三方ヶ原前哨戦~井伊・伊平城の仏坂の戦い
元亀三年(1572年)10月22日、武田信玄配下の山県昌景が井伊谷の伊平小屋山城を攻撃した仏坂の戦いがありました。
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永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で当主の今川義元(いまがわよしもと)が討死にして後、息子の今川氏真(うじざね)が領国経営に奔走するも、かつての勢いを失っていく今川家・・・
そんな中、天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)の北条(ほうじょう)&駿河(するが=静岡県東部)の今川との間に甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んでいた甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん=晴信)は、この今川の現状とともに桶狭間キッカケで独立を果たした徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)(2008年5月19日参照>>)の事や、川中島で何度も戦いながらも(8月3日参照>>)決着が付きそうにない越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)との事などを踏まえて、ここで大きく舵を切ります。
つまり、北=信濃(しなの=長野県)&越後方面へ注いでいた心血を、南=今川領方面へと・・・それは、その方針転換に反対する長男=武田義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)までの固い決意でした。
『浜松御在城記』よれば・・・
桶狭間の後に尾張(おわり=愛知県西部)を統一(11月1日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)が、ちょうどその頃、信玄に、
「大井川を境として、東の駿河は武田、西の遠江(とおとうみ=静岡県西部)は徳川クンが切り取ったらえぇんちゃうん?」と、家康への協力を呼びかけて来たのだとか・・・
間も無くの永禄十一年(1568年)9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて信長が上洛をする(9月7日参照>>)事を知っている私たちから見れば、おそらく、怖いオッチャン=信玄の目を京都に向けさせないための信長の策とも取れますが、信玄とて、このチャンスに今川の領地を奪わない手は無いですし、出遅れているうちに、家康がどんどん駿河に侵攻しちゃうかも知れないわけですから、むしろ、積極的に、この案を受け入れた事でしょう。
こうして駿河に侵攻した信玄は、12月12日の薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)から、翌13日には、氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)したのです。
この攻撃に耐えきれず、掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと避難した氏真を、今度は、信玄とほぼ同日に軍事行動を起こしていた家康が攻撃しするわけですが・・・
この時、家康が今川領へと入る道案内をしたとされるのが井伊谷三人衆(いいのやさんいんしゅう)と称される菅沼忠久(すがぬまただひさ)・近藤康用(こんどうやすもち)・鈴木重時(すずきしげとき)の3人。
ただ、『武徳編年集成』によると・・・
家康派だった東三河の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が、強固な今川配下たちの壁を崩すべく、同族の菅沼忠久に声をかけ、その忠久が近藤らを引っ張り込んで家康の道案内をする事になり、約束通り海側に出向いて待っていたものの、家康勢が道を間違えて中宇利(なかうり=愛知県新城市中宇利)の方に行ってしまったため、実際に出向いたのは定盈だけで、その後、定盈が3人を家康に紹介したようですが・・・
ただ、行き違いがあったとは言え、この三人衆が道案内を買って出てくれた事は事実だし、その影響もあっての、今回の遠江への進撃だったわけで・・・家康は、この時、面会した3人に
「今度両三人以馳走、井伊谷筋を遠州口江可打出之旨、本望也」
(君らの働きで井伊谷筋を通って遠州に討ち入る事ができた事は本望や)
として起請文(きしょうもん=神仏に誓って約束を守る契約書)を出し、井伊谷における跡職(あとしき=跡目・家督や財産)を与える事を約束しています。
このあと、家康は引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・曳馬城)に入って(12月20日参照>>)、今川方の武将に調略(ちょうりゃく=政治的工作・はかりごと)をかけ、幾人かがなびいいて来たところで攻撃を開始しますが、敵もさるものでなかなか掛川を落とせないでいたところで、信玄の「早よっ!落とさんかい!」の催促もありつつ・・・で以って、催促で家康が本気出したのか否か?はともかく、翌・永禄十二年(1569年)5月に、ようやく開城となり、氏真は、奥さんの実家=北条氏政(ほうじょううじまさ)を頼って相模へと逃走したのです(12月27日参照>>)。
ここに戦国大名としての今川家は滅亡となりました→その後も今川家の血脈は続きますが(3月16日参照>>)
三方ヶ原前哨戦の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
こうして、駿河は信玄が、遠江は家康の支配下となった(1月18日参照>>)わけですが・・・しかし、このつかの間の落ち着きは、まもなく崩れます。
その要因の一つは、家康が信玄のライバルだった謙信と結んだ事・・・もちろん、それ以前に、上洛した信長の勢いがどんどん大きくなっていく事を警戒心した信玄が、信長と同盟関係にある家康をも警戒して、今川から奪った田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を大幅改修して、駿河西部の守りを強くしていたという事もあったわけですが、
そんな信玄の警戒心を感じた故か・・・家康は、元亀元年(1570年)10月8日に、
「自分が武田とは手切れする」事
「上杉と織田とがイイ関係になるよう自身が仲介役になる」事
「織田(信忠)と武田(松姫)の縁談を破棄させる努力をする」事
などの盛り込んだ起請文を謙信に送ったうえに、かの引馬城を大幅改修&拡大して浜松城(はままつじょう)と名を改め、これまでの岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)を息子の徳川信康(のぶやす=松平信康)に譲って、自身の居城を浜松城としたのです。
おそらく、この家康の上杉へのアプローチを聞きつけたであろう信玄が、翌・元亀二年(1571年)、奥三河(おくみかわ=設楽郡あたり)の地侍だった山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)の切り崩しに成功するのです。
この山家三方衆とは、作手(つくで=愛知県北東部の南設楽郡)の奥平氏(おくだいらし)、長篠(ながしの=愛知県新城市長篠)の菅沼氏(すがぬまし)、田峰(だみね=愛知県北設楽郡設楽町)の菅沼氏の3家で、本来なら、信玄の三河侵攻を阻む最前線であったはずが、信玄の作戦がウマかったのか?今回は3家とも、見事なまでに家康から離反して信玄のもとに走ったのです。
ちなみに、同じ菅沼氏でも離反しなかった菅沼定盈は、この時、本拠の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)に籠って抵抗したとされていましたが、最近では、このお話は別の年の話とされているようです。
とにもかくにも、山家三方衆を懐柔した信玄は、年が明けた元亀三年(1572年)10月3日、2万5千の大軍を率いて、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・「上洛するつもりだった?」とも言われる有名な西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのです。
この時、信玄本隊が飯田からほぼ天竜川に沿って南下し、青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて侵攻するのと同時に、別働隊を任された重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)が東三河から遠江に入って来たわけですが、上記の通り、山家三方衆が味方になっているので菅沼正貞(すがぬままささだ)の長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)あたりまで、ごくごくすんなり入って来たかと思うと、ほどなく、その長篠城の南東に位置する柿本城(かきもとじょう=愛知県新城市下吉田)に攻め寄せたのです。
柿本城は、先の井伊三人衆の一人=鈴木重時の城・・・この時、城を守っていたのは重時の息子=鈴木重好(すずきしげよし)でしたが、彼は未だ14~5歳の少年・・・しかも、その柿本城自体も未だ改修中で、塀があるのは本丸のみで、二の丸は小さな柵があるだけの粗末な物・・・
「このままでは、まともに戦えない!」
と判断した重好らは、一旦、柿本城を捨て、仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)まで撤退・・・その時、伊平城(いだいらじょう=静岡県浜松市北区・小屋山城とも井伊小屋とも)に近藤康用らが籠っている事を知り、重好らも合流して籠城しました。
かくして元亀三年(1572年)10月22日、山県隊が伊平城に押し寄せて来たのです。
大手を山県隊、裏は山家三方衆が率いる多勢で迫る武田勢に対し、近藤、鈴木重俊(すずきしげとし=重時の弟・重好の叔父)、井伊飛騨守(いいひだのかみ=井伊氏の一族=伊平井伊氏?と思われるが史料は皆無)の3名が大手の小屋口で防戦するも、敵から放たれた鉄砲が飛騨守に命中・・・重俊も頬当ての下に弾丸を受けて、両者ともに討死してしまいました。
さらに、戦場は仏坂へも広がり、この周辺で多くの兵士が戦死したと見られ、現在も戦国期の物とおぼしき五輪塔などが建ち、地元では「ふろんぼ様」と呼ばれているのだとか・・・
こうして仏坂の戦いとも伊平小屋城の戦いとも呼ばれる井伊谷(いいのや=同浜松市北区)周辺での戦いに勝利した山県昌景は、一言坂(ひとことざか)の戦い(10月13日参照>>)を終え、二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)を攻略中(10月14日参照>>)の信玄本隊と合流します。
ちなみに、この時に、山県同様に、美濃(みの=岐阜県)方面から侵攻する別働隊を任されていた秋山信友(あきやまのぶとも=晴近・虎繁)が展開していたのが、未亡人LOVEの岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)攻防戦(3月2日参照>>)です。
この後、有名な三方ヶ原(みかたがはら)の戦い(12月22日参照>>)から、翌日の犀ヶ崖(さいががけ)の戦い(12月23日参照>>)・・・そして、年が明けた天正元年(1573年)1月には野田城の攻防戦(1月11日参照>>)へと向かう事になるのですが、ご存じのように、この野田城を最後に信玄の西上はストップし、武田軍は甲斐へと戻る事になります。
そう、信玄の死です(4月12日参照>>)。
信玄の遺言(4月16日参照>>)に従って、その死が隠されていたため、この時に奪われた井伊谷一帯は、しばらくの間は武田の手に落ちていましたが、それが、家康によって奪回されるのは3年後の天正三年(1575年)頃の事だという事です。
残念ながら、本年の大河ドラマの主役=井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)は、このあたりの史料には出て来ませんが・・・
にしても、「伊」と「井」の文字の出現頻度が高い記事でしたなww(*^-^)
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