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2017年10月29日 (日)

天正壬午の乱の徳川と北条の和睦で井伊の赤備え誕生

 

天正十年(1582年)10月29日、徳川家康と北条氏政の和睦が成立し、甲斐と南信濃は徳川領、上野は北条領と決まりました。

・・・・・・・・・

天正十年(1582年)2月9日、織田信長(おだのぶなが)によって開始された『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)・・・

約1ヶ月後の3月11日、天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより)が自刃(2008年3月11日参照>>)した事で、ここに甲斐(かい=山梨県)に君臨した武田氏が滅亡したのです。

その2週間後の3月29日に行われた論功行賞により、信長は11ヶ条に及ぶ訓令とともに、武田の旧領の配分を行い、それは、
甲斐国河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国徳川家康
上野国信濃国(小県・佐久2郡)滝川一益
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)森長可(もりながよし)
信濃木曽谷2郡木曽義昌に追加
信濃伊那1郡毛利長秀(もうりながひで・秀頼)
岩村((岐阜県恵那市)団忠直(だんただなお)
金山米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
、と決定したわけですが・・・

しかし・・・
皆様ご存じの通り、このわずか2ヶ月後の6月2日・・・本能寺の変が起こり(2015年6月2日参照>>) 、信長は炎の中で自害します。

たった2ヶ月ですから、当然、武田の旧領を与えられた上記の武将たちは、未だ新しい領国を治め切れてもいないわけで・・・

武田勢力の中心地であった甲斐を与えられた河尻秀隆は、武田遺臣が起こした一揆によって命を落とし(2013年6月18日参照>>)、知らせを聞いた森長可は取るものも取りあえず本国へと戻り(4月9日参照>>)北条氏直(ほうじょううじなお)に行く手を阻まれた滝川一益も戦いに敗れ(2007年6月18日参照>>)清洲会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)にも間に合わず・・・

と、思えば、この3人は信長の家臣・・・あと、森定長は本能寺で信長とともに亡くなり、団忠直も二条御所(にじょうごしょ=京都府京都市)信忠(のぶただ=信長の嫡男)(2008年6月2日参照>>)とともに逝き・・・毛利長秀は出自がよくわからない(斯波氏とも)ので何とも言えませんが、危険を避けるために所領を放棄して尾張(おわり=愛知県西部)に戻ったとされています。

とにもかくにも、ここで、織田の直臣は武田の旧領から姿を消したわけで・・・ほんで、残ったのは独立大名である徳川家康と木曽義昌。

つまり、武田の旧領のうち甲斐&上野&信濃の半分ほどから織田勢力が一掃された事で、ここが宙に浮いた=周辺の大名たちの切り取り次第って事になったわけですが、もちろん、そこには滝川一益を破った北条も参戦し、武田滅亡で織田についた真田昌幸(さなだまさゆき)、そして越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)もイッチョ噛んで来る事に・・・

これが、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる戦いです。

ただし・・・
木曽義昌は、信濃から逃げて来た森長可に乱入されて従わざるを得ず、真田も未だ単独で周囲を相手にするほどの力は維持しておらず、結局は、徳川VS北条VS上杉の三つ巴の様相となるのですが、

そんな中、本能寺の変の勃発当時は堺にいた家康は、決死の伊賀越え(2007年6月2日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)へと戻り、信長を葬り去った明智光秀(あけちみつで)への討伐軍と整えるとともに、甲斐や信濃に向けて出兵しますが、まもなく織田家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)から「光秀を討った」(6月13日参照>>)との知らせが舞い込んだ事で、光秀の討伐軍も反転させて甲斐&南信濃方面軍に進軍し、北条へと迫ります。

一方、先の御館(おたて)の乱(2007年3月13日参照>>)の混乱の後、織田家臣の柴田勝家(しばたかついえ)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落とされて(6月3日参照>>)、まもなく決戦!の様相を呈していた上杉も、信長の死によって勝家が撤退した事で、「今がチャンス!」とばかりに信濃方面に手を伸ばします。

北に上杉、西に徳川・・・となった北条は、ここで北信濃を諦めて上杉と和睦し、甲斐を巡って徳川と抗争して若神子(わかみこ=山梨県北杜市須玉町)などで対峙しますが、やがて両者ともに「ここで戦い合う事は得策にあらず」と判断し、和睦交渉に入ります。(「若神子の対陣」のくわしくは8月7日のページで>>)

かくして天正十年(1582年)10月29日、甲斐と南信濃は徳川の切り取り次第、上野(こうずけ=群馬県)は北条の切り取り次第としたうえ、北条氏直に家康の次女=督姫(とくひめ)が嫁ぐ(11月4日参照>>)という条件で和睦が成立したのです。

この後、上記の条件に不満を持った真田昌幸によって上田城の戦い(8月2日参照>>)に発展するものの、いわゆる天正壬午の乱と呼ばれる戦いは、この徳川&北条の和睦によって終結となります。

『寛政重修諸家譜』によれば、
「十月かつて甲斐国に御出馬ありて…直政御つかひをうけたまはりて、かの陣におもむき、そのこふところにまかせらるべきむね仰をつたへ、かつ氏直がもとへ姫君婚儀の事を契約す…」
とあり、この重要な交渉を敵陣に赴いて成功させたのが、後に徳川四天王と謳われるあの井伊直政(いいなおまさ)であった事が記されています。

さらに、直政は、家康の旧武田の家臣たちへの本領安堵を約束する取次役としても奔走します。

もちろん、この取次役は直政以外にもいますが、11月を過ぎてもなお、最後まで奔走したのは直政のようです。

未だ22歳の若き直政に、なぜに大役が任されたのかは定かではありませんが、この交渉劇と取次役を精一杯こなした結果なのか?今回の恩賞により、直政には、駿河に4万石を与えられたうえ、武田の旧臣:74名、関東の従士:43名の計:117名が直政の付属とされ、彼は一軍の指揮をする侍大将となったのです。

Iinaomasa700 しかも・・・
「その兵器みな赤色を用ふべきむね鈞命かうぶり…」
と・・・そう、井伊の赤備え(あかぞなえ)の誕生です。

軍勢が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えた、
あのカッコイイ赤備え(*゚▽゚)ノ

この赤備えは、もともと武田家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)の朱色の軍装を模した物で、特に武勇に秀でた武田軍の中心となる存在で、まさに武田の象徴・・・

この時、本領を安堵されて家康の傘下となった旧武田の者は、全体で800名ほどいたとされますが、そのうちの74名を引き継いだ直政にこそ与えられた、名誉ある赤備えだったのです。

その後の井伊直政は、皆様ご存じの通りの大活躍をする事になり(2月1日参照>>)、幕末には、あの井伊直弼(いいなおすけ)(2009年3月3日参照>>)を生み、平成の世には、彦根(ひこね=滋賀県)ひこにゃんが、この赤備えを継承してますがww・・・

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赤備えの井伊隊「関ヶ原合戦図屏風」部分(関ヶ原民俗資料館蔵)

果たして、本年の大河ドラマ・・・主人公である井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)が、信長の死の、わずか3ヶ月後に亡くなってしまうので、この赤備えが出るのやら出ないのやら・・・楽しみデス
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2017年10月22日 (日)

三方ヶ原前哨戦~井伊・伊平城の仏坂の戦い

 

元亀三年(1572年)10月22日、武田信玄配下の山県昌景が井伊谷の伊平小屋山城を攻撃した仏坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で当主の今川義元(いまがわよしもと)が討死にして後、息子の今川氏真(うじざね)が領国経営に奔走するも、かつての勢いを失っていく今川家・・・

そんな中、天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)北条(ほうじょう)駿河(するが=静岡県東部)の今川との間に相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んでいた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)は、この今川の現状とともに桶狭間キッカケで独立を果たした徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)(2008年5月19日参照>>)の事や、川中島で何度も戦いながらも(8月3日参照>>)決着が付きそうにない越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)との事などを踏まえて、ここで大きく舵を切ります。

つまり、北=信濃(しなの=長野県)&越後方面へ注いでいた心血を、南=今川領方面へと・・・それは、その方針転換に反対する長男=武田義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)までの固い決意でした。

『浜松御在城記』よれば・・・
桶狭間の後に尾張(おわり=愛知県西部)を統一(11月1日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)が、ちょうどその頃、信玄に、
「大井川を境として、東の駿河は武田、西の遠江(とおとうみ=静岡県西部)は徳川クンが切り取ったらえぇんちゃうん?」と、家康への協力を呼びかけて来たのだとか・・・

間も無くの永禄十一年(1568年)9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて信長が上洛をする(9月7日参照>>)事を知っている私たちから見れば、おそらく、怖いオッチャン=信玄の目を京都に向けさせないための信長の策とも取れますが、信玄とて、このチャンスに今川の領地を奪わない手は無いですし、出遅れているうちに、家康がどんどん駿河に侵攻しちゃうかも知れないわけですから、むしろ、積極的に、この案を受け入れた事でしょう。

こうして駿河に侵攻した信玄は、12月12日の薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)から、翌13日には、氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)したのです。

この攻撃に耐えきれず、掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと避難した氏真を、今度は、信玄とほぼ同日に軍事行動を起こしていた家康が攻撃しするわけですが・・・

この時、家康が今川領へと入る道案内をしたとされるのが井伊谷三人衆(いいのやさんいんしゅう)と称される菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人。

ただ、『武徳編年集成』によると・・・
家康派だった東三河の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が、強固な今川配下たちの壁を崩すべく、同族の菅沼忠久に声をかけ、その忠久が近藤らを引っ張り込んで家康の道案内をする事になり、約束通り海側に出向いて待っていたものの、家康勢が道を間違えて中宇利(なかうり=愛知県新城市中宇利)の方に行ってしまったため、実際に出向いたのは定盈だけで、その後、定盈が3人を家康に紹介したようですが・・・

ただ、行き違いがあったとは言え、この三人衆が道案内を買って出てくれた事は事実だし、その影響もあっての、今回の遠江への進撃だったわけで・・・家康は、この時、面会した3人に
「今度両三人以馳走、井伊谷筋を遠州口江可打出之旨、本望也」
(君らの働きで井伊谷筋を通って遠州に討ち入る事ができた事は本望や)
として起請文(きしょうもん=神仏に誓って約束を守る契約書)を出し、井伊谷における跡職(あとしき=跡目・家督や財産)を与える事を約束しています。

このあと、家康は引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・曳馬城)に入って(12月20日参照>>)、今川方の武将に調略(ちょうりゃく=政治的工作・はかりごと)をかけ、幾人かがなびいいて来たところで攻撃を開始しますが、敵もさるものでなかなか掛川を落とせないでいたところで、信玄の「早よっ!落とさんかい!」の催促もありつつ・・・で以って、催促で家康が本気出したのか否か?はともかく、翌・永禄十二年(1569年)5月に、ようやく開城となり、氏真は、奥さんの実家=北条氏政(ほうじょううじまさ)を頼って相模へと逃走したのです(12月27日参照>>)

ここに戦国大名としての今川家は滅亡となりました→その後も今川家の血脈は続きますが(3月16日参照>>)

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三方ヶ原前哨戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、駿河は信玄が、遠江は家康の支配下となった(1月18日参照>>)わけですが・・・しかし、このつかの間の落ち着きは、まもなく崩れます。

その要因の一つは、家康が信玄のライバルだった謙信と結んだ事・・・もちろん、それ以前に、上洛した信長の勢いがどんどん大きくなっていく事を警戒心した信玄が、信長と同盟関係にある家康をも警戒して、今川から奪った田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を大幅改修して、駿河西部の守りを強くしていたという事もあったわけですが、

そんな信玄の警戒心を感じた故か・・・家康は、元亀元年(1570年)10月8日に、
「自分が武田とは手切れする」事
「上杉と織田とがイイ関係になるよう自身が仲介役になる」事
「織田
(信忠)と武田(松姫)の縁談を破棄させる努力をする」事
などの盛り込んだ起請文を謙信に送ったうえに、かの引馬城を大幅改修&拡大して浜松城(はままつじょう)と名を改め、これまでの岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)を息子の徳川信康(のぶやす=松平信康)に譲って、自身の居城を浜松城としたのです。

おそらく、この家康の上杉へのアプローチを聞きつけたであろう信玄が、翌・元亀二年(1571年)、奥三河(おくみかわ=設楽郡あたり)の地侍だった山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)の切り崩しに成功するのです。

この山家三方衆とは、作手(つくで=愛知県北東部の南設楽郡)奥平氏(おくだいらし)長篠(ながしの=愛知県新城市長篠)菅沼氏(すがぬまし)田峰(だみね=愛知県北設楽郡設楽町)菅沼氏の3家で、本来なら、信玄の三河侵攻を阻む最前線であったはずが、信玄の作戦がウマかったのか?今回は3家とも、見事なまでに家康から離反して信玄のもとに走ったのです。

ちなみに、同じ菅沼氏でも離反しなかった菅沼定盈は、この時、本拠の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)に籠って抵抗したとされていましたが、最近では、このお話は別の年の話とされているようです。

とにもかくにも、山家三方衆を懐柔した信玄は、年が明けた元亀三年(1572年)10月3日、2万5千の大軍を率いて、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・「上洛するつもりだった?」とも言われる有名な西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのです。

この時、信玄本隊が飯田からほぼ天竜川に沿って南下し、青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて侵攻するのと同時に、別働隊を任された重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)が東三河から遠江に入って来たわけですが、上記の通り、山家三方衆が味方になっているので菅沼正貞(すがぬままささだ)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)あたりまで、ごくごくすんなり入って来たかと思うと、ほどなく、その長篠城の南東に位置する柿本城(かきもとじょう=愛知県新城市下吉田)に攻め寄せたのです。

柿本城は、先の井伊三人衆の一人=鈴木重時の城・・・この時、城を守っていたのは重時の息子=鈴木重好(すずきしげよし)でしたが、彼は未だ14~5歳の少年・・・しかも、その柿本城自体も未だ改修中で、塀があるのは本丸のみで、二の丸は小さな柵があるだけの粗末な物・・・

「このままでは、まともに戦えない!」
と判断した重好らは、一旦、柿本城を捨て、仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)まで撤退・・・その時、伊平城(いだいらじょう=静岡県浜松市北区・小屋山城とも井伊小屋とも)に近藤康用らが籠っている事を知り、重好らも合流して籠城しました。

かくして元亀三年(1572年)10月22日山県隊が伊平城に押し寄せて来たのです。

大手を山県隊、裏は山家三方衆が率いる多勢で迫る武田勢に対し、近藤、鈴木重俊(すずきしげとし=重時の弟・重好の叔父)井伊飛騨守(いいひだのかみ=井伊氏の一族=伊平井伊氏?と思われるが史料は皆無)の3名が大手の小屋口で防戦するも、敵から放たれた鉄砲が飛騨守に命中・・・重俊も頬当ての下に弾丸を受けて、両者ともに討死してしまいました。

さらに、戦場は仏坂へも広がり、この周辺で多くの兵士が戦死したと見られ、現在も戦国期の物とおぼしき五輪塔などが建ち、地元では「ふろんぼ様」と呼ばれているのだとか・・・

こうして仏坂の戦いとも伊平小屋城の戦いとも呼ばれる井伊谷(いいのや=同浜松市北区)周辺での戦いに勝利した山県昌景は、一言坂(ひとことざか)の戦い(10月13日参照>>)を終え、二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)を攻略中(10月14日参照>>)信玄本隊と合流します。

ちなみに、この時に、山県同様に、美濃(みの=岐阜県)方面から侵攻する別働隊を任されていた秋山信友(あきやまのぶとも=晴近・虎繁)が展開していたのが、未亡人LOVE岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)攻防戦(3月2日参照>>)です。

この後、有名な三方ヶ原(みかたがはら)の戦い(12月22日参照>>)から、翌日の犀ヶ崖(さいががけ)の戦い(12月23日参照>>)・・・そして、年が明けた天正元年(1573年)1月には野田城の攻防戦(1月11日参照>>)へと向かう事になるのですが、ご存じのように、この野田城を最後に信玄の西上はストップし、武田軍は甲斐へと戻る事になります。

そう、信玄の死です(4月12日参照>>)

信玄の遺言(4月16日参照>>)に従って、その死が隠されていたため、この時に奪われた井伊谷一帯は、しばらくの間は武田の手に落ちていましたが、それが、家康によって奪回されるのは3年後の天正三年(1575年)頃の事だという事です。

残念ながら、本年の大河ドラマの主役=井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)は、このあたりの史料には出て来ませんが・・・

にしても、「伊」と「井」の文字の出現頻度が高い記事でしたなww(*^-^)
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2017年10月14日 (土)

前田利家VS佐々成政~鳥越城の攻防

 

天正十二年(1584年)10月14日、前田利家が鳥越城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後の天正十一年(1583年)に、織田家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月23日参照>>)に破った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)を自害(5月2日参照>>)に追い込んだ信長の次男=織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)・・・・

上記の通り、初めは協力体制にあった両者でしたが、徐々に秀吉に不信感を抱いた信雄が、もう一人の大物=徳川家康(とくがわいえやす)に支援を求めて対抗したのが、天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて)の戦いです。
(戦いについてはページの末尾参照)

戦況は、おおむね信雄&家康勢有利に進んだものの、この年の秋になって、なぜか信雄が単独で秀吉と講和してしまった事で、あくまで「信雄から頼まれて」参戦していた家康は、大義名分を失って兵を退く事になって、戦いは幕引き(11月16日参照>>)となるのですが・・・

この一連の合戦の際、開始当初は秀吉寄りを表明していたはずの越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)が、戦況が家康優位だった事や、隣国=加賀(かが=石川県南部)前田利家(まえだとしいえ)が、かの賤ヶ岳で戦線離脱(4月23日参照>>)してから秀吉側についている事などから、途中から家康派に転じたのです。

つまり、この小牧長久手のドサクサに乗じて前田を倒し、北陸の覇者になってやろう!と・・・

天正十二年(1584年)8月28日、突如、反秀吉の旗を挙げた成政は、加賀の最前線である朝日山砦(あさひやまとりで=石川県金沢市加賀朝日町)を攻撃しますが、この時は、前田家臣の村井長頼(むらいながより)何とか砦を守り切りました。

もちろん、まだまだ諦めない成政は、翌・9月9日に能登(のと=石川県北部)末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)を攻撃します。

しかし、ここも・・・なかなか落ちない末森城に手こずっている間に、利家自らが率いる援軍が到着して、やむなく撤退するハメに・・・(8月28日参照>>)

とは言え、さすがは戦上手の成政・・・この撤退劇はなかなかの物で、敗軍とは思えない見事な撤退ぶりだったそうで、前田軍に追撃の余地を与えないばかりか、行き掛けの駄賃(この場合は帰り掛けか?)とばかりに途中にあった津幡城(つばたじょう=石川県河北郡津幡町)をも攻略しようとしていたのだとか・・・

ただ、この時は、津幡城近くにやって来た佐々勢に対して、利家の命を受けた近隣の百姓たちが、前田軍に似せた紙製の幟旗(のぼりばた)をいくつも掲げていたのを、数千の兵が守っている物と勘違いして、結局、佐々勢は城を攻撃しないまま撤退してしまったのでした。

2度の失敗に苛立つ成政・・・自らも戦上手との自信があったからこそ、その歯がゆい思いもひとしおだったと想像しますが、そんな成政が、再びの帰り掛けの駄賃として津藩から吉倉(よしくら=同津幡町吉倉)に布陣したのは、末森城攻防から3日後の9月12日の事でした。

今度は越中との境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻略しようと、城を包囲したのです。

一方、城を守るは利家配下の丹羽源十郎(にわげんじゅうろう)目賀田又右衛門(めがたまたえもん)・・・といきたいところですが、残念ながら、すでに鳥越城はカラッポ・・・

実は、これ以前に、丹羽と目賀田のもとに「末森城が落ちた」との情報が入っていたのです。

これは、佐々方が意図的に流した嘘情報なのか?
あるいは、合戦のドサクサで流れた単純な誤報だったのか?

とにもかくにも、その情報を信じた丹羽と目賀田は、「末森城の戦いで前田軍が敗北した以上、鳥越城を守る意味は無い」と考え、すでに城を空にして立ち去ってしまっていたのです。

当然、包囲すれど、何の変化も無い城内を不審に思った佐々方は、寄せ手の幾人かを物見に出し、やがて、すでに城内が空っぽである事を知るに至り
「天は我らに味方した!」
とばかりに、難なく鳥越城を占拠したのです。

そうとは知らない利家は、津藩に着陣してすぐ、自軍の守りを固めようと、配下の各城に更なる兵を動員して防備の増強をするよう命じますが、鳥越城に向かった者からの報告で、城が、すでに佐々勢に占拠されている事を知ります。

当然の事ながら利家は怒り心頭・・・
「すぐに取り返したんねん!」
と息巻きますが、
「ここは、ひとつ、一旦金沢の戻られてから、再びの方が…」
と家臣に説得され、とりあえず利家は金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)に戻る事にします。

一方の成政も、奪った鳥越城は、配下の久世但馬(くぜたじま)に任せて、自らは富山城に戻りました。

そんな中の9月16日付けの秀吉の書状では、今回の末森城を死守した事を喜ぶ一方で、
「もうすぐ、越前守(丹羽長秀の事)が帰陣するので、僕の気持ち察して待っててね」
と・・・つまり、秀吉は、自身が東海で展開した小牧長久手に決着がつかないうちに、北陸がややこしい事になって欲しく無いと考えていたようで・・・

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鳥越城攻防戦・位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

しかし、この後も、加賀・能登・越中の国境線では、しばしば、佐々と前田の小競り合いが繰り広げられている中で、どうしても鳥越城を奪回したくてたまらない利家は、天正十二年(1584年)10月14日、佐々方の守る鳥越城に攻撃を仕掛けたのです。

「なんの!こんな小城…落とすに難しい事もない!」
と、檄を飛ばす利家に応えるように、前田勢は一斉に攻めかかりますが、この日は、攻めるに難しいアラレ混じりの悪天候・・・そのうえ、守る久世勢も、一斉に矢を放ち、大石を投げ落として抵抗したため、前田方には多くの死傷者が出てしまいます。

やむなく、利家はこの日の奪還をあきらめ、城付近の民家に火を放って兵を退きました。

この後、翌年の2月には、鳥越城の代わり!とばかりに、利家は成政の蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を焼き討ちにしますが、対する成政も、翌・3月に鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃して報復・・・さらに4月には、再び鳥越城を囲む利家でしたが、またまた奪い切れずに撤退する・・・

こうして、互いの国境線にて一進一退を繰り返していたさ中、成政は、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を味方に引き入れようと画策します。

しかし、その返事は・・・
「君の領地のうちの新川郡あたりは、もともと、僕のジッチャンやお父ちゃん(上杉謙信)らが必死で奪い取ってた場所(3月17日参照>>)やんか。
せやから、その土地を返還してくれるのと同時に人質も差し出してくれたら、僕も出陣しますわ」

と・・・到底承諾できない条件に、成政は怒りのあまり、使者を投獄してしまいます。

これに不満を持った景勝は、配下の者に命じて、越中の宮崎城(みやざきじょう=富山県下新川郡朝日町)を攻めさせ、付近に火を放って脅しをかけます。

一方、この時、上杉家に身を寄せていた土肥政繁(どいまさしげ=元越中弓庄城主)らが、利家の兄=前田安勝(やすかつ)を通じて
「上杉と前田で連携しませんか」
との書状を送り、仲介役をかって出た事から、上杉は前田と結ぶ事に・・・もちろん、そこには、すでに終了した小牧長久手の戦いの結果、その合戦を終えても揺るぎない秀吉の勢力を垣間見て、「朋友である利家を通じて秀吉に近づきたい」という景勝の思惑も見え隠れするわけですが・・・

ご存じのように、かの小牧長久手の戦いの終了直後には、命がけの北アルプスさらさら越え(11月23日参照>>)で家康に会いに行き、
「まだまだ戦いを続けて下さい」
と懇願した成政にとっては、まさに、家康&信雄が秀吉に対抗し続ける事が頼みの綱だったわけですが、残念ながら、合戦は終わるし、それとともに上杉まで秀吉に近づいて行くしで、成政は、北陸において孤立無援となってしまうのです。

そして翌天正十三年(1585年)6月の前田利家と佐々成政の最終決戦となる阿尾城の戦い>>を経た8月・・・かの秀吉は大軍を率いて、成政を屈服させるため、越中へやって来る事になるわけですが、そのお話は2017年8月29日にupした【富山城の戦いin越中征伐】のページ>>でどうぞm(_ _)m

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
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2017年10月 7日 (土)

名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動

 

永禄六年(1563年)10月7日、重臣殺害の一件で近江の国人衆と対立した六角義治が観音寺城から逃走しました。

・・・・・・・・・

六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、鎌倉時代に近江(おうみ=滋賀県)六郡(犬山・愛智・神崎・蒲生・栗太・志賀)を与えられた佐々木氏(ささきし)の嫡流が、六角東洞院(京都市中京区)に館を構えた事から、六角氏と名乗るようになったと言います。

室町時代には同族の佐々木道誉(ささきどうよ=京極高氏)に代わって近江守護となり、大名として実力を存分に発揮し、応仁の乱後のいち時には、幕府との対立があったものの、戦国に入った六角定頼(ろっかくさだより)の時代には、細川家の管領職争奪戦に関与したり(5月5日参照>>)、その管領に味方して出陣したり(8月23日参照>>)と、何かと、中央政権から頼りにされる存在=それだけ力がある武将だったわけです。

さらに、定頼の息子=六角承禎(じょうてい=義賢)は、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立する(6月24日参照>>)第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)を援助する(2月26日参照>>)事もしばしば・・・

そんな、三好と将軍の抗争も、永禄元年(1558年)6月の白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)を最後に和睦となって後、義輝が京都に戻った(11月27日参照>>)事で、一応の落ち着きを見せますが、一方で、この三好の京都完全掌握状態に不満をつのらせる者もおりました。

大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)竜安寺(りょうあんじ=京都市右京区)といった宗教勢力に公卿や町人・・・勝者であるが故に、時に横暴な態度に出る三好勢に眉をひそめる彼らは、もはや京都の治安維持さえままならない幕府に代わって、六角氏の力に都の平穏を望んだのです。

永禄五年(1562年)3月、承禎は、自らの息子=義治(よしはる)義定(よしさだ)とともに、近江武士や伊賀武士の軍勢を率いて入洛して清水坂に布陣・・・三好や、その配下の松永久秀(まつながひさひで)軍勢を蹴散らして、彼らを山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)へと追いやりました。

・・・と言っても、これは、あくまで京都市内の治安維持を要求するのための出陣・・・3か月後の6月に三好義興(みよしよしおき=長慶の嫡男で嗣子)との和睦が成立した事で、承禎父子はアッサリと近江に戻りました。

この後、すでに出家していた承禎は、箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)に入って隠居し、六角氏内の政権と、本城の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)嫡男の義治に譲りました。

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観音寺城・本丸への石垣

しかし、これがケチのつき始め・・・そう、実は、この義治さんは、未だ18歳。

かの応仁の乱以来、同族で江北(こうほく=滋賀県北部・湖北、現在の彦根あたりより北)を統治する京極氏(きょうごくし)との抗争や、その京極氏に取って代わろうとする浅井氏(あざいし)との争い(4月6日参照>>)など、数あるゴタゴタを何とか治めて、江南(こうなん=滋賀県南部・現在の近江八幡とか安土とかのあたり)地方を制圧して、六角氏を絶頂期に導いたのは、ほぼほぼ、先の六角定頼&承禎の力によるもの・・・

それらを支えて来た重臣たちにとっては、若き義治は実績の無い青二才・・・もちろん、誰だって当主になりたての時は、実績も信用も無い若者なわけですが、そこを、古くからの重臣たちの意見を踏まえつつ、人心を掌握して、うまくまとめあげるのが信任当主の腕の見せ所。

しかし、義治の場合は、それがウマくいかなかった・・・。

義治のやる事なす事にことごとく批判し、何でもかんでも口出しする家臣の筆頭=執権である後藤賢豊(ごとうかたとよ)をうっとぉしく思い、「このままでは、京極氏に取って代わる浅井のようになってしまうのではないか?」との不安を抱いていったのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)10月1日、観音寺城へ賢豊&壱岐守(賢豊の長男・実名は不明)父子を呼び出した義治は、配下の者に命じて老蘇の森(おいそのもり=滋賀県近江八幡市安土町東老蘇)付近で殺害してしまったのです。

なんと、この時の配下の者は武装兵500を引き連れて完全包囲のうえでの殺害という事なので、いわゆる暗殺ではなく、完全に、その威勢を見せつけるための殺害・・・義治にとっては、「俺こそが当主」と、その上下関係を知らしめるための行為だったのかも知れません。

なんせ、この直後、他の重臣たち全員に、今すぐ観音寺城に集まるよう緊急命令を出しているのですから・・・

しかし、彼ら重臣が集まったのは呼び出された観音寺城ではなく、かの後藤とともに『六角氏の両藤』と称された、もう一人の大物家臣=進藤賢盛(しんどうかたもり)の屋敷だったのです。

未だ強固な信頼関係が構築されていない中での主君の暴挙に、彼らは次々と不満を噴出・・・進藤をはじめ、目賀田(めかた)馬淵(まぶち)伊庭(いば)平井(ひらい)三雲(みくも)などなどの主要家臣たちは、ここに反旗をひるがえす決意を固めたのです。

まずは、後藤と縁続きで最も親しかった永田景弘(ながたかげひろ)三上恒安(みかみつねやす)らが、観音寺城本丸の周囲にあった自邸に火を放ち、一族を本領に戻させた後、進藤賢盛らととともに、六角氏と敵対する浅井の支援を求めるべく浅井長政(あざいながまさ)小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)へと使者を走らせます。

かくして永禄六年(1563年)10月7日、進藤をはじめとする永田・平井・三上などなど・・・もちろん後藤一族も、そして、支援を快諾した浅井もが一斉に反旗をひるがえし、観音寺城の建つ繖山(きぬがさやま)を、約1万の軍勢で包囲して、攻め上っていったのです。

Kannonzisoudou 位置関係図→
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

迎え撃つ義治の手勢は、わずかに300・・・またたく間に観音寺城は炎に包まれ、さらに、愛知川(えちがわ=湖東(愛知郡周辺)を流れる)周辺に陣を張った浅井軍が、これを応援します。

さすがに、ここまでの多勢に無勢では何ともならず・・・やむなく義治は、搦手(からめて)から尾根伝いに安土へと脱出し、反旗に加わっていなかった重臣=蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)を頼って日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)へと落ちて行きました。

また、箕作城に隠居していた承禎も、息子の暴挙には怒りつつも身の安全のために甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)方面へと逃れて行ったのです。

知らせを聞いた賢秀は1000余騎で以って出陣して主君の義治を出迎えた後、城に籠城しますが、当然、これを追って来た反旗の六角家臣たちと浅井勢との攻防へと突入・・・と、これがなかなかの奮戦ぶりで、六角家臣&浅井勢は苦戦&苦戦、なかなか城を落とせずにいたところ、10月も下旬になって、この賢秀が間に入り、和睦を提案します。

その条件は・・・

  • 浅井は愛知川を境とし、それより南には兵を出さない事 
  • 殺された後藤賢豊の次男=後藤高治(たかはる)に後藤の家督を相続させて、所領も安堵し、今後も六角氏の家臣として以前と変わらぬ待遇をする事 
  • 義治は隠居して政務から離れ、弟の義定が六角家督を相続する事

この3つの条件を提示したことで、六角家臣は納得し、10月21日に和睦が成立しました。

おかげで、何とか観音寺城に戻る事ができた義治ではありましたが、もはや覆水(ふくすい)盆に返らず・・・主君と家臣の間に入った亀裂が元通りに修復される事は無く、六角氏の勢いは、これを以って減速の一途をたどる事になります。

そして、この数年後に、やって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・

永禄十一年(1568年)、第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての信長の上洛に(9月7日参照>>)、道を譲った浅井は生き残り、「通さない!」と阻んだ
六角=【信長の上洛を阻む六角承禎】参照>>
&三好三人衆=【信長の登場で崩壊する三好三人衆】参照>>
は、畿内を追われる事に・・・

もちろん、その後も、信長最大のピンチである金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)の時には、野洲川の戦い(6月4日参照>>)で信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)を攻めもしましたが、もはや以前のような勢いが無くなっていた事は否めません。

まさに・・・
この観音寺騒動が、六角氏のその後の運命を変えた騒動だったのです。
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2017年10月 2日 (月)

織田信長の高野山攻め

 

天正九年(1581年)10月2日、高野山攻めを決意した織田信長の先陣が紀伊根来に到着しました。

・・・・・・・・

ご存じ・・・高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)は、平安時代初期の僧=空海(くうかい=弘法大師)が開いた高野山真言宗総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)を中心に100か所以上の寺院や宿坊などが集まる宗教都市です。

創建以来、その重要さ故、内外の紛争に巻き込まれる事も多かった高野山ですが、やはり戦国期になってからは、その規模も大きくなったと言います。

そんな中での天正九年(1581年)からの、織田信長(おだのぶなが)による高野攻め・・・

その高野攻めの発端となったのは、信長の傘下となって以来、なかなかのお気に入りで出世コースを歩んでいたはずの荒木村重(あらきむらしげ)の謀反でした。

謀反の要因は様々に語られ、未だ村重自身の心の奥底は読めないのですが、とにかく、村重は、信長とただ今交戦中の石山本願寺に内通し、天正六年(1578年)10月21日、突如として居城の有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城とも)に籠ってしまうのです。

これを受けた信長は何度も使者を出して説得しますが、村重は断固拒否・・・有岡城が危うくなると、妻子を残してわずかな側近だけを連れて尼崎城(兵庫県尼崎市)へと逃走し(12月16日参照>>)、さらに移った花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市)でも、またもや落城寸前に逃走し(3月2日参照>>)・・・

そんなこんなの天正八年(1580年)閏3月5日、有岡城攻防戦のさ中に城を脱出した荒木方の落武者5名を、高野山内にある寺が匿っている事が発覚したのです。

例の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)でもそうであったように、発覚した以上、信長としては捨て置くわけにはいきません。

その年の7月、信長は前田利家(まえだとしいえ)不破光治(ふわみつはる)の両名を使者として送り、彼らを引き渡すよう交渉しますが、窮鳥入懐(きゅうちょうにゅうかい)すれば猟師も殺さず=懐に逃げ込んできた鳥は猟師でも助けるとばかりに完全拒否・・・ただし、この段階では、あくまで冷静な話し合いであって、未だ高圧的かつ暴力的な事はまったく無かったようです。

翌・8月には、信長と石山本願寺の間で約10年に渡って繰り広げられた石山合戦が終結(8月2日参照>>)し、その合戦絡みで信長からの叱責を受けて追放された佐久間信盛(さくまのぶもり)父子が高野山へと落ちて来ましたが、コチラは長居する事無く、さらに熊野方面へと落ちて行きました(7月24日参照>>)

しかし、それと前後して事件が起こります

当時、信長から(さかい=大阪府堺市)代官を任されていた松井友閑(まついゆうかん)配下(一説には秀吉の配下?)の足軽32名が「荒木浪人の探索」と称して高野山に乱入し、土足で堂塔に上がり込んで内外を捜索しまくったのです。

これに怒った高野山側は、その怒りを隠しつつ、彼らを3か所の坊に分散して、お酒など振舞ってもてなし、その最中に一斉に合図の鐘をを鳴らして、32名全員を殺害したのです。

確かに配下の先走り&無礼はあったものの、これにブチ切れた信長は御室御所(おむろごしょ=仁和寺の事)におわす任助法親王(にんじょほうしんのう=伏見宮貞敦親王の第4子で後奈良院の猶子)令旨(りょうじ=皇太子などの命令を伝えるために出した文書)を得て、諸国を巡っている高野聖(こうやひじり=全国で布教活動している僧)片っ端から捕えたのです。

驚いたのは高野山・・・どうやら、高野山側には、未だ信長と武力による徹底抗戦するつもりは無かったようで、慌てて安土へと使者を派遣して謝罪したり、先の法親王を通じて和解を申し込んできたり・・・と、この8月は何度も使者が行き交ったようです。

一方の信長も・・・・
この時の9月21日の日付で高野山に対して「大和での領地を安堵する」内容の朱印状を発行していますので、武力で以って一気に焼き討ち~ではなく、まだまだ話し合いで解決しようと思っていたようです。

しかし、結局はいつまで経っても交渉は前に進まず、あげくに高野山側が「彼らは、もう逃走した」と言い始めたため、いよいよ信長は出兵を決意し、捕えていた高野聖や僧たちを処刑したのです。

かくして天正九年(1581年)10月2日、織田方の先陣として堀秀政(ほりひでまさ)紀伊(きい=和歌山県)侵出・・・早速、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の近くに陣を張りました。

実は、同じような武装集団を抱える紀伊の寺という事で、根来寺は高野山に味方するんじゃないか?と考え、まずは様子見ぃで、近くに布陣したわけですが、この頃の高野山と根来寺は仲が良いわけでもなかったようで、根来寺はアッサリと人質を差し出して無関係を表明し、傍観の構え・・・なので秀政は悠々と根来に布陣したと言います。

ただし・・・今回の信長による高野攻めのお話は『高野春秋(こうやしゅんじゅう)なる文献に書かれているお話・・・他の史料には、ほとんと登場しません。

たとえば、信長の史料として特に有名な『信長公記』では、「高野山が荒木の残党を匿って使者を殺害したので高野聖を成敗した」話は出て来ますが「その後に高野山を攻めた」という話は出て来ません。

実は、この『高野春秋』は、文字通り高野山の歴史をまとめた物で、史料的価値があり、高野山についてはかなりくわしく書かれている物なのですが、いかんせん書いたのが高野山の学僧なので、高野山を愛するあまりの偏見や、少々の間違い&感違いもあり・・・

なので、上記の堀秀政なんかは、『高野春秋』では1番に紀伊へ入り、この後も、高野攻め総大将の織田信孝(おだのぶたか=信長の三男・神戸信孝)に代わって大将代理を務めた重要人物のように書かれていますが、実際には、この時の秀政は、同時期に起こった伊賀攻め(9月3日参照>>)やら甲州征伐(VS武田)(2月9日参照>>)やらに派遣されており、この高野山攻めにはいなかった可能性が高いとされています。

てな事で、「鬼畜の信長軍が全力を挙げて攻め込んで来た」とするような『高野春秋』の内容をすべて鵜呑みにするわけにはいかないのですが、一方で、信長が現地の土豪(どごう=土地に根付いた地侍)「兵を派遣するのでヨロシク」と協力を打診する手紙も出したりしてますし、上記の甲州征伐の時に高野山を警戒している様子もうかがえます。

また、公家の日記にも「まもなく出兵されるらしい」と書かれていたり、この年の12月に入っても、まだ朝廷の勅使(ちょくし=天皇からの使者)や両者の使者が行き来していた様子も見て取れ、他にも複数の文献に「高野攻め」の話自体は断片的に出てきますので、おそらく何かしらの衝突があった事は確かかと思われます。

そうなると、やはりこの高野攻めについて1番くわしいのは『高野春秋』・・・という事で、上記のような事を踏まえつつ、今回は『高野春秋』に沿ってお話を進めて参ります。

Nobunagakouyasan
信長の高野攻めの位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

で、高野山には「高野七口(こううやななくち)と呼ばれる高野山へつながる7つの道があるのですが『高野春秋』では、その七口を、
西からの保田口(大門口)
同じく西の麻生津(おうず)
北からの学文路(かむろ)
北東の大和(やまと)
東からの大峯口
南からの熊野口
同じく南方の竜神口
の7つとしています(七口の呼び方には諸説アリ)が、上記の通り天正九年(1581年)10月2日に先陣が根来に入った織田勢は、そのうちの大手にあたる西方から北方にかけてを中心に、背山城(せやまじょう=和歌山県伊都郡かつらぎ町)に総大将の信孝、名古曾(なごそ=和歌山県橋本市高野口町)付近に松山庄五郎橋本岡田重孝(おかだしげたか)、それをサポートするが如く大和口に筒井順慶(つついじゅんけい)父子・・・そして、西方の粉河(こかわ=和歌山県紀の川市粉河)付城(つけじろ)に堀秀政などなど、総勢13万7千余りが紀ノ川の北岸に沿って布陣した・・・

って、さすがにこの数字は『高野春秋』の盛り過ぎかと・・・おそらくは「こんな大軍に立ち向かった高野山スゴイヽ(´▽`)/」というアピールなのでしょうが、この時の信長は、例の伊賀攻めに、西の毛利に、東の武田も健在な時期ですから、ここに、これだけの戦力を投入する事は、おそらくできなかったでしょうから、やはり、戦闘の規模としては『高野春秋』が言うほどの大きな物では無かったのでしょうね。

とは言え、高野山側の守りもなかなかのもの・・・同じく『高野春秋』によれば、
高野山内の衆徒に寺領の兵士、近隣の浪人などを集めて3万6千余りになった軍団の中から選りすぐりを七口の守備に当たらせ、重要な麻生津口には南蓮上院弁仙(なんれんじょういんべんせん)、学文路口には花王院快翁(けおういんかいおう=花王院快応)をそれぞれの大将として配置しています。

実はこの二人・・・
弁仙は、かつて河内(かわち=大阪府東部)守護代を務めた遊佐信教(ゆさのぶのり)の息子で、快翁は、その信教に謀反で殺された主君=守護畠山昭高(はたけやまあきたか)の息子という因縁の関係

しかし、両者ともに有能な武将の父を持ち、彼ら自身も僧になる前は、武士としての鍛錬を受けていた身・・・ここは互いにかつての恨みを捨て、その武将時代に身に付けたノウハウを遺憾なく発揮すべく戦いに挑んだ事でしょう。

さらに、高野山側は茶臼山城(ちゃうすやまじょう=和歌山県紀の川市)脇庵(わきあん)の砦をはじめとする高野七砦を構築しつつ、本職の怨敵退散の祈祷の護摩焚きも怠る事なく・・・こうして、紀ノ川挟んだ北に織田方、南に高野山衆徒が対峙する事となります。

そんな中、年内はなんだかんだで交渉が続けられていたものの、明けて天正十年(1582年)に入ってからは、両陣営のアチラコチラで頻繁に戦闘が勃発するようになります。

2月には織田方の武将=松山重治(まつやましげはる=新介)多和(たわ=橋本市菖蒲谷)に砦を構築し、ここを拠点に九度山(くどやま=和歌山県伊都郡九度山町)方面に連日ように仕掛ける一方で、負けてない高野山側も同じく2月に大和口の筒井順慶の担当場所を襲い、ここを乗っ取ったのだとか・・・

2月末日には、信長方の岡田重孝らが学文路口の砦を襲撃・・・快翁らが奮戦して何とか撃退し、3月3日には、今度は高野山側から多和に夜襲をかけて織田勢を蹴散らしました。

4月に入ると、織田方の総大将を務めていた織田信孝が来たる四国攻めの準備を命じられて戦線を離脱・・・代わって堀秀政が本陣に入りますが、「堀に負けてはならじ!」とばかりに、最初からこの周辺に陣を置いていた武将らが麻生津口を攻めます。

しかし、高野山側は弁仙を中心に城と砦を守りぬいて、逆に、織田方の兜首を131も挙げたため、織田勢は総崩れとなって慌てて退散したため紀ノ川にて溺れる者で、その流れが止まった・・・て、これもやっぱり『高野春秋』の盛り過ぎかな?(堀秀政もいないはずだしネ)

ただし、高野山LOVE感が強過ぎのオーバーな描写ではありますが、何らかの戦闘があった事は事実でしょうし、あの天下の織田勢相手に、高野山がよく防いだ事も確かでしょう。

なんせ、そんなこんなしているうちに、日付は、あの運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>) を迎えてしまうのですから・・・

それも『高野春秋』によれば、
その日、いつものように怨敵退散の祈祷を行っていると、「夜には風も無いのに灯明が消えたり、葛城山(かつらぎさん)から黒雲が立ち込めたかと思うと、天井から生首が二つ落ちて来て、その後3度舞い上がったり落ちたりした後にスッと消えた」という怪現象があって、皆が「何かあったな」と不思議に思っていると、その日の夕刻になって「信長死す」の知らせが届いたと・・・ま、高野山側から見れば、そういう事になるでしょうね~そのために連日、祈祷しているのですから・・・

そして、変からほどなく、高野山にも、そして対陣している織田方にも、異変の報告が届いたのでしょう。

まもなく、織田方が包囲を解き、慌てて退陣していった事で、高野山は危機を脱しました。

・‥…━━━☆

というわけで、本日はほぼほぼ『高野春秋』に沿ってお話をさせていただきましたが、上記の通り、この記録は完全に高野山側に立った人の書いた物・・・と言えど、すべてが嘘かというと、おそらくはそうでは無いわけで、

こうして、玉石混淆の物語を、自分なりにアレコレ推理していくのも、歴史の楽しみの一つですね。
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