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2017年12月 7日 (木)

家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期

 

明応五年(1496年)12月7日、近江の六角高頼を攻めた斎藤妙純父子が、土一揆に襲われて死亡しました。

・・・・・・・・

斎藤妙純(さいとうみょうじゅん=利国)は、美濃(みの=岐阜県)守護代だった斎藤利永(としなが)の次男で、叔父である斎藤妙椿(みょうちん)の養子となって、妙椿の家系である持是院家(じぜいんけ)を継いでいます。

応仁の乱の際には、西軍として、養父=妙椿とともに伊勢周辺に出兵し、この乱のドサクサで多くの領地の切り取りに成功・・・この頃には、すでに美濃守護である土岐成頼(ときしげより)の上を行く勢力を持っていたと言われています。

しかし、応仁の乱後に妙椿が死去すると、残された領地を巡って、異母兄の斎藤利藤(としふじ=利永の長男)と妙純との間に争いが勃発します。

まぁ、長男の利藤にしてみれば、父の死後に守護代を継いだのは自分なのに、実際には叔父の妙椿に実権を握られて抑えつけられたあげく、妙椿が死んだと思いきや、今度は実弟が仕切るんかい!てな感じでしょうか?

結局、合戦にまで発展した兄弟ゲンカは、妙純が勝利し、負けた利藤は六角氏を頼って亡命・・・後に和睦して美濃守護代に帰り咲きますが、もはや、実権を握るのは妙純だったわけで・・・

そんなこんなの明応四年(1495年)、今度は、美濃守護の土岐成頼の後継者を巡っての争いが勃発します。

成頼が、「自らの後継者を嫡男の政房(まさふさ)より、末息子の元頼(もとより)に継がせたい」と言いだしたのです。

成頼の意向を知った兄=利藤は「ここが挽回のチャンス!」とばかりに、政房を奉じる弟=妙純に対抗して元頼を奉じ、妙椿の家臣だった石丸利光(いしまるとしみつ)を味方に引き入れて、妙純排除を画策します。

これが妙純VS石丸利光の船田合戦(ふなだがっせん)(6月19日参照>>)・・・

これが、利光と姻戚関係にあった織田敏定(おだとしさだ=信長の曽祖父?)や利藤を保護した六角高頼(ろっかくたかより=承禎の祖父)、かたや妙椿の娘婿であった朝倉貞景(あさくらさだかげ=義景の祖父)京極高清(きょうごくたかきよ=高次の祖父)などを巻き込んでの大きな合戦となったのです(5月29日参照>>)

明応四年(1495年)3月から翌明応五年(1496年)6月まで続いた船田合戦ではありましたが、最後の最後に城田寺城(きだじじょう=岐阜県岐阜市城田寺)に追い詰められた利光が、自らの切腹と引き換えに、ともに城に籠っていた主君=成頼と利藤の息子の助命を願い出て、元頼とともに自殺・・・こうして、1年3ヶ月に渡る合戦が終結しました。

しかし、おおもとの合戦が終結しても、そのまま納まらなかったのが、それぞれの援助者たちのギクシャク感・・・

妙純は、京極高清と連携して、石丸方に味方した六角高頼を討つべく、六角氏のお膝元である近江(おうみ=滋賀県)に出陣します。

この動きを察知した高頼は、自らの金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市金剛寺町)とともに諸所にある支城や砦の再構築を行いつつ、高島(たかしま=滋賀県高島市)朽木材秀(くつきえだひで=直親)蒲生貞秀(がもうさだひで=秀郷の高祖父)などに出陣を要請して合戦の準備を整えます。

かくして船田合戦終了から4ヶ月後の11月6日、数千の兵を率いて破竹の勢いで国境を越えた妙純は、周辺に火を放ちながら進軍し、またたく間に蒲生郡(がもうぐん=滋賀県蒲生郡)一帯が焦土と化します。

勇ましく防戦を展開する六角勢ではありましたが、斎藤勢の勢いはハンパなく・・・やがて高頼は金剛寺城に、蒲生貞秀は日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町・中野城とも)にと、ともに居城に追い詰められ、両者とも籠城戦に突入します。

まだまだ蒲生平野に火を放ちながら、やがて日野城を包囲した斎藤勢・・・しかし、これがなかなか強い!

囲まれ、攻められながらも奮闘する日野城兵は、攻める斎藤勢を1000人ほど討ち取り、その勢いで撃って出て、逆に追撃をかけるほどの奮闘ぶり・・・やむなく斎藤勢は、作戦変更して日野城を諦め、高頼の金剛寺城をターゲットとしますが、こちらもなかなか強く、容易に落とす事ができませんでした。

仕方なく、兵を退き始める斎藤軍・・・それを見た高頼は、城を出て追撃を開始して50余人を討ち取りますが、一方の六角方の被害も大きく、この日の戦いはここまで・・・

その後も、しばらくの小競り合いが続きましたが、やがて合戦開始から1ヶ月ほど経った明応五年(1496年)12月7日、こう着状態に終止符を打つべく、両者の間で講和の話が持ち上がり、船田合戦からの流れを汲んだ、この日野口(ひのぐち)の戦いは、ここに終結するのです。

こうして和睦を成立させ、陣を明け渡す事になった妙純・・・しかし、この一瞬を、諸所の六角と郷土民たちが襲います。

長期の侵攻や地元を焦土とされた事に不満を抱いた郷民たちの土一揆・・・妙純は、これらを何とか防ぎつつ、なんなら、一揆に加勢する日野勢への攻めに転じる様相を見せますが、なんせ、一揆はその人数がハンパ無い・・・

相手は一揆の烏合の衆とは言え、明らかに不利な動員人数・・・自らが囲まれた事を察した妙純は、息子の斎藤利親(としちか)とともに、ここで自害するのでした。

『大乗院寺社雑事記』では斎藤方74人が自害
『後法興院記』では千人以上の斎藤方が、この一揆の襲撃で戦死したと記録されています。

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観音寺城跡=観音正寺より南西方面を望む

この時、妙純と連携して観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)まで出張って来ていた京極高清は、妙純の死を知り、慌てて夜陰に紛れ、船で琵琶湖を渡って湖西へと出た後、本拠の江北(こうほく=北近江)へと戻ったと言います。

また、妙純の苦戦を聞いて援軍を出した朝倉貞景も、やはり江北のあたりで、妙純の死亡と高清の敗走を知り、本国の越前(えちぜん=福井県)へと戻っていきました。

猛将と言われた斎藤妙純のあっけない最期・・・

後に、妙純の孫に当たる斎藤利良(としなが)が病死した時、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(としまさ)と名乗ったのが、あの美濃のマムシこと斎藤道三(さいとうどうさん)です。(道三の経歴については諸説ありますが…)

ところで、余談ではありますが・・・
現在、重要文化財に指定され、徳川家康(とくがわいえやす)の遺言に従って久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう=静岡市駿河区)に安置されている「革柄蝋色鞘刀(かわづかろいろさやかたな)という名刀があります。

この刀は、天正十二年(1584年)頃に、家康が織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)から譲り受けた物で、家康が生涯で最も愛し、常に身につけ、その死の直前に振りまわした(4月17日参照>>)、あの刀だとされているのですが、この刀の指裏(腰に差した時に体側になる面)には「妙純傳持」「ソハヤノツルキ」、反対側の指表には「ウツスナリ」と刻まれているとか・・・

「ソハヤノツルキ」とは、平安の昔に征夷大将軍となって蝦夷(えぞ)を平定した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(7月2日参照>>)の愛刀で清水寺(きよみずでら=兵庫県加東市)が所蔵する騒速(そはや)の事で、「ウツスナリ」は、その刀の写しという事、

そして、「妙純傳持」は、それを斎藤妙純が持っていたという意味です。

そんな刀を、家康は、自らが最も警戒する西国=西に、「その切っ先を向けて安置せよ」と遺言したのです・・・もちろん、自分の死後も、徳川を永遠に守るために・・・

そこには、田村麻呂の武勇とともに、彼に勝るとも劣らない斎藤妙純という武将への敬意と憧れがあったと思えてなりません。
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コメント

戦国期は弓・槍・鉄砲・甲冑などは量産品が多い(たぶん)ですが、刀だけはこぞってブランド志向なのが興味深いですよねぇ

投稿: ほよよんほよよん | 2017年12月 7日 (木) 19時47分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

甲冑や槍なんかもスゴイのありますが、
刀は、刀装具だけのコレクションや展示会もあるくらいですからね。
江戸時代になって、あまり派手に武装できないようになってしまったものの、それでも刀は武士の魂として特別だったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2017年12月 8日 (金) 01時43分

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