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2017年12月 1日 (金)

秀吉の中国攻め~黒田&竹中=二兵衛が迫る福原城の戦い

 

天正五年(1577年)12月1日、信長の命を受けた秀吉の中国攻めの福原城の戦いで、福原則尚の福原城が開城されました。

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元亀四年(天正元年=1573年)7月に、第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)槇島城(まきしまじょう)を攻撃し(7月18日参照>>)、続く8月に越前の朝倉と北近江の浅井を倒し(8月28日参照>>)、翌・天正二年(1574年)に長島一向一揆をせん滅し(9月29日参照>>)、さらにその翌年の天正三年(1575年)5月に、あの武田を長篠で撃ち破った(5月21日参照>>)織田信長(おだのぶなが)・・・

その年の11月に、これまで本拠としていた岐阜城美濃(岐阜県)尾張(愛知県西部)2国の家督を、嫡男の織田信忠(のぶただ)に譲り(11月28日参照>>)、翌・天正四年(1576年)の2月から安土城の築城に取りかかった(2月23日参照>>)信長は、この時点で、日本の中央部を抑えつつありましたが、そんな中で、信長とって気になる存在越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と、安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)でした。

どちらも、誰もが一目置く大大名ですので、これまでは、お互いを尊重し、表向きには争わない雰囲気を醸し出していましたが、ここに来て、北陸へと手を伸ばした謙信(3月17日参照>>)が、すでに元亀元年(1570年)から信長とは石山合戦を展開中(9月12日参照>>)の本願寺第11代・顕如(けんにょ)と和睦した事(5月18日参照>>)、また、畿内を追われた義昭が毛利を頼った事、などから、上杉&本願寺&毛利という三者の共通の敵が信長~という状況に・・・

この天正四年(1576年)の7月には、信長勢の警戒を破って毛利傘下の村上水軍が顕如の籠る石山本願寺に兵糧を運び込む事に成功する第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)もありつつ、刻々と迫りくる謙信の影も・・・(8月14日参照>>)

そんな中で、織田家内では、
北陸方面を柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)
山陰方面を明智光秀(あけちみつひで)(10月29日参照>>)
伊勢方面を織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)(11月25日参照>>)
などに担当させる中、
西国の雄=毛利と対峙する山陽方面を担当させたのが羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)でした。

Kurodazyosui500 この時、播磨(はりま=兵庫県南西部)御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)主の寺政職(こでらまさもと)の家臣=黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)など、いち早く味方についてくれる(11月29日参照>>)者もいましたが、一方で、毛利の色濃い備前(びぜん=岡山県南東部)との国境に近い西播磨の国衆たちは、やはり毛利への思いが強く、そう簡単に織田方の秀吉へなびこうとはしなかったのです。

そんな中の一人が上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)赤松政範(あかまつまさのり)でした。

Takenakahanbee600 天正五年(1577年)11月27日、能見川(のうみがわ=千種川支流)を渡った秀吉は、この上月城へと攻撃を仕掛けるのですが(11月29日参照>>)、それと同時に、周辺の支城を落とす多面的作戦を展開・・・自らの本隊は、上月城正面の仁位山(にいざん=兵庫県佐用町)へと向かう一方で、かの黒田官兵衛と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)ら2千余騎を福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)へ派遣したのです。

実は、この時、福原城にいた高倉山城(たかくらやまじょう=同佐用町)主=福原助就(ふくはら すけなり)は、福原城主の福原則尚(のりひさ)とは同族であり、未だ信長に従わぬ宇喜多(うきた)(10月30日参照>>)の家臣であると同時に、上月城の赤松政範の妹婿でもあった関係から、今回の秀吉の進軍に対しては、かなり強い抵抗を抱いていたわけです。

Fukuharazyoynotatakai
福原城の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『播州佐用軍記』によれば、
翌・11月28日、千種川(ちくさがわ=兵庫県南西端部を流れる)上津の渡しから川を渡った竹中軍は、福原城内から撃って出た福原方の兵により、かなり多くの犠牲者を出しつつも、何とか福原軍を城内へと追い込みます。

その後、ただちに周辺の山麓に火を放って、あぶり出しの総攻撃にかかりますが、この作戦は失敗に・・・

ここで、本隊から加勢にやって来た蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)が猛攻撃を仕掛けますが、やはり福原城を落とす事はできず・・・

とは言え、上記の通り、すでに敵を城内へ追い込み、そこをネズミ一匹逃がさぬ状態で包囲は完了しているわけで・・・ならば、このまま、長期に渡る籠城戦=兵糧攻めに持ち込むべきか?

との案も浮上しますが、そんなこんなの天正五年(1577年)12月1日、搦(から)め手からの鉄砲一斉射撃を開始した蜂須賀勢勢に歩調を合わせるように、大手を攻める黒田軍&竹中軍も一斉射撃を開始・・・

これを受けた城内では大手と搦め手の応戦に手勢を分散せねばならないばかりか、これまでの連日に渡る射撃攻撃に応戦していたため、今回の二刻ほどの一斉射撃に応戦している間に、城内の弾薬が尽きてしまう事態に・・・

この状況に浮き足立つ城内・・・その様子を見て取った黒田官兵衛の采配のより、黒田軍が一気に城内へと突入し、福原城の開城を成功させたのです。

この時、孫子(そんし)の兵法『囲師(いし)には必ず闕(か)き』「囲む時は逃げ道を作っておく」(本家HP:孫子の兵法「軍争編」参照>>)を実践した官兵衛によって用意された一方向の逃げ道に敗走の兵士が殺到する中、同じく脱出を図った助就は、潜んでいた伏兵に追い詰められて自害したとも、秀吉方の平塚為広(ひらつかためひろ)なる武将に討ち取られたとも言われます。

また、別の説では、高倉山を守っていた赤松の兵が、秀吉本隊の猛威に恐れをなして戦線離脱してしまったために、助就が、その高倉山城を救援に向かうべく福原城を出たところで、竹中軍と遭遇・・・激戦となってしまい、高倉山に向かう事を断念した助就は、福原城内へと戻って自害したとも伝わります。

いずれにしても、この日の戦いによって福原城は開城となり、助就が命を落とした・・・という事は確かな事だと思われます。

この間、秀吉本隊の猛攻を受けていた上月城では、翌・12月2日に敵陣に夜襲をかけるも失敗・・・コチラは12月3日に陥落し、尼子氏(あまこし)の再興を願う山中鹿之介(やまなかしかのすけ・幸盛)(7月17日参照>>)に、この上月城の守りを任せた秀吉は、更なる三木城攻防戦へと向かう事になります。

この後の出来事の参照ページ
三木の干殺し~別所長治の籠城戦>>
信長に見捨てられた上月城>>
山中鹿之介奮戦!上月城の攻防>>
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