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2017年10月 2日 (月)

織田信長の高野山攻め

 

天正九年(1581年)10月2日、高野山攻めを決意した織田信長の先陣が紀伊根来に到着しました。

・・・・・・・・

ご存じ・・・高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)は、平安時代初期の僧=空海(くうかい=弘法大師)が開いた高野山真言宗総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)を中心に100か所以上の寺院や宿坊などが集まる宗教都市です。

創建以来、その重要さ故、内外の紛争に巻き込まれる事も多かった高野山ですが、やはり戦国期になってからは、その規模も大きくなったと言います。

そんな中での天正九年(1581年)からの、織田信長(おだのぶなが)による高野攻め・・・

その高野攻めの発端となったのは、信長の傘下となって以来、なかなかのお気に入りで出世コースを歩んでいたはずの荒木村重(あらきむらしげ)の謀反でした。

謀反の要因は様々に語られ、未だ村重自身の心の奥底は読めないのですが、とにかく、村重は、信長とただ今交戦中の石山本願寺に内通し、天正六年(1578年)10月21日、突如として居城の有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城とも)に籠ってしまうのです。

これを受けた信長は何度も使者を出して説得しますが、村重は断固拒否・・・有岡城が危うくなると、妻子を残してわずかな側近だけを連れて尼崎城(兵庫県尼崎市)へと逃走し(12月16日参照>>)、さらに移った花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市)でも、またもや落城寸前に逃走し(3月2日参照>>)・・・

そんなこんなの天正八年(1580年)閏3月5日、有岡城攻防戦のさ中に城を脱出した荒木方の落武者5名を、高野山内にある寺が匿っている事が発覚したのです。

例の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)でもそうであったように、発覚した以上、信長としては捨て置くわけにはいきません。

その年の7月、信長は前田利家(まえだとしいえ)不破光治(ふわみつはる)の両名を使者として送り、彼らを引き渡すよう交渉しますが、窮鳥入懐(きゅうちょうにゅうかい)すれば猟師も殺さず=懐に逃げ込んできた鳥は猟師でも助けるとばかりに完全拒否・・・ただし、この段階では、あくまで冷静な話し合いであって、未だ高圧的かつ暴力的な事はまったく無かったようです。

翌・8月には、信長と石山本願寺の間で約10年に渡って繰り広げられた石山合戦が終結(8月2日参照>>)し、その合戦絡みで信長からの叱責を受けて追放された佐久間信盛(さくまのぶもり)父子が高野山へと落ちて来ましたが、コチラは長居する事無く、さらに熊野方面へと落ちて行きました(7月24日参照>>)

しかし、それと前後して事件が起こります

当時、信長から(さかい=大阪府堺市)代官を任されていた松井友閑(まついゆうかん)配下(一説には秀吉の配下?)の足軽32名が「荒木浪人の探索」と称して高野山に乱入し、土足で堂塔に上がり込んで内外を捜索しまくったのです。

これに怒った高野山側は、その怒りを隠しつつ、彼らを3か所の坊に分散して、お酒など振舞ってもてなし、その最中に一斉に合図の鐘をを鳴らして、32名全員を殺害したのです。

確かに配下の先走り&無礼はあったものの、これにブチ切れた信長は御室御所(おむろごしょ=仁和寺の事)におわす任助法親王(にんじょほうしんのう=伏見宮貞敦親王の第4子で後奈良院の猶子)令旨(りょうじ=皇太子などの命令を伝えるために出した文書)を得て、諸国を巡っている高野聖(こうやひじり=全国で布教活動している僧)片っ端から捕えたのです。

驚いたのは高野山・・・どうやら、高野山側には、未だ信長と武力による徹底抗戦するつもりは無かったようで、慌てて安土へと使者を派遣して謝罪したり、先の法親王を通じて和解を申し込んできたり・・・と、この8月は何度も使者が行き交ったようです。

一方の信長も・・・・
この時の9月21日の日付で高野山に対して「大和での領地を安堵する」内容の朱印状を発行していますので、武力で以って一気に焼き討ち~ではなく、まだまだ話し合いで解決しようと思っていたようです。

しかし、結局はいつまで経っても交渉は前に進まず、あげくに高野山側が「彼らは、もう逃走した」と言い始めたため、いよいよ信長は出兵を決意し、捕えていた高野聖や僧たちを処刑したのです。

かくして天正九年(1581年)10月2日、織田方の先陣として堀秀政(ほりひでまさ)紀伊(きい=和歌山県)侵出・・・早速、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の近くに陣を張りました。

実は、同じような武装集団を抱える紀伊の寺という事で、根来寺は高野山に味方するんじゃないか?と考え、まずは様子見ぃで、近くに布陣したわけですが、この頃の高野山と根来寺は仲が良いわけでもなかったようで、根来寺はアッサリと人質を差し出して無関係を表明し、傍観の構え・・・なので秀政は悠々と根来に布陣したと言います。

ただし・・・今回の信長による高野攻めのお話は『高野春秋(こうやしゅんじゅう)なる文献に書かれているお話・・・他の史料には、ほとんと登場しません。

たとえば、信長の史料として特に有名な『信長公記』では、「高野山が荒木の残党を匿って使者を殺害したので高野聖を成敗した」話は出て来ますが「その後に高野山を攻めた」という話は出て来ません。

実は、この『高野春秋』は、文字通り高野山の歴史をまとめた物で、史料的価値があり、高野山についてはかなりくわしく書かれている物なのですが、いかんせん書いたのが高野山の学僧なので、高野山を愛するあまりの偏見や、少々の間違い&感違いもあり・・・

なので、上記の堀秀政なんかは、『高野春秋』では1番に紀伊へ入り、この後も、高野攻め総大将の織田信孝(おだのぶたか=信長の三男・神戸信孝)に代わって大将代理を務めた重要人物のように書かれていますが、実際には、この時の秀政は、同時期に起こった伊賀攻め(9月3日参照>>)やら甲州征伐(VS武田)(2月9日参照>>)やらに派遣されており、この高野山攻めにはいなかった可能性が高いとされています。

てな事で、「鬼畜の信長軍が全力を挙げて攻め込んで来た」とするような『高野春秋』の内容をすべて鵜呑みにするわけにはいかないのですが、一方で、信長が現地の土豪(どごう=土地に根付いた地侍)「兵を派遣するのでヨロシク」と協力を打診する手紙も出したりしてますし、上記の甲州征伐の時に高野山を警戒している様子もうかがえます。

また、公家の日記にも「まもなく出兵されるらしい」と書かれていたり、この年の12月に入っても、まだ朝廷の勅使(ちょくし=天皇からの使者)や両者の使者が行き来していた様子も見て取れ、他にも複数の文献に「高野攻め」の話自体は断片的に出てきますので、おそらく何かしらの衝突があった事は確かかと思われます。

そうなると、やはりこの高野攻めについて1番くわしいのは『高野春秋』・・・という事で、上記のような事を踏まえつつ、今回は『高野春秋』に沿ってお話を進めて参ります。

Nobunagakouyasan
信長の高野攻めの位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

で、高野山には「高野七口(こううやななくち)と呼ばれる高野山へつながる7つの道があるのですが『高野春秋』では、その七口を、
西からの保田口(大門口)
同じく西の麻生津(おうず)
北からの学文路(かむろ)
北東の大和(やまと)
東からの大峯口
南からの熊野口
同じく南方の竜神口
の7つとしています(七口の呼び方には諸説アリ)が、上記の通り天正九年(1581年)10月2日に先陣が根来に入った織田勢は、そのうちの大手にあたる西方から北方にかけてを中心に、背山城(せやまじょう=和歌山県伊都郡かつらぎ町)に総大将の信孝、名古曾(なごそ=和歌山県橋本市高野口町)付近に松山庄五郎橋本岡田重孝(おかだしげたか)、それをサポートするが如く大和口に筒井順慶(つついじゅんけい)父子・・・そして、西方の粉河(こかわ=和歌山県紀の川市粉河)付城(つけじろ)に堀秀政などなど、総勢13万7千余りが紀ノ川の北岸に沿って布陣した・・・

って、さすがにこの数字は『高野春秋』の盛り過ぎかと・・・おそらくは「こんな大軍に立ち向かった高野山スゴイヽ(´▽`)/」というアピールなのでしょうが、この時の信長は、例の伊賀攻めに、西の毛利に、東の武田も健在な時期ですから、ここに、これだけの戦力を投入する事は、おそらくできなかったでしょうから、やはり、戦闘の規模としては『高野春秋』が言うほどの大きな物では無かったのでしょうね。

とは言え、高野山側の守りもなかなかのもの・・・同じく『高野春秋』によれば、
高野山内の衆徒に寺領の兵士、近隣の浪人などを集めて3万6千余りになった軍団の中から選りすぐりを七口の守備に当たらせ、重要な麻生津口には南蓮上院弁仙(なんれんじょういんべんせん)、学文路口には花王院快翁(けおういんかいおう=花王院快応)をそれぞれの大将として配置しています。

実はこの二人・・・
弁仙は、かつて河内(かわち=大阪府東部)守護代を務めた遊佐信教(ゆさのぶのり)の息子で、快翁は、その信教に謀反で殺された主君=守護畠山昭高(はたけやまあきたか)の息子という因縁の関係

しかし、両者ともに有能な武将の父を持ち、彼ら自身も僧になる前は、武士としての鍛錬を受けていた身・・・ここは互いにかつての恨みを捨て、その武将時代に身に付けたノウハウを遺憾なく発揮すべく戦いに挑んだ事でしょう。

さらに、高野山側は茶臼山城(ちゃうすやまじょう=和歌山県紀の川市)脇庵(わきあん)の砦をはじめとする高野七砦を構築しつつ、本職の怨敵退散の祈祷の護摩焚きも怠る事なく・・・こうして、紀ノ川挟んだ北に織田方、南に高野山衆徒が対峙する事となります。

そんな中、年内はなんだかんだで交渉が続けられていたものの、明けて天正十年(1582年)に入ってからは、両陣営のアチラコチラで頻繁に戦闘が勃発するようになります。

2月には織田方の武将=松山重治(まつやましげはる=新介)多和(たわ=橋本市菖蒲谷)に砦を構築し、ここを拠点に九度山(くどやま=和歌山県伊都郡九度山町)方面に連日ように仕掛ける一方で、負けてない高野山側も同じく2月に大和口の筒井順慶の担当場所を襲い、ここを乗っ取ったのだとか・・・

2月末日には、信長方の岡田重孝らが学文路口の砦を襲撃・・・快翁らが奮戦して何とか撃退し、3月3日には、今度は高野山側から多和に夜襲をかけて織田勢を蹴散らしました。

4月に入ると、織田方の総大将を務めていた織田信孝が来たる四国攻めの準備を命じられて戦線を離脱・・・代わって堀秀政が本陣に入りますが、「堀に負けてはならじ!」とばかりに、最初からこの周辺に陣を置いていた武将らが麻生津口を攻めます。

しかし、高野山側は弁仙を中心に城と砦を守りぬいて、逆に、織田方の兜首を131も挙げたため、織田勢は総崩れとなって慌てて退散したため紀ノ川にて溺れる者で、その流れが止まった・・・て、これもやっぱり『高野春秋』の盛り過ぎかな?(堀秀政もいないはずだしネ)

ただし、高野山LOVE感が強過ぎのオーバーな描写ではありますが、何らかの戦闘があった事は事実でしょうし、あの天下の織田勢相手に、高野山がよく防いだ事も確かでしょう。

なんせ、そんなこんなしているうちに、日付は、あの運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>) を迎えてしまうのですから・・・

それも『高野春秋』によれば、
その日、いつものように怨敵退散の祈祷を行っていると、「夜には風も無いのに灯明が消えたり、葛城山(かつらぎさん)から黒雲が立ち込めたかと思うと、天井から生首が二つ落ちて来て、その後3度舞い上がったり落ちたりした後にスッと消えた」という怪現象があって、皆が「何かあったな」と不思議に思っていると、その日の夕刻になって「信長死す」の知らせが届いたと・・・ま、高野山側から見れば、そういう事になるでしょうね~そのために連日、祈祷しているのですから・・・

そして、変からほどなく、高野山にも、そして対陣している織田方にも、異変の報告が届いたのでしょう。

まもなく、織田方が包囲を解き、慌てて退陣していった事で、高野山は危機を脱しました。

・‥…━━━☆

というわけで、本日はほぼほぼ『高野春秋』に沿ってお話をさせていただきましたが、上記の通り、この記録は完全に高野山側に立った人の書いた物・・・と言えど、すべてが嘘かというと、おそらくはそうでは無いわけで、

こうして、玉石混淆の物語を、自分なりにアレコレ推理していくのも、歴史の楽しみの一つですね。
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コメント

フェースブックのタグがついたのですね
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率直に言って、この時の高野山はだいぶ苦戦したんじゃないでしょうか?その後、政権に歯向かう者を匿うことをしなくなりましたから・・・・

交渉が長くなったのは毛利家が背景に居た可能性もありそうですね。毛利家の影響力がどんどん下がっていく中、取り残された勢力という意味合いもあった気がします

投稿: ほよよんほよよん | 2017年10月 2日 (月) 20時33分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

本能寺が無ければ、高野山との関係はどのようになっていたか?
色々と想像してしまいますね。

FBは、なかなかに不慣れなうえに、HPが直リンできないため、ブログ更新のお知らせ欄状態になってしまってます(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2017年10月 3日 (火) 01時38分

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