小田原北条家最後の人~北条氏直の肌の守りと督姫と
天正十九年(1591年)11月4日、小田原北条家最後の人となった北条氏直が30歳でこの世を去りました。
・・・・・・・
あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)に始まり(10月11日参照>>)、5代=100年に渡って関東に君臨した北条家・・・鎌倉時代執権の北条と区別するため後北条とか小田原北条とか呼ばれたりします。
そんな北条家が、室町幕府政権下で関東管領(かんとうかんれい)に任命されていた上杉氏に取って代わって、事実上の関東支配をする(4月20日参照>>)ようになったのは、3代目当主の北条氏康(ほうじょううじやす)の頃からですが、追われた上杉が越後(えちご=新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら=後の上杉謙信)を頼った(6月26日参照>>)事から、この関東支配を盤石な物にするためには、駿河(するが=静岡県中北部)の今川義元(いまがわよしもと)と、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん=晴信)との関係を良好にしておかねばならなかったのです。
一方の武田信玄も、自国の北側に位置する信濃(しなの=長野県)に侵攻するためには、東に位置する今川と北条との関係が危ぶまれていては安心して北へ行けない・・・
また、自国の西に位置する遠江(とおとうみ=静岡県西部)や三河(みかわ~愛知県東部)へと侵出している今川義元も、北の武田&東の北条とは衝突を避けたいわけで・・・
こうして利害関係が一致した三者は、天文二十三年(1554年)、甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んだのです。
その同盟の証として行われたのが、お互いの息子と娘の婚儀・・・
氏康の娘=早川殿(はやかわどの)が義元の息子=今川氏真(うじざね)に嫁ぎ、
義元の娘=嶺松院(れいしょういん)が信玄の息子=武田義信(よしのぶ)に嫁ぎ、
信玄の娘=黄梅院(おうばいいん)が氏康の息子=北条氏政(うじまさ)に嫁ぐ、
というテレコ&テレコの結婚でした(3月3日参照>>)。
そう、今回の主役=北条氏直(ほうじょううじなお)は、この時に結婚した氏政と黄梅院の次男として永禄五年(1562年)に生まれました。
しかし、その2年前の永禄三年(1560年)に起こった桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、かの今川義元が亡くなってしまった後、信玄が一方的に同盟を破棄して、今川の駿河を狙い始めた事から関係が悪化・・・永禄十一年(1568年)に、信玄が、義元の後を継いでいた氏真の今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃した(12月13日参照>>)事から、母の黄梅院は離縁されて武田に送り返され、その1年後に27歳の若さでこの世を去ってしまうのです(6月17日参照>>)。
この同じ年には、氏直が、追われた氏真の猶子(ゆうし=社会的な親子関係)となって家督を継ぎ、いずれ駿河を譲られる事になりましたが、実際には、もはや駿河は武田の物(7月2日参照>>)・・・しかも、その武田と連携した三河の徳川家康(とくがわいえやす)によって掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を攻撃された(12月27日参照>>)氏真が、保護を求めて北条へと駆け込んで来て、事実上、戦国大名としての今川家は滅亡してしまいます。
この、今川が無くなった事と、祖父の氏康が亡くなった事を受けて元亀二年(1571年)には北条と武田の関係は一旦修復されますが、天正六年(1578年)に越後の謙信が亡くなった(3月13日参照>>)後継者争いの中で、北条から養子に入っていた上杉景虎(かげとら=氏康の七男)に敵対する上杉景勝(かげかつ)側に、信玄の後を継いでいた武田勝頼(かつより)が味方した事で(2010年3月17日参照>>)、またもや北条と武田の関係が崩れます。
そんな中、天正八年(1580年)には父=氏政の隠居に伴い、氏直は第5代目の北条当主となりますが、これはあくまで戦略的な代替わりであって、実権は未だ父の氏政が握ったままだったと言われます。
そんなこんなの天正十年(1582年)、あの本能寺(ほんのうじ=京都市右京区)で織田信長(おだのぶなが)が横死(2015年6月2日参照>>)・・・それが、信長が武田を滅亡させてからまだ2ヶ月余りの時期だった事から、旧武田領は、北の上杉&西の徳川&東の北条の間で取り合いとなりますが(6月18日参照>>)、そんな中で、北条は家康と同盟を結んで、何とか上野(こうずけ=群馬県)を確保し、未だ関東に君臨する状態を保っていました。
この時、同盟の証として行われたのが、氏直と家康の次女=督姫(とくひめ)の婚儀でした(10月29日参照>>)。
やがて、信長亡き後に後継者のごとき位置に立ち(6月27日参照>>)、四国を平らげ(7月29日参照>>)、九州を平らげ(4月17日参照>>)、どんどんと力をつけて来たのが豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)・・・それでも、初代早雲の息子で97歳という高齢まで生きた北条幻庵(げんあん=長綱)の生存中は、なんとなく気を使っていた感がアリ?(11月1日参照>>)
しかし、その幻庵が天正十七年(1589年)11月1日に亡くなると、そのわずか23日後の11月24日に、北条が起こした真田とのトラブル(10月23日参照>>)を理由に、秀吉が宣戦布告(11月24日参照>>)・・・こうして、秀吉による北条壊滅作戦=小田原征伐(おだわらせいばつ)が始まったのです(12月10日参照>>)。
北条の誇る小田原城は、これまで信玄に攻められても、謙信に攻められても落ちなかった城・・・それ故、「この堅固な城さえあれば、何日でも籠城でき、やがて疲弊した攻め手側の方が諦めて撤退するだろう」とのもくろみもあったわけですが、皆様ご存じの通り、城攻め得意の秀吉は、別働隊(6月9日参照>>)に裏工作&一夜城(6月26日参照>>)など、大軍で包囲(4月2日参照>>)してのジワジワ作戦で追い込んでいき、ついに天正十八年(1590年)7月5日、北条は小田原城の開城を決定するのです。
この和平交渉の時、当主である氏直は、弟=氏房(うじふさ)を伴って秀吉方の滝川雄利(たきがわかつとし=一益の娘婿)の陣を訪れ、「自分が、すべての責任を負って切腹をするので、城兵の命は助けてほしい…」 と申し出たと言います(2008年7月5日参照>>)。
秀吉は、この氏直の、当主としての潔い姿に感銘するとともに、実際には、小田原城内での主導権を握っていたのは父の氏政や叔父の氏照(うじてる=氏政の弟)らであった事、また上記の通り、氏直が家康の娘婿にあたる事などを考慮し、氏政と氏照らには切腹を申し渡したものの、氏直は、その命を助け、高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に入る事とさせたのです。
『翁草』には、この時の氏直の逸話が記されています。
高野山へと向かう事になった氏直は、この一件から離縁させられる事になった督姫と最後の別れの時、これまで肌身離さず持っていたお守りを懐から出し、
「これは、北条の祖の早雲が、相模(さがみ=神奈川県)を攻める際の出陣の儀式の時に、先例にならって勝ち栗を半分だけ食べ、残りの半分を懐にしまって出陣して大勝利を得た事から、吉例のお守りとして錦の袋に入れ、代々の北条当主が身につけていた物です。
しかし、もはや世捨て人となった僕には意味もなく…どうか、君が持っていて下さい。
もし、いつか、北条一門の生き残り中に『これは!』という人物を見つけたら、その人に譲ってくれたら良いです」
と言って、そのお守りを督姫に渡したのです。
それから1年・・・秀吉からの赦免を受けた氏直は、大坂(おおさか=大阪市)に屋敷を与えられて秀吉とも面会して、近々、伯耆(ほうき=鳥取県中西部)一国を与えられて大名に復帰できる予定となりましたが、そんなさ中の天正十九年(1591年)11月4日、30歳の若さで、いきなり亡くなってしまうのです。
死因は天然痘(てんねんとう)だったとされていますが、同じ大坂にいて、この死の一報を聞いた督姫・・・とにもかくにも、これにて北条宗家の血脈は絶える事となりました。
やがて文禄三年(1594年)、秀吉からの働きかけにより、再びの政略結婚で池田輝政(いけだてるまさ)と再婚する事になった督姫は、その結婚前に、狭山城(さやまじょう=大阪府大阪狭山市)の北条氏規(うじのり=氏直の叔父)(2月8日参照>>)のもとへ向います。
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この氏規は、氏政の弟ですが、例の小田原征伐の際、家康らの説得に応じて韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)を明け渡すという柔軟な姿勢であった事から、戦後には、やはり氏直とともに高野山へ送られたものの、同じく赦免され、ちょうど、この文禄三年(1594年)に狭山6980石を与えられたばかりでした。
そこにやって来た督姫・・・
「このお守りは、氏直様からいただいた物で、以来、肌身離さず、私が持っていた物です」
と、あの氏直のお守りを出したのです。
「本来、これは北条嫡流が受け継ぐ高祖のお守りですが、嫡流も絶え、この私も他家へ嫁ぐ以上、小国とは言え、一国一城の主で、北条の名を継ぐあなた様が持っておられるのが1番良いのではないかと思い、持参しました」
と、涙ながらに、そのお守りを手渡したと言います。
そう・・・彼女は、ずっと持っていたのです。
離縁させられて氏直が高野山へ行ってからも・・・
同じ大坂にいながらも会えぬままに彼が亡くなった後も・・・
しかし、他家へ嫁ぐ以上、その思いも断ち切らねばならないのが戦国の女・・・
彼女たち戦国の女は、現在人の私たちが思い描くほど、か弱くもなく、乱世の犠牲者でもなく、したたかで強く、それでいて情が深い・・・
自分が果たせる役目を知り、自分が背負うべき責任をしっかりと見据る事のできる女性たちだったのだと思います。
果たして、池田家に嫁いだ彼女は、あの姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)にて、輝政との間に5男2女をもうける肝っ玉母さんとなります。
ちなみに、一方の北条氏規の家系も、江戸時代を通じて狭山藩主としての地位を全うして、無事、明治維新を迎えていますので、ご安心を・・・
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コメント
昨年の真田丸でも少し出ていましたね。
細田善彦くんが演じていました。その細田くんが後北条氏ゆかりの城跡をNHKの番組で訪れていました。
ちなみに北条幻庵も今年のおんな城主直虎でも1回だけ出ています。
後北条氏は氏規の息子の氏盛が実質的な氏直の後継者になってますね。「後北条氏6代目当主」は氏規か氏盛かのどちらですか?
投稿: えびすこ | 2017年11月 9日 (木) 21時20分
えびすこさん、こんばんは~
う~ん??どうでしょうねぇ?
あくまで個人的な考えですが、「後北条家は5代まで=6代目はない」って感じじゃないですか?
おっしゃる通り、氏盛は氏直の養子となって遺跡を継いでますが、実父の後を継いで初代狭山藩主でもあります。
氏直の養子として後を継ぐのは豊臣政権。
父の残した狭山の初代藩主は徳川政権。
現在の民主主義による政権交代では無い、この時代の政権交代は、価値観を含めた世の中のすべてが変わる政権交代ですから、両者を同じように議論する事は難しいように思います。
投稿: 茶々 | 2017年11月10日 (金) 01時37分
お疲れさまです。
今日は北条氏直さんの忌日でしたか。
父と叔父に気を使い気苦労に絶えない毎日でしたが、夫婦仲はよかったようで最後は報われたのかな?。
投稿: シバヤン | 2023年11月 4日 (土) 15時08分
シバヤンさん、こんばんは~
もうすぐ大名に復帰できるところだったのに…残念ですね。
お守りの話を聞く限り、報われた夫婦仲だったと想像します。
投稿: 茶々 | 2023年11月 5日 (日) 02時11分