島」&茶入れ「茄子」を献上して、この時に信長の傘下に入っています。
10月14日には、信長は京都に戻り、一旦、本国寺(ほんこくじ=京都市下京区・本圀寺)に入った後、軍勢を引き連れて清水寺(きよみずでら=京都市東山区)へ・・・この時、信長は、配下の者には規律を守るよう徹底し、周辺の警備も厳重にした事から、兵士たちの狼藉や、治安を乱すような事件も起こらず、都の人々は、「これで平和になるヽ(´▽`)/」と胸をなでおろし、大いに喜んだと言います。
その後、畿内に残っていた抵抗勢力も、10日余りで徐々に退散して行く中、信長は、空となっている細川昭元の屋敷をリフォームして義昭の滞在する御殿とし、義昭はお引越・・・御殿とともに太刀と馬を献上した信長に、義昭は大喜びで、その日の宴会では、自ら信長にお酌をしてみせたとか・・・
かくして永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭は、朝廷からの将軍宣下を受け、正式に、第15代室町幕府将軍に就任したのです(10月18日参照>>)。
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以上、今回は、信長の上洛の状況を、日付を追って書かせていただきましたが、それぞれの戦いの様子や細かな事については、まだ書いていない部分も多々ありますので、そのあたりは、いずれ、その日付で記事を書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
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