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2017年11月24日 (金)

三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い

 

永禄四年(1561年)11月24日、三好義興松永久秀とともに山城勝軍地蔵山に布陣中の六角義賢を攻めた将軍地蔵山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の混乱する主導権争いに打ち勝ち、畿内に政権を樹立した細川晴元(はるもと)・・・もちろん、政権樹立と言っても、時は室町時代なので、晴元は管領で時の将軍は第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)だったわけですが。。。

その晴元の天下取りに貢献した重臣が三好元長(みよしもとなが)でした。

しかし、もともとの晴元が義晴の弟=足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立していたにも関わらず、政権を握った途端にアッサリと捨てて、それまで敵対していた義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が晴元に反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)

Miyosinagayosi500a 父の死を受けて、わずか11歳で家督を継いだ三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、おそらくは「自分自身が未だ若過ぎる」と判断してか?しばらくは晴元の従順な家臣として仕えますが、やがて28歳となった天文十八年(1549年)6月、弟たちとの見事な連携プレーによる江口の戦いにて、晴元&彼に味方する三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握します(6月4日参照>>)

これによって、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)に拠ったまま、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を京都所司代として都の治安維持に当たらせる長慶・・・

この頃には、すでに義晴と晴元は分裂状しつつありましたが、そんな中で坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴が病死すると、第12代=足利義輝(よしてる=義晴の息子)が将軍職を継ぎ、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)らと組んで、対三好の京都奪回作戦を展開していきます(2月26日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)6月の白川口の戦い(北白川の戦い)後の和睦交渉をキッカケに(6月9日参照>>)将軍=義輝は長慶と和解して5年ぶりに京都へと戻るものの(11月27日参照>>)、晴元は近江に留まり、しばらくの間は、反三好の姿勢を崩しませんでした。

もともとの出身地だった阿波(あわ=徳島県)讃岐(さぬき=香川県)に加え、摂津(せっつ=大阪府北中部・兵庫県南東部)の国人たちをも傘下に入れ、都も掌握し、もはや関東の北条氏に勝るとも劣らない・・・いや、都も、そして畿内も抑えた分、事実上の天下人となった長慶・・・

しかし、そんな三好家にも、間もなく陰りが見え始めます。

そのキッカケとも言うべき出来事が、「鬼十河(おにそごう)なる異名で恐れられていた長慶の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入っていた)の死でした。

もちろん、この「恐れられていた」というのは「怖い」という意味では無く、「武将としてスルドイ」という意味ですが、それだけ長慶にとっては重要な右腕だった弟が、永禄四年(1561年)の3月、湯治先の有馬温泉で突然亡くなってしまったのです(5月1日参照>>)

一般的には病没とされますが、あまりに突然だったため、落馬説や暗殺説もあり・・・しかも、この有馬行きに同行していたのが、かの松永久秀であった事、また、この後、三好家に立て続けに不幸が起って衰退の一途をたどる事から、軍記物などでは、久秀を「主人殺しの悪党」とする物もあるくらい・・・

かと言って証拠はどこにも無いので、あくまでその噂は、三好家が衰退した後に活躍する久秀の姿ありきの「推理小説の基本=1番得をした者が犯人」的な論理の域を超えない物なのでしょうが・・・(松永久秀については10月3日参照>>)

その犯人探しは別の機会にさせていただくこととし、
とにもかくにも、この優秀な弟の死で片翼をもがれた形になった長慶・・・これをチャンスと見た六角義賢は、すでに出奔して力を失くしていた晴元に代わって、その息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのです。

永禄四年(1561年)7月28日、同じくここをチャンスと見て亡き十河一存の城=岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)にチョッカイを出していた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長の曾孫)と連携(3月5日参照>>)した六角義賢は、将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って、長慶側の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)と対峙するのです。

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●位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

義賢自身は、神楽岡(かぐらおか=京都府京都市左京区吉田)に陣取り、馬淵(まぶち)源左衛門蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)永原安芸守(ながはらあきのかみ)らを一軍の将として上洛をうかがいます。

これを受けた三好側では、松永久秀が兵を率いて出陣し、義興勢と連携して六角勢と対陣・・・7月から11月下旬までは、お互いに遠矢(とおや=弓矢による遠距離戦)での交戦程度でありましたが、永禄四年(1561年)11月24日、六角勢のスキを突いた三好勢が白川口(北白川付近)に来襲し、永原&細川の陣営に襲いかかったのです。

勢いに乗じて、ここを突破した三好勢は、馬淵の陣へと迫り、激戦・・・三好軍の将であった三郷修理亮(しゅりのすけ)が馬を刺されて、人馬もろとも転倒し、そこを堀伊豆守(ほりいずのかみ)なる武将が襲いかかって首を討ち取りますが、一方の細川勢にも多くの死者が発生して乱戦に次ぐ乱戦。

そんな中、永原安芸守を討ち取った松永勢は、そのまま将軍山城を突破し、六角義賢の本陣=神楽岡へ1万の軍勢で以って突入します。

そこで六角方では、家臣の三雲定持(みくもさだもち)に命じて、川守城(かわもりじょう=滋賀県竜王町川守・野寺城)の城主=吉田出雲守(よしたいずものかみ)の門下生で日置流弓術(へきりゅうきゅうじゅつ)の名手300余名を選出して高所に陣取らせ、タイミングを見計らって一斉に松永勢に向けて射撃させたのです。

思わぬ攻撃に多くの犠牲者を出してしまった松永軍・・・やむなく、ここで敗走に転じます。

これを見た義賢はすぐに、逃げる松永勢を追撃しようとしますが、蒲生賢秀が
「今のは、タイミングが良く、ゲリラ戦的な形でウマくいきましたけど、寡兵(かへい=少ない兵)で以って大軍を追撃したなら、いずれ、こっちがヤバなりまっせ」
と進言・・・これ以上の深追いは止め、この日の戦いは終わりました。

結局、この戦いは三好家にとっては負け戦となってしまいましたが、一方の六角方でも、義賢に担がれた細川晴之がこの戦いで戦死したとされ、まだまだ三好政権の大勢に影響を及ぼすほどでは無く・・・その後もガッツリと京都を掌握しつつ、義賢らとの攻防が続くのですが、前途したように、結果的には、このあたりから三好家の衰退が始まった事は否めません。

というのも、この戦いの翌年=永禄五年(1562年)の3月に起こった久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦い(3月5日参照>>)にて、すぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)が戦死・・・さらに翌年には息子の義興が、22歳の若さで病死・・・さらにさらにのその翌年の永禄七年(1564年)には謀反を疑い、2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)を長慶自身が謀殺してしまうのです。

この、長慶による冬康殺害の要因も様々に語られますが、実のところは、義賢の戦死の後くらいから、長慶はうつ病にかかっていて籠りがちになり、ちゃんとした判断ができていたのかが微妙だったようで、この頃から実際に合戦に出陣して三好家の力となっていたのは松永久秀だったと言われています。

結局、その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は亡くなり(5月9日参照>>)、十河一存の長男であった三好義継(よしつぐ)が、長慶の養子となって三好家を継ぎますが、未だ若い義継の権力地盤は弱く、彼を補佐する松永久秀と三好三人衆三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)らが、三好家の実権を握る事となったうえ、そんな彼らも一枚岩とは言い難く・・・(11月18日参照>>)

そんな時に京都へとやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・という事になります。
【織田信長の上洛】参照>>
【信長の前に散る三好三人衆】参照>>)
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2017年11月19日 (日)

京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い

 

大永七年(1527年)11月19日、京都奪回を目指す足利義晴細川高国勢が三好元長柳本賢治らと激戦を繰り広げた東山・川勝寺口の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

応仁の乱の混乱修復後、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として政権を掌握した細川政元(まさもと)・・・

Hosokawatakakuni600a その政元亡き後に勃発した、細川澄之(すみゆき)細川澄元(すみもと)細川高国(たかくに)の3人の養子たちによる後継者争いに打ち勝った高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立しました。

しかし、わずか5年後の大永六年(1526年)、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちした事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野元清(はたのもときよ=稙通)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が反発・・・籠城して抵抗する彼らに、高国は兵を派遣しますが、この時は手痛い敗北を喰らいます(10月23日参照>>)

Hosokawasumimoto400a そこをチャンスと見たのが、今は亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)・・・

配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らとともに京へと攻め寄せたかと思うと波多野や柳本と連携して桂川(かつらがわ)の東岸にて激戦の末、大永七年(1527年)2月、高国らを近江(おうみ=滋賀県)へと追いやり、今度は、勝利した晴元らが、義晴の弟=足利義維(よしつな)を奉じて京都を掌握する事となったのです(2月13日参照>>)

とは言え・・・もちろん、将軍=義晴&高国も、このまま黙ってはいられません。

近江守護の六角定頼(ろっかくさだより)を頼って長光寺(ちょうこうじ=滋賀県近江八幡市)に拠った義晴は、その将軍の威勢をフルに使って、諸国の武将に「出陣せよ!」の声をかけ、京都奪回を画策します。

桂川原から5ヶ月後の7月・・・越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)能登(のと=石川県北部)畠山(はたけやま)越中(えっちゅう=富山県)椎名(しいな)美濃(みの=岐阜県)斎藤(さいとう)などの援軍を得た義晴は、27日に出陣

これに同調する六角定頼も、1万5千余りの兵を自ら率いて琵琶湖を渡り、坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴を出迎えます。

ここに集結した軍勢は約3万騎・・・これらを率いた義晴と高国は、10月13日に坂本を出発し、一路、京都へと向かい、義晴が若王子(にゃくおうじ=京都市左京区)、高国が神護寺(じんごじ=京都市右京区高雄)朝倉教景(あさくらのりかげ=宗滴)建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に陣を置き、京都を抑える柳本&三好勢と対峙します。

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東山・川勝寺口の戦い布陣図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして大永七年(1527年)11月19日、いよいよ戦いの幕があがります。

『続応仁後記』によれば・・・
この日、義晴は、その軍勢で、東寺(とうじ=京都市南区九条町)から西七条(にししちじょう=京都市下京区)唐橋(からはし=京都市南区唐橋)鳥羽(とば=伏見区)などに隙間なく兵を配置し、高国も、自ら兵を率いて南方に向けて布陣し、おそらくは南方面から向かって来るであろう敵を待ち構えていたと言います。

しかし、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)方面から京都に入った三好勢は、丹波(たんば=京都府北部・兵庫県北部・大阪府北部)方面からの柳本勢らと連携し合って、京都の北方に進出・・・三好は西院(さいいん=京都市右京区)、波多野&柳本勢が五条(ごじょう=京都市東山区)から七条(しちじょう=同東山区)にかけての法華系寺院に展開し、北からの攻撃を仕掛けたのです。

想定外の方向からの攻撃に戸惑う義晴勢・・・

一方、亡き澄元の娘婿という立場であった河内(かわち=大阪府東部)畠山氏の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)が三好勢に加担すべく参戦・・・500余りの軍勢を率いて川勝寺口(せんしょうじぐち=京都市下京区西京極・泉乗寺口とも)を抑えて、西院に展開する三好勢を合流しようとしますが、そこを朝倉の越前兵が迎え撃ち、こちらも激しい合戦となりました。

この日の戦いは敵味方に多くの死者を出し、それでも決着がつかず・・・疲弊した両者は、ひとまず兵をを退き、しばし対陣する事となりましたが、その後もこう着状態が続いたため、年が明けた1月頃からは一部で和睦交渉が行われるようになります。

やがて、その交渉の主導者であった六角定頼と朝倉教景が、三好元長と和睦した事で、まずは3月に入って朝倉勢が帰国・・・これを受けて諸将も兵を収めて、次々と帰国して行きますが、そもそものモメ事の発端だった柳本賢治は、この和睦劇に不満ムンムン・・・

一方の発端の人である将軍=義晴と細川高国も、和睦には不満だったようですが、どちらも、諸将の加勢が無ければ戦えないのが現状・・・やむなく、彼らも兵を退き、またまた近江へと逃れたのでした。

とは言え、この和睦は、あくまで、今回の東山・川勝寺口の戦いにおける和睦・・・義晴&高国VS義維&晴元の抗争が終わったわけではありませんので、この後も、享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原での合戦(4月6日参照>>)などの戦いが繰り広げられた後、いよいよ、高国最後の戦いとなる大物崩れ(だいもつくずれ)の戦いへと向かって行きますが、そのお話は6月8日の【細川高国が自刃…大物崩れ~中嶋・天王寺の戦い】>>でどうぞm(_ _)m

・・・にしても、今回も京都市街真っただ中の市街戦、周辺の建物にも被害が多くあった事が想像できます。
世は戦国とは言え、多くの一般市民も巻き込まれたかと思うと胸が痛いですね。
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2017年11月11日 (土)

桓武天皇渾身の新都~幻の都・長岡京遷都

 

延暦三年(784年)11月11日、桓武天皇の勅命により、平城京から長岡京へと遷都されました。

・・・・・・・・・

長岡京(ながおかきょう=京都府向日市・長岡京市・京都市西京市)は、天応元年(781年)に即位した第50代=桓武(かんむ)天皇によって、延暦三年(784年)11月11日から平安京に移る延暦十三年(794年)10月22日までの10年間、日本の都とされた場所です。

余談ですが、あらためて教科書の年表など調べてみると、平安時代という時代区分は平安京に遷都された延暦十三年(794年)からなんですね~

なので、この長岡京は時代区分で言うと奈良時代になる・・・個人的にはちょっと??な感じがしないでもないですが、まぁ、時代区分なんて物は、後世の人がわかりやすいように考えた文字通りの単なる区分でしょうし、都が平安京なので平安時代という名称なのだから、平安京ではない長岡京が含まれないのは致し方ないのかも知れないですね。

と言うのも、この長岡京は、『幻の都』と呼ばれる謎多き都なのです。

もちろん、この長岡京の話は『続日本記』にも登場しますし、当時の(みことのり=天皇の命を直接伝える文書)にも「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とありますので、長岡京という都があった事自体は古くから知られていました。

また、向日神社(むこうじんじゃ=京都府向日市)の建つ丘陵を中心とした一帯が、昔から『長崗』と呼ばれていた事もありましたから、「おそらく、このあたりに都が…」という予想はされてはいたのですが、明確な場所というのは特定されていなかったのです。

Dscf1950a600 そんな中・・・それまで、明治になって天皇が東京に移った事で寂れる一方だった京都の町を復活すべく立ち上げられた明治二十八年(1894年)の『平安遷都千百年祭』(3月16日参照>>)なる京都復活イベントの一環として長岡京の遺跡保存の気運が高まり、有志により『長岡宮跡』の石碑が建立されたりもしましたが、本格的な発掘調査が始まったのは昭和二十九年(1954年)12月・・・翌年の1月に初めて遺跡の存在が確認されたのです。

さらに昭和三十四年(1959年)の宅地開発をキッカケに、大極殿(だいごくでん=最重要な儀礼施設)の跡が確認&調査され、京都府による保存&整備が決定し、その事業は、平成の今も継続中・・・なので、今後も新たな発掘&発見がある事でしょう。

Dscf1946a1000
保存&整備された大極殿公園(京都府向日市)…大極殿公園や向日神社・乙訓寺など長岡京の史跡へのくわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「長岡京へ行こう」でどうぞ>>

ちなみにですが・・・
上記の大極殿跡などがあるこの場所は長岡京跡ではなく長岡宮跡・・・(もちろん、広域に点在する関連史跡を含む場合は長岡京跡ですが…)

それは・・・奈良の平城京もそうですが、遷都された後の都というのは、宮殿は取り壊されてリサイクルされたりするので、跡かたも無くなって田んぼや畑になる可能性が高く、後に発掘調査されて公園として整備される事が多々ありますが、都そのものは、神社仏閣があったり人が住んでいたりするので、徐々に姿を変えつつも、結局はそのまま町になっている事も多々あります。
(奈良の平城京も、現在公園のように整備されている場所は平城宮=宮殿跡で、都そのものは東は東大寺~春日大社、南は現在の大和郡山市あたりまでありました:2月25日参照>>

なので、上記のように、宅地開発で更地になって発見されたりする以外は、すでに建物が建っているのを壊してまで発掘調査する事はしない方向ですので、なかなか都そのものの全容を確認するのは難しい・・・逆に、平安京のように、町が発展しまくって、大極殿跡などの宮殿施設のほとんどが石碑のみになっちゃってる場合もあります(現在の京都御所は里内裏という一時的な皇居だった場所です=11月8日参照>>

とは言え、近年の発掘調査で、幻の都の姿は、かなり解明されるようになって来たわけで・・・以前は、そのあまりの幻っぷりに、「未完成のまま破棄された」と言われていましたが、発掘が進むにつれ、その大きさも、東西4.3km南北5.3kmと平城京や平安京に匹敵する大きな都で、向日神社周辺の丘陵地域を確保した宮殿のあたりは、一段高い位置にあって広大な都を見下ろせる絶好のロケーション・・・宮殿から中央を貫く朱雀大路(すざくおおじ)を中心に碁盤の目のような大路小路も整備され、役所や貴族の邸宅などがその重要度に応じて配置された、かなりの完成形を成していた事などがわかって来ています。

Nagaokakyoub ←長岡京の位置図 
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

また、朱雀大路の最南端にある羅城門(らじょうもん)を出てを南に行けば、すでに奈良時代には水路の要所として栄えていた山崎津(やまざきのつ=京都府乙訓郡大山崎町)があり、ここを都の表玄関として、人や物資の往来もたやすく、政治・経済・文化の中心となり得る、すばらしい都であった事がうかがえます。

まさに、桓武天皇渾身の都・・・それが長岡京だったのです。

今回の平城京からの遷都の理由については、未だ謎多く、様々な説がありますが、私としては、やはり、奈良時代のモロモロを払しょくして心機一転する事にあったと考えています。

Tennouketofuziwarakekeizukouzin 以前、桓武天皇の父で、第49代天皇である光仁(こうにん)天皇のページ(10月1日参照>>)でくわしく書かせていただきましたが、この光仁天皇が100年ぶりの天智(てんじ)天皇系の天皇であった事・・・

これまで、かつて飛鳥時代に起こった壬申の乱(じんしんのらん)(7月23日参照>>)という皇位継承争いに勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)系の天皇が仕切っていた奈良時代・・・

藤原氏がその外戚(がいせき=天皇の母の家系)を手放したく無いために打った奥の手が第46代孝謙(こうけん)天皇という生涯独身の女性天皇(←天皇の子供が後を継ぐパターンは不可能)だった事で、
(これまでの女性天皇はすべて、后という立場を経験しており、今は幼くとも、将来的には後を継ぐべき皇子がいる中継ぎの天皇でした)
一旦、第47代淳仁(じゅんにん)天皇に皇位を譲ったものの、またぞろ第48代称徳(しょうとく)天皇として自らが返り咲き、さらにそこに道鏡(どうきょう)という僧が関与して来て、あわや「道鏡が天皇に???」という事件まで発生してしまっていたのです。
【藤原仲麻呂の乱】参照>>
【道鏡事件】参照>>
淳仁天皇・崩御】参照>>
【和気清麻呂、流罪】参照>>

もちろん、それらの出来事に至る真相については、まだまだ謎な部分はあるのですが、いずれにしても、これらのゴタゴタは、当事者個人が起こしたというよりは、彼らの利権に群がる仏教勢力や貴族の派閥やらが複雑に関与していたわけで・・・

で、結局、これらの勢力とは、ほぼ無関係の天智系の人だった桓武天皇の父=光仁天皇に100年ぶりに皇位が廻って来る事になった・・・つまりは、桓武天皇父子だけでなく、周囲の人たちも、奈良時代色を消し去り心機一転=大きな改革が必要だと思っていたわけで・・・

そのため・・・
飛鳥→藤原→平城と、これまで都が移転する度に、ともに移転していた大寺院は、そのまま奈良に残しての遷都、
なんだかんだで飛鳥時代から、副都心として維持されていた難波宮
(なにわのみや=大阪府大阪市中央区)(12月11日参照>>)を全面撤去しての遷都、
これまで水運の中心だった港を、浪速津
(なにわづ=大阪市中央区)から山崎津に変更しての遷都、
となったわけです。

このように、天皇自ら政治を行う親政(しんせい)を目指し、一大決心で挑んだ長岡京遷都だったわけですが、冒頭にも書かせていただいたように、歴史の授業でも超有名な「鳴くよウグイス平安京」=平安京に都が遷されるのは794年・・・つまり、この長岡京は、わずか10年の短い命だったのです。

そう、大きな改革であればこそ、それだけ多くの反対派が存在するのも道理というもの・・・

延暦三年(784年)6月頃に始まった新都の工事が着々と進んでいたはずの延暦四年(785年)の9月24日、早くも事件は起こります。

桓武天皇の信頼も厚く、もともと「新都をこの長岡に地にしては?」とのアドバイスをした人物であり、その造営に関する事をほぼほぼ任されていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が、工事の検分中に反対派に襲われ、翌日、死亡してしまったのです。

Dscf2066a1000 しかも、その事件に桓武天皇の弟で皇太子だった早良(さわら)親王が関与していたとされ、親王は皇太子を廃され、乙訓寺(おとくにでら=京都府長岡京市)に10日ほど幽閉された後、淡路島(あわじしま=兵庫県)への流罪となります。

幽閉直後から食を絶ち、無実を訴えた親王でしたが、その訴えが聞き入れられる事無く流罪が決行され、衰弱した親王は、島に到着する前に亡くなってしまうのです。

この事件によって、いち時は工事が中断されたものの、延暦六年(787年)の10月には、桓武天皇自らが、未だ皇居が未完成な新都へと移り、翌七年の12月には、紀古佐美(きのこさみ)征夷大将軍として蝦夷(えぞ)に出兵する(7月2日参照>>)など、遷都への意気込みはもちろん、更なる強気を見せる桓武天皇・・・

しかし、またまた不幸が襲います。

延暦八年(790年)の12月には、天皇の母の高野新笠(たかののにいがさ)が、翌年の閏3月には皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が相次いで崩じ、さらに、亡き早良親王の代わりに、新しく皇太子に立てた天皇の実子=安殿(あて)親王(後の平城天皇)まで病気にかかってしまったのです。

お気づきの通り、最初の不幸は人為的ないわゆる事件ですが、後者の不幸は病(疫病だったとも言われます)・・・そこで、慌てて皇太子=安殿親王の病を占うと、なんと、その原因は「早良親王の祟り」と出ます。

しかも、その占いの結果が出た直後の延暦十一年(792年)6月22日、激しい雷雨によって式部省(しきぶしょう=会社でいう所の人事部)南門が倒れ、約1ヶ月半後の8月9日には、大雨による洪水で桂川が氾濫・・・2日後の11日には、天皇自らが高台に上って、その洪水の様子を目の当たりにしたと言いますが、おそらくここで、天皇も「これはアカン!」と思ったのでしょう(←心の内なので、あくまで予想です)、なんせ、この頃は怨霊や祟りが本当に信じられていた時代ですから・・・

翌・延暦十二年(793年)の年が明けて早速の1月15日には、使者を山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら) に派遣して現地視察をさせ、1月21日には、もう長岡京の一部解体工事が開始され、2月2日には遷都の意思を賀茂大神に告げ、3月1日には、天皇自ら山背国に行幸して現地視察をしています(早っ!)

そう、この山背国葛野郡宇太村が、怨霊を封じ込める四神相応(しじんそうおう=東西南北の四方の神に守られている=くわしくは下記平安京のページで)の地=風水によるベストな地だった後に平安京となる場所でした。

着々と工事は進む中、翌・延暦十三年(794年)7月には、東西の市も新都(平安京)に移され、10月22日、正式に平安京遷都となったのです。

平安京については・・・
以前から、何度か書かせていただいてますので、内容がカブり気味で恐縮ですが、
【究極の魔界封じの都・平安京】>>
【早良親王・怨霊伝説~お彼岸行事の由来】>>
【平安京の変化~朱雀大路と千本通】>>
【平安京はいつから京都に?】>>
など参照いただければありがたいです。

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2017年11月 4日 (土)

小田原北条家最後の人~北条氏直の肌の守りと督姫と

 

天正十九年(1591年)11月4日、小田原北条家最後の人となった北条氏直が30歳でこの世を去りました。

・・・・・・・

あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)に始まり(10月11日参照>>)5代=100年に渡って関東に君臨した北条家・・・鎌倉時代執権の北条と区別するため後北条とか小田原北条とか呼ばれたりします。

そんな北条家が、室町幕府政権下で関東管領(かんとうかんれい)に任命されていた上杉氏に取って代わって、事実上の関東支配をする(4月20日参照>>)ようになったのは、3代目当主の北条氏康(ほうじょううじやす)の頃からですが、追われた上杉が越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら=後の上杉謙信)を頼った(6月26日参照>>)事から、この関東支配を盤石な物にするためには、駿河(するが=静岡県中北部)今川義元(いまがわよしもと)と、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)との関係を良好にしておかねばならなかったのです。

一方の武田信玄も、自国の北側に位置する信濃(しなの=長野県)に侵攻するためには、東に位置する今川と北条との関係が危ぶまれていては安心して北へ行けない・・・

また、自国の西に位置する遠江(とおとうみ=静岡県西部)三河(みかわ~愛知県東部)へと侵出している今川義元も、北の武田&東の北条とは衝突を避けたいわけで・・・

こうして利害関係が一致した三者は、天文二十三年(1554年)、相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んだのです。

その同盟の証として行われたのが、お互いの息子と娘の婚儀・・・
氏康の娘=早川殿(はやかわどの)が義元の息子=今川氏真(うじざね)に嫁ぎ、
義元の娘=嶺松院(れいしょういん)が信玄の息子=武田義信(よしのぶ)に嫁ぎ、
信玄の娘=黄梅院(おうばいいん)が氏康の息子=北条氏政(うじまさ)に嫁ぐ、
というテレコ&テレコの結婚でした(3月3日参照>>)

Houzyouuzinao300 そう、今回の主役=北条氏直(ほうじょううじなお)は、この時に結婚した氏政と黄梅院の次男として永禄五年(1562年)に生まれました。

しかし、その2年前の永禄三年(1560年)に起こった桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、かの今川義元が亡くなってしまった後、信玄が一方的に同盟を破棄して、今川の駿河を狙い始めた事から関係が悪化・・・永禄十一年(1568年)に、信玄が、義元の後を継いでいた氏真の今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃した(12月13日参照>>)事から、母の黄梅院は離縁されて武田に送り返され、その1年後に27歳の若さでこの世を去ってしまうのです(6月17日参照>>)

この同じ年には、氏直が、追われた氏真の猶子(ゆうし=社会的な親子関係)となって家督を継ぎ、いずれ駿河を譲られる事になりましたが、実際には、もはや駿河は武田の物(7月2日参照>>)・・・しかも、その武田と連携した三河の徳川家康(とくがわいえやす)によって掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を攻撃された(12月27日参照>>)氏真が、保護を求めて北条へと駆け込んで来て、事実上、戦国大名としての今川家は滅亡してしまいます。

この、今川が無くなった事と、祖父の氏康が亡くなった事を受けて元亀二年(1571年)には北条と武田の関係は一旦修復されますが、天正六年(1578年)に越後の謙信が亡くなった(3月13日参照>>)後継者争いの中で、北条から養子に入っていた上杉景虎(かげとら=氏康の七男)に敵対する上杉景勝(かげかつ)側に、信玄の後を継いでいた武田勝頼(かつより)が味方した事で(2010年3月17日参照>>)またもや北条と武田の関係が崩れます

そんな中、天正八年(1580年)には父=氏政の隠居に伴い、氏直は第5代目の北条当主となりますが、これはあくまで戦略的な代替わりであって、実権は未だ父の氏政が握ったままだったと言われます。

そんなこんなの天正十年(1582年)、あの本能寺(ほんのうじ=京都市右京区)織田信長(おだのぶなが)横死(2015年6月2日参照>>)・・・それが、信長が武田を滅亡させてからまだ2ヶ月余りの時期だった事から、旧武田領は、北の上杉&西の徳川&東の北条の間で取り合いとなりますが(6月18日参照>>)、そんな中で、北条は家康と同盟を結んで、何とか上野(こうずけ=群馬県)を確保し、未だ関東に君臨する状態を保っていました。

この時、同盟の証として行われたのが、氏直と家康の次女=督姫(とくひめ)婚儀でした(10月29日参照>>)

やがて、信長亡き後に後継者のごとき位置に立ち(6月27日参照>>)、四国を平らげ(7月29日参照>>)、九州を平らげ(4月17日参照>>)、どんどんと力をつけて来たのが豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)・・・それでも、初代早雲の息子で97歳という高齢まで生きた北条幻庵(げんあん=長綱)の生存中は、なんとなく気を使っていた感がアリ?(11月1日参照>>)

しかし、その幻庵が天正十七年(1589年)11月1日に亡くなると、そのわずか23日後の11月24日に、北条が起こした真田とのトラブル(10月23日参照>>)を理由に、秀吉が宣戦布告(11月24日参照>>)・・・こうして、秀吉による北条壊滅作戦=小田原征伐(おだわらせいばつ)が始まったのです(12月10日参照>>)

北条の誇る小田原城は、これまで信玄に攻められても、謙信に攻められても落ちなかった城・・・それ故、「この堅固な城さえあれば、何日でも籠城でき、やがて疲弊した攻め手側の方が諦めて撤退するだろう」とのもくろみもあったわけですが、皆様ご存じの通り、城攻め得意の秀吉は、別働隊(6月9日参照>>)に裏工作&一夜城(6月26日参照>>)など、大軍で包囲(4月2日参照>>)してのジワジワ作戦で追い込んでいき、ついに天正十八年(1590年)7月5日、北条は小田原城の開城を決定するのです。

この和平交渉の時、当主である氏直は、弟=氏房(うじふさ)を伴って秀吉方の滝川雄利(たきがわかつとし=一益の娘婿)の陣を訪れ、「自分が、すべての責任を負って切腹をするので、城兵の命は助けてほしい…」 と申し出たと言います(2008年7月5日参照>>)

秀吉は、この氏直の、当主としての潔い姿に感銘するとともに、実際には、小田原城内での主導権を握っていたのは父の氏政や叔父の氏照(うじてる=氏政の弟)らであった事、また上記の通り、氏直が家康の娘婿にあたる事などを考慮し、氏政と氏照らには切腹を申し渡したものの、氏直は、その命を助け高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に入る事とさせたのです。

『翁草』には、この時の氏直の逸話が記されています。

高野山へと向かう事になった氏直は、この一件から離縁させられる事になった督姫と最後の別れの時、これまで肌身離さず持っていたお守りを懐から出し、
「これは、北条の祖の早雲が、相模(さがみ=神奈川県)を攻める際の出陣の儀式の時に、先例にならって勝ち栗を半分だけ食べ、残りの半分を懐にしまって出陣して大勝利を得た事から、吉例のお守りとして錦の袋に入れ、代々の北条当主が身につけていた物です。
しかし、もはや世捨て人となった僕には意味もなく…どうか、君が持っていて下さい。
もし、いつか、北条一門の生き残り中に『これは!』という人物を見つけたら、その人に譲ってくれたら良いです」

と言って、そのお守りを督姫に渡したのです。

それから1年・・・秀吉からの赦免を受けた氏直は、大坂(おおさか=大阪市)に屋敷を与えられて秀吉とも面会して、近々、伯耆(ほうき=鳥取県中西部)一国を与えられて大名に復帰できる予定となりましたが、そんなさ中の天正十九年(1591年)11月4日30歳の若さで、いきなり亡くなってしまうのです。

死因は天然痘(てんねんとう)だったとされていますが、同じ大坂にいて、この死の一報を聞いた督姫・・・とにもかくにも、これにて北条宗家の血脈は絶える事となりました。

Tokuhime500 やがて文禄三年(1594年)、秀吉からの働きかけにより、再びの政略結婚で池田輝政(いけだてるまさ)と再婚する事になった督姫は、その結婚前に、狭山城(さやまじょう=大阪府大阪狭山市)北条氏規(うじのり=氏直の叔父)(2月8日参照>>)のもとへ向います。
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この氏規は、氏政の弟ですが、例の小田原征伐の際、家康らの説得に応じて韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)を明け渡すという柔軟な姿勢であった事から、戦後には、やはり氏直とともに高野山へ送られたものの、同じく赦免され、ちょうど、この文禄三年(1594年)に狭山6980石を与えられたばかりでした。

そこにやって来た督姫・・・
「このお守りは、氏直様からいただいた物で、以来、肌身離さず、私が持っていた物です」
と、あの氏直のお守りを出したのです。

「本来、これは北条嫡流が受け継ぐ高祖のお守りですが、嫡流も絶え、この私も他家へ嫁ぐ以上、小国とは言え、一国一城の主で、北条の名を継ぐあなた様が持っておられるのが1番良いのではないかと思い、持参しました」
と、涙ながらに、そのお守りを手渡したと言います。

そう・・・彼女は、ずっと持っていたのです。

離縁させられて氏直が高野山へ行ってからも・・・
同じ大坂にいながらも会えぬままに彼が亡くなった後も・・・

しかし、他家へ嫁ぐ以上、その思いも断ち切らねばならないのが戦国の女・・・

彼女たち戦国の女は、現在人の私たちが思い描くほど、か弱くもなく、乱世の犠牲者でもなく、したたかで強く、それでいて情が深い・・・

自分が果たせる役目を知り、自分が背負うべき責任をしっかりと見据る事のできる女性たちだったのだと思います。

果たして、池田家に嫁いだ彼女は、あの姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)にて、輝政との間に5男2女をもうける肝っ玉母さんとなります。

ちなみに、一方の北条氏規の家系も、江戸時代を通じて狭山藩主としての地位を全うして、無事、明治維新を迎えていますので、ご安心を・・・
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