三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い
永禄四年(1561年)11月24日、三好義興が松永久秀とともに山城勝軍地蔵山に布陣中の六角義賢を攻めた将軍地蔵山の戦いがありました。
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室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の混乱する主導権争いに打ち勝ち、畿内に政権を樹立した細川晴元(はるもと)・・・もちろん、政権樹立と言っても、時は室町時代なので、晴元は管領で時の将軍は第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)だったわけですが。。。
その晴元の天下取りに貢献した重臣が三好元長(みよしもとなが)でした。
しかし、もともとの晴元が義晴の弟=足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立していたにも関わらず、政権を握った途端にアッサリと捨てて、それまで敵対していた義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が晴元に反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)
父の死を受けて、わずか11歳で家督を継いだ三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、おそらくは「自分自身が未だ若過ぎる」と判断してか?しばらくは晴元の従順な家臣として仕えますが、やがて28歳となった天文十八年(1549年)6月、弟たちとの見事な連携プレーによる江口の戦いにて、晴元&彼に味方する三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握します(6月4日参照>>)。
これによって、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)に拠ったまま、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を京都所司代として都の治安維持に当たらせる長慶・・・
この頃には、すでに義晴と晴元は分裂状しつつありましたが、そんな中で坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴が病死すると、第12代=足利義輝(よしてる=義晴の息子)が将軍職を継ぎ、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)らと組んで、対三好の京都奪回作戦を展開していきます(2月26日参照>>)。
そんなこんなの永禄元年(1558年)6月の白川口の戦い(北白川の戦い)後の和睦交渉をキッカケに(6月9日参照>>)将軍=義輝は長慶と和解して5年ぶりに京都へと戻るものの(11月27日参照>>)、晴元は近江に留まり、しばらくの間は、反三好の姿勢を崩しませんでした。
もともとの出身地だった阿波(あわ=徳島県)や讃岐(さぬき=香川県)に加え、摂津(せっつ=大阪府北中部・兵庫県南東部)の国人たちをも傘下に入れ、都も掌握し、もはや関東の北条氏に勝るとも劣らない・・・いや、都も、そして畿内も抑えた分、事実上の天下人となった長慶・・・。
しかし、そんな三好家にも、間もなく陰りが見え始めます。
そのキッカケとも言うべき出来事が、「鬼十河(おにそごう)」なる異名で恐れられていた長慶の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入っていた)の死でした。
もちろん、この「恐れられていた」というのは「怖い」という意味では無く、「武将としてスルドイ」という意味ですが、それだけ長慶にとっては重要な右腕だった弟が、永禄四年(1561年)の3月、湯治先の有馬温泉で突然亡くなってしまったのです(5月1日参照>>)。
一般的には病没とされますが、あまりに突然だったため、落馬説や暗殺説もあり・・・しかも、この有馬行きに同行していたのが、かの松永久秀であった事、また、この後、三好家に立て続けに不幸が起って衰退の一途をたどる事から、軍記物などでは、久秀を「主人殺しの悪党」とする物もあるくらい・・・
かと言って証拠はどこにも無いので、あくまでその噂は、三好家が衰退した後に活躍する久秀の姿ありきの「推理小説の基本=1番得をした者が犯人」的な論理の域を超えない物なのでしょうが・・・(松永久秀については10月3日参照>>)
その犯人探しは別の機会にさせていただくこととし、
とにもかくにも、この優秀な弟の死で片翼をもがれた形になった長慶・・・これをチャンスと見た六角義賢は、すでに出奔して力を失くしていた晴元に代わって、その息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのです。
永禄四年(1561年)7月28日、同じくここをチャンスと見て亡き十河一存の城=岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)にチョッカイを出していた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長の曾孫)と連携(3月5日参照>>)した六角義賢は、将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って、長慶側の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)と対峙するのです。
●位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
義賢自身は、神楽岡(かぐらおか=京都府京都市左京区吉田)に陣取り、馬淵(まぶち)源左衛門、蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)、永原安芸守(ながはらあきのかみ)らを一軍の将として上洛をうかがいます。
これを受けた三好側では、松永久秀が兵を率いて出陣し、義興勢と連携して六角勢と対陣・・・7月から11月下旬までは、お互いに遠矢(とおや=弓矢による遠距離戦)での交戦程度でありましたが、永禄四年(1561年)11月24日、六角勢のスキを突いた三好勢が白川口(北白川付近)に来襲し、永原&細川の陣営に襲いかかったのです。
勢いに乗じて、ここを突破した三好勢は、馬淵の陣へと迫り、激戦・・・三好軍の将であった三郷修理亮(しゅりのすけ)が馬を刺されて、人馬もろとも転倒し、そこを堀伊豆守(ほりいずのかみ)なる武将が襲いかかって首を討ち取りますが、一方の細川勢にも多くの死者が発生して乱戦に次ぐ乱戦。
そんな中、永原安芸守を討ち取った松永勢は、そのまま将軍山城を突破し、六角義賢の本陣=神楽岡へ1万の軍勢で以って突入します。
そこで六角方では、家臣の三雲定持(みくもさだもち)に命じて、川守城(かわもりじょう=滋賀県竜王町川守・野寺城)の城主=吉田出雲守(よしたいずものかみ)の門下生で日置流弓術(へきりゅうきゅうじゅつ)の名手300余名を選出して高所に陣取らせ、タイミングを見計らって一斉に松永勢に向けて射撃させたのです。
思わぬ攻撃に多くの犠牲者を出してしまった松永軍・・・やむなく、ここで敗走に転じます。
これを見た義賢はすぐに、逃げる松永勢を追撃しようとしますが、蒲生賢秀が
「今のは、タイミングが良く、ゲリラ戦的な形でウマくいきましたけど、寡兵(かへい=少ない兵)で以って大軍を追撃したなら、いずれ、こっちがヤバなりまっせ」
と進言・・・これ以上の深追いは止め、この日の戦いは終わりました。
結局、この戦いは三好家にとっては負け戦となってしまいましたが、一方の六角方でも、義賢に担がれた細川晴之がこの戦いで戦死したとされ、まだまだ三好政権の大勢に影響を及ぼすほどでは無く・・・その後もガッツリと京都を掌握しつつ、義賢らとの攻防が続くのですが、前途したように、結果的には、このあたりから三好家の衰退が始まった事は否めません。
というのも、この戦いの翌年=永禄五年(1562年)の3月に起こった久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦い(3月5日参照>>)にて、すぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)が戦死・・・さらに翌年には息子の義興が、22歳の若さで病死・・・さらにさらにのその翌年の永禄七年(1564年)には謀反を疑い、2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)を長慶自身が謀殺してしまうのです。
この、長慶による冬康殺害の要因も様々に語られますが、実のところは、義賢の戦死の後くらいから、長慶はうつ病にかかっていて籠りがちになり、ちゃんとした判断ができていたのかが微妙だったようで、この頃から実際に合戦に出陣して三好家の力となっていたのは松永久秀だったと言われています。
結局、その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は亡くなり(5月9日参照>>)、十河一存の長男であった三好義継(よしつぐ)が、長慶の養子となって三好家を継ぎますが、未だ若い義継の権力地盤は弱く、彼を補佐する松永久秀と三好三人衆=三好長逸(みよしながやす)・三好政康(まさやす)・石成友通(いわなりともみち)らが、三好家の実権を握る事となったうえ、そんな彼らも一枚岩とは言い難く・・・(11月18日参照>>)
そんな時に京都へとやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・という事になります。
●【織田信長の上洛】参照>>
●【信長の前に散る三好三人衆】参照>>)
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