天正壬午の乱の徳川と北条の和睦で井伊の赤備え誕生
天正十年(1582年)10月29日、徳川家康と北条氏政の和睦が成立し、甲斐と南信濃は徳川領、上野は北条領と決まりました。
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天正十年(1582年)2月9日、織田信長(おだのぶなが)によって開始された『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)』(2月9日参照>>)・・・
約1ヶ月後の3月11日、天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより)が自刃(2008年3月11日参照>>)した事で、ここに甲斐(かい=山梨県)に君臨した武田氏が滅亡したのです。
その2週間後の3月29日に行われた論功行賞により、信長は11ヶ条に及ぶ訓令とともに、武田の旧領の配分を行い、それは、
甲斐国=河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国=徳川家康、
上野国+信濃国(小県・佐久2郡)=滝川一益、
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)=森長可(もりながよし)、
信濃木曽谷2郡=木曽義昌に追加
信濃伊那1郡=毛利長秀(もうりながひで・秀頼)、
岩村((岐阜県恵那市)=団忠直(だんただなお)
金山・米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)=森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
、と決定したわけですが・・・
しかし・・・
皆様ご存じの通り、このわずか2ヶ月後の6月2日・・・本能寺の変が起こり(2015年6月2日参照>>) 、信長は炎の中で自害します。
たった2ヶ月ですから、当然、武田の旧領を与えられた上記の武将たちは、未だ新しい領国を治め切れてもいないわけで・・・
武田勢力の中心地であった甲斐を与えられた河尻秀隆は、武田遺臣が起こした一揆によって命を落とし(2013年6月18日参照>>)、知らせを聞いた森長可は取るものも取りあえず本国へと戻り(4月9日参照>>)、北条氏直(ほうじょううじなお)に行く手を阻まれた滝川一益も戦いに敗れ(2007年6月18日参照>>)て清洲会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)にも間に合わず・・・
と、思えば、この3人は信長の家臣・・・あと、森定長は本能寺で信長とともに亡くなり、団忠直も二条御所(にじょうごしょ=京都府京都市)で信忠(のぶただ=信長の嫡男)(2008年6月2日参照>>)とともに逝き・・・毛利長秀は出自がよくわからない(斯波氏とも)ので何とも言えませんが、危険を避けるために所領を放棄して尾張(おわり=愛知県西部)に戻ったとされています。
とにもかくにも、ここで、織田の直臣は武田の旧領から姿を消したわけで・・・ほんで、残ったのは独立大名である徳川家康と木曽義昌。
つまり、武田の旧領のうち甲斐&上野&信濃の半分ほどから織田勢力が一掃された事で、ここが宙に浮いた=周辺の大名たちの切り取り次第って事になったわけですが、もちろん、そこには滝川一益を破った北条も参戦し、武田滅亡で織田についた真田昌幸(さなだまさゆき)、そして越後(えちご=新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)もイッチョ噛んで来る事に・・・
これが、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる戦いです。
ただし・・・
木曽義昌は、信濃から逃げて来た森長可に乱入されて従わざるを得ず、真田も未だ単独で周囲を相手にするほどの力は維持しておらず、結局は、徳川VS北条VS上杉の三つ巴の様相となるのですが、
そんな中、本能寺の変の勃発当時は堺にいた家康は、決死の伊賀越え(2007年6月2日参照>>)で三河(みかわ=愛知県東部)へと戻り、信長を葬り去った明智光秀(あけちみつで)への討伐軍と整えるとともに、甲斐や信濃に向けて出兵しますが、まもなく織田家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)から「光秀を討った」(6月13日参照>>)との知らせが舞い込んだ事で、光秀の討伐軍も反転させて甲斐&南信濃方面軍に進軍し、北条へと迫ります。
一方、先の御館(おたて)の乱(2007年3月13日参照>>)の混乱の後、織田家臣の柴田勝家(しばたかついえ)に魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落とされて(6月3日参照>>)、まもなく決戦!の様相を呈していた上杉も、信長の死によって勝家が撤退した事で、「今がチャンス!」とばかりに信濃方面に手を伸ばします。
北に上杉、西に徳川・・・となった北条は、ここで北信濃を諦めて上杉と和睦し、甲斐を巡って徳川と抗争して若神子(わかみこ=山梨県北杜市須玉町)などで対峙しますが、やがて両者ともに「ここで戦い合う事は得策にあらず」と判断し、和睦交渉に入ります。(「若神子の対陣」のくわしくは8月7日のページで>>)
かくして天正十年(1582年)10月29日、甲斐と南信濃は徳川の切り取り次第、上野(こうずけ=群馬県)は北条の切り取り次第としたうえ、北条氏直に家康の次女=督姫(とくひめ)が嫁ぐ(11月4日参照>>)という条件で和睦が成立したのです。
この後、上記の条件に不満を持った真田昌幸によって上田城の戦い(8月2日参照>>)に発展するものの、いわゆる天正壬午の乱と呼ばれる戦いは、この徳川&北条の和睦によって終結となります。
『寛政重修諸家譜』によれば、
「十月かつて甲斐国に御出馬ありて…直政御つかひをうけたまはりて、かの陣におもむき、そのこふところにまかせらるべきむね仰をつたへ、かつ氏直がもとへ姫君婚儀の事を契約す…」
とあり、この重要な交渉を敵陣に赴いて成功させたのが、後に徳川四天王と謳われるあの井伊直政(いいなおまさ)であった事が記されています。
さらに、直政は、家康の旧武田の家臣たちへの本領安堵を約束する取次役としても奔走します。
もちろん、この取次役は直政以外にもいますが、11月を過ぎてもなお、最後まで奔走したのは直政のようです。
未だ22歳の若き直政に、なぜに大役が任されたのかは定かではありませんが、この交渉劇と取次役を精一杯こなした結果なのか?今回の恩賞により、直政には、駿河に4万石を与えられたうえ、武田の旧臣:74名、関東の従士:43名の計:117名が直政の付属とされ、彼は一軍の指揮をする侍大将となったのです。
しかも・・・
「その兵器みな赤色を用ふべきむね鈞命かうぶり…」
と・・・そう、井伊の赤備え(あかぞなえ)の誕生です。
軍勢が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えた、
あのカッコイイ赤備え(*゚▽゚)ノ
この赤備えは、もともと武田家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)の朱色の軍装を模した物で、特に武勇に秀でた武田軍の中心となる存在で、まさに武田の象徴・・・
この時、本領を安堵されて家康の傘下となった旧武田の者は、全体で800名ほどいたとされますが、そのうちの74名を引き継いだ直政にこそ与えられた、名誉ある赤備えだったのです。
その後の井伊直政は、皆様ご存じの通りの大活躍をする事になり(2月1日参照>>)、幕末には、あの井伊直弼(いいなおすけ)(2009年3月3日参照>>)を生み、平成の世には、彦根(ひこね=滋賀県)のひこにゃんが、この赤備えを継承してますがww・・・
赤備えの井伊隊「関ヶ原合戦図屏風」部分(関ヶ原民俗資料館蔵)
果たして、本年の大河ドラマ・・・主人公である井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)が、信長の死の、わずか3ヶ月後に亡くなってしまうので、この赤備えが出るのやら出ないのやら・・・楽しみデス
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