名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動
永禄六年(1563年)10月7日、重臣殺害の一件で近江の国人衆と対立した六角義治が観音寺城から逃走しました。
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六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、鎌倉時代に近江(おうみ=滋賀県)六郡(犬山・愛智・神崎・蒲生・栗太・志賀)を与えられた佐々木氏(ささきし)の嫡流が、六角東洞院(京都市中京区)に館を構えた事から、六角氏と名乗るようになったと言います。
室町時代には同族の佐々木道誉(ささきどうよ=京極高氏)に代わって近江守護となり、大名として実力を存分に発揮し、応仁の乱後のいち時には、幕府との対立があったものの、戦国に入った六角定頼(ろっかくさだより)の時代には、細川家の管領職争奪戦に関与したり(5月5日参照>>)、その管領に味方して出陣したり(8月23日参照>>)と、何かと、中央政権から頼りにされる存在=それだけ力がある武将だったわけです。
さらに、定頼の息子=六角承禎(じょうてい=義賢)は、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立する(6月24日参照>>)第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)を援助する(2月26日参照>>)事もしばしば・・・
そんな、三好と将軍の抗争も、永禄元年(1558年)6月の白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)を最後に和睦となって後、義輝が京都に戻った(11月27日参照>>)事で、一応の落ち着きを見せますが、一方で、この三好の京都完全掌握状態に不満をつのらせる者もおりました。
大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)や竜安寺(りょうあんじ=京都市右京区)といった宗教勢力に公卿や町人・・・勝者であるが故に、時に横暴な態度に出る三好勢に眉をひそめる彼らは、もはや京都の治安維持さえままならない幕府に代わって、六角氏の力に都の平穏を望んだのです。
永禄五年(1562年)3月、承禎は、自らの息子=義治(よしはる)&義定(よしさだ)とともに、近江武士や伊賀武士の軍勢を率いて入洛して清水坂に布陣・・・三好や、その配下の松永久秀(まつながひさひで)の軍勢を蹴散らして、彼らを山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)へと追いやりました。
・・・と言っても、これは、あくまで京都市内の治安維持を要求するのための出陣・・・3か月後の6月に三好義興(みよしよしおき=長慶の嫡男で嗣子)との和睦が成立した事で、承禎父子はアッサリと近江に戻りました。
この後、すでに出家していた承禎は、箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)に入って隠居し、六角氏内の政権と、本城の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を嫡男の義治に譲りました。
しかし、これがケチのつき始め・・・そう、実は、この義治さんは、未だ18歳。
かの応仁の乱以来、同族で江北(こうほく=滋賀県北部・湖北、現在の彦根あたりより北)を統治する京極氏(きょうごくし)との抗争や、その京極氏に取って代わろうとする浅井氏(あざいし)との争い(4月6日参照>>)など、数あるゴタゴタを何とか治めて、江南(こうなん=滋賀県南部・現在の近江八幡とか安土とかのあたり)地方を制圧して、六角氏を絶頂期に導いたのは、ほぼほぼ、先の六角定頼&承禎の力によるもの・・・
それらを支えて来た重臣たちにとっては、若き義治は実績の無い青二才・・・もちろん、誰だって当主になりたての時は、実績も信用も無い若者なわけですが、そこを、古くからの重臣たちの意見を踏まえつつ、人心を掌握して、うまくまとめあげるのが信任当主の腕の見せ所。
しかし、義治の場合は、それがウマくいかなかった・・・。
義治のやる事なす事にことごとく批判し、何でもかんでも口出しする家臣の筆頭=執権である後藤賢豊(ごとうかたとよ)をうっとぉしく思い、「このままでは、京極氏に取って代わる浅井のようになってしまうのではないか?」との不安を抱いていったのです。
そんなこんなの永禄六年(1563年)10月1日、観音寺城へ賢豊&壱岐守(賢豊の長男・実名は不明)父子を呼び出した義治は、配下の者に命じて老蘇の森(おいそのもり=滋賀県近江八幡市安土町東老蘇)付近で殺害してしまったのです。
なんと、この時の配下の者は武装兵500を引き連れて完全包囲のうえでの殺害という事なので、いわゆる暗殺ではなく、完全に、その威勢を見せつけるための殺害・・・義治にとっては、「俺こそが当主」と、その上下関係を知らしめるための行為だったのかも知れません。
なんせ、この直後、他の重臣たち全員に、今すぐ観音寺城に集まるよう緊急命令を出しているのですから・・・
しかし、彼ら重臣が集まったのは呼び出された観音寺城ではなく、かの後藤とともに『六角氏の両藤』と称された、もう一人の大物家臣=進藤賢盛(しんどうかたもり)の屋敷だったのです。
未だ強固な信頼関係が構築されていない中での主君の暴挙に、彼らは次々と不満を噴出・・・進藤をはじめ、目賀田(めかた)・馬淵(まぶち)・伊庭(いば)・平井(ひらい)・三雲(みくも)などなどの主要家臣たちは、ここに反旗をひるがえす決意を固めたのです。
まずは、後藤と縁続きで最も親しかった永田景弘(ながたかげひろ)や三上恒安(みかみつねやす)らが、観音寺城本丸の周囲にあった自邸に火を放ち、一族を本領に戻させた後、進藤賢盛らととともに、六角氏と敵対する浅井の支援を求めるべく浅井長政(あざいながまさ)の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)へと使者を走らせます。
かくして永禄六年(1563年)10月7日、進藤をはじめとする永田・平井・三上などなど・・・もちろん後藤一族も、そして、支援を快諾した浅井もが一斉に反旗をひるがえし、観音寺城の建つ繖山(きぬがさやま)を、約1万の軍勢で包囲して、攻め上っていったのです。
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(背景は地理院地図>>)
迎え撃つ義治の手勢は、わずかに300・・・またたく間に観音寺城は炎に包まれ、さらに、愛知川(えちがわ=湖東(愛知郡周辺)を流れる)周辺に陣を張った浅井軍が、これを応援します。
さすがに、ここまでの多勢に無勢では何ともならず・・・やむなく義治は、搦手(からめて)から尾根伝いに安土へと脱出し、反旗に加わっていなかった重臣=蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)を頼って日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)へと落ちて行きました。
また、箕作城に隠居していた承禎も、息子の暴挙には怒りつつも身の安全のために甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)方面へと逃れて行ったのです。
知らせを聞いた賢秀は1000余騎で以って出陣して主君の義治を出迎えた後、城に籠城しますが、当然、これを追って来た反旗の六角家臣たちと浅井勢との攻防へと突入・・・と、これがなかなかの奮戦ぶりで、六角家臣&浅井勢は苦戦&苦戦、なかなか城を落とせずにいたところ、10月も下旬になって、この賢秀が間に入り、和睦を提案します。
その条件は・・・
- 浅井は愛知川を境とし、それより南には兵を出さない事
- 殺された後藤賢豊の次男=後藤高治(たかはる)に後藤の家督を相続させて、所領も安堵し、今後も六角氏の家臣として以前と変わらぬ待遇をする事
- 義治は隠居して政務から離れ、弟の義定が六角家督を相続する事
この3つの条件を提示したことで、六角家臣は納得し、10月21日に和睦が成立しました。
おかげで、何とか観音寺城に戻る事ができた義治ではありましたが、もはや覆水(ふくすい)盆に返らず・・・主君と家臣の間に入った亀裂が元通りに修復される事は無く、六角氏の勢いは、これを以って減速の一途をたどる事になります。
そして、この数年後に、やって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・
永禄十一年(1568年)、第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての信長の上洛に(9月7日参照>>)、道を譲った浅井は生き残り、「通さない!」と阻んだ
六角=【信長の上洛を阻む六角承禎】参照>>
&三好三人衆=【信長の登場で崩壊する三好三人衆】参照>>
は、畿内を追われる事に・・・
もちろん、その後も、信長最大のピンチである金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)の時には、野洲川の戦い(6月4日参照>>)で信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)を攻めもしましたが、もはや以前のような勢いが無くなっていた事は否めません。
まさに・・・
この観音寺騒動が、六角氏のその後の運命を変えた騒動だったのです。
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