京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い
大永七年(1527年)11月19日、京都奪回を目指す足利義晴&細川高国勢が三好元長&柳本賢治らと激戦を繰り広げた東山・川勝寺口の戦いがありました。
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応仁の乱の混乱修復後、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として政権を掌握した細川政元(まさもと)・・・
その政元亡き後に勃発した、細川澄之(すみゆき)、細川澄元(すみもと)、細川高国(たかくに)の3人の養子たちによる後継者争いに打ち勝った高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立しました。
しかし、わずか5年後の大永六年(1526年)、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちした事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)の波多野元清(はたのもときよ=稙通)と神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)の柳本賢治(やなぎもとかたはる)が反発・・・籠城して抵抗する彼らに、高国は兵を派遣しますが、この時は手痛い敗北を喰らいます(10月23日参照>>)。
そこをチャンスと見たのが、今は亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)・・・
配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)+三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らとともに京へと攻め寄せたかと思うと波多野や柳本と連携して桂川(かつらがわ)の東岸にて激戦の末、大永七年(1527年)2月、高国らを近江(おうみ=滋賀県)へと追いやり、今度は、勝利した晴元らが、義晴の弟=足利義維(よしつな)を奉じて京都を掌握する事となったのです(2月13日参照>>)。
とは言え・・・もちろん、将軍=義晴&高国も、このまま黙ってはいられません。
近江守護の六角定頼(ろっかくさだより)を頼って長光寺(ちょうこうじ=滋賀県近江八幡市)に拠った義晴は、その将軍の威勢をフルに使って、諸国の武将に「出陣せよ!」の声をかけ、京都奪回を画策します。
桂川原から5ヶ月後の7月・・・越前(えちぜん=福井県)の朝倉(あさくら)、能登(のと=石川県北部)の畠山(はたけやま)、越中(えっちゅう=富山県)の椎名(しいな)、美濃(みの=岐阜県)の斎藤(さいとう)などの援軍を得た義晴は、27日に出陣。
これに同調する六角定頼も、1万5千余りの兵を自ら率いて琵琶湖を渡り、坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴を出迎えます。
ここに集結した軍勢は約3万騎・・・これらを率いた義晴と高国は、10月13日に坂本を出発し、一路、京都へと向かい、義晴が若王子(にゃくおうじ=京都市左京区)、高国が神護寺(じんごじ=京都市右京区高雄)、朝倉教景(あさくらのりかげ=宗滴)が建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に陣を置き、京都を抑える柳本&三好勢と対峙します。
東山・川勝寺口の戦い布陣図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして大永七年(1527年)11月19日、いよいよ戦いの幕があがります。
『続応仁後記』によれば・・・
この日、義晴は、その軍勢で、東寺(とうじ=京都市南区九条町)から西七条(にししちじょう=京都市下京区)、唐橋(からはし=京都市南区唐橋)、鳥羽(とば=伏見区)などに隙間なく兵を配置し、高国も、自ら兵を率いて南方に向けて布陣し、おそらくは南方面から向かって来るであろう敵を待ち構えていたと言います。
しかし、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)方面から京都に入った三好勢は、丹波(たんば=京都府北部・兵庫県北部・大阪府北部)方面からの柳本勢らと連携し合って、京都の北方に進出・・・三好は西院(さいいん=京都市右京区)、波多野&柳本勢が五条(ごじょう=京都市東山区)から七条(しちじょう=同東山区)にかけての法華系寺院に展開し、北からの攻撃を仕掛けたのです。
想定外の方向からの攻撃に戸惑う義晴勢・・・
一方、亡き澄元の娘婿という立場であった河内(かわち=大阪府東部)畠山氏の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)が三好勢に加担すべく参戦・・・500余りの軍勢を率いて川勝寺口(せんしょうじぐち=京都市下京区西京極・泉乗寺口とも)を抑えて、西院に展開する三好勢を合流しようとしますが、そこを朝倉の越前兵が迎え撃ち、こちらも激しい合戦となりました。
この日の戦いは敵味方に多くの死者を出し、それでも決着がつかず・・・疲弊した両者は、ひとまず兵をを退き、しばし対陣する事となりましたが、その後もこう着状態が続いたため、年が明けた1月頃からは一部で和睦交渉が行われるようになります。
やがて、その交渉の主導者であった六角定頼と朝倉教景が、三好元長と和睦した事で、まずは3月に入って朝倉勢が帰国・・・これを受けて諸将も兵を収めて、次々と帰国して行きますが、そもそものモメ事の発端だった柳本賢治は、この和睦劇に不満ムンムン・・・
一方の発端の人である将軍=義晴と細川高国も、和睦には不満だったようですが、どちらも、諸将の加勢が無ければ戦えないのが現状・・・やむなく、彼らも兵を退き、またまた近江へと逃れたのでした。
とは言え、この和睦は、あくまで、今回の東山・川勝寺口の戦いにおける和睦・・・義晴&高国VS義維&晴元の抗争が終わったわけではありませんので、この後も、享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原での合戦(4月6日参照>>)などの戦いが繰り広げられた後、いよいよ、高国最後の戦いとなる大物崩れ(だいもつくずれ)の戦いへと向かって行きますが、そのお話は6月8日の【細川高国が自刃…大物崩れ~中嶋・天王寺の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
・・・にしても、今回も京都市街真っただ中の市街戦、周辺の建物にも被害が多くあった事が想像できます。
世は戦国とは言え、多くの一般市民も巻き込まれたかと思うと胸が痛いですね。
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コメント
おはようございます(^O^)人口が現在の世の半分もいないこの時代に万の軍勢を動かすのは大変なことですよね
投稿: げん | 2017年11月21日 (火) 07時06分
げんさん、こんにちは~
おっしゃる通り、
戦国時代は動員人数が多い後半の織豊時代が注目されがちですが、その時代よりは少ないとは言え、万を越える軍勢が京都の市街地を闊歩する状況は、一般市民にも大きな影響があったように思います。
私も、未だ勉強中なので、このあたりの時代の事を、もっと知りたいと思っているところです。
投稿: 茶々 | 2017年11月21日 (火) 16時18分