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2017年12月13日 (水)

戦国の幕開け~将軍・足利義材による六角征討

 

明応元年(1492年)12月13日、足利義材による六角高頼の征討が終わり、義材が帰京の途につきました。

・・・・・・

そもそもは・・・
さっさと将軍を辞めて趣味の世界に生きたい第8代室町幕府将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、仏門に入っていた弟=足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)を呼び戻して次期将軍に指名したものの、その途端に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男の子=足利義尚(よしひさ)が生まれちゃって・・・そうなると、当然わが子を将軍にしたい富子と、指名されちゃってヤル気満々の義視が対立。

そこに、畠山(はたけやま)やら斯波(しば)家やらの管領家の後継者争いが絡んだ事で日本全国の武将を東西に分ける大乱となってしまったのが、あの応仁の乱・・・(5月20日参照>>)

最初こそ激しいものの(5月28日参照>>)、途中からは、なかなかのグダグダ感を醸し出しつつ(11月13日参照>>)、結局、西軍大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(3月18日参照>>)&東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の両巨頭の死を以って、文明九年(1477年)、約10年に渡る大乱は幕を閉じました(11月11日参照>>)

その後、そもそもの渦中の人である義政は、文明十四年(1482年)に将軍職を息子の義尚に譲る事を表明・・・この間に、もう一方の渦中の人である義視は美濃(みの=岐阜県)へと亡命して行きました。

そんなこんなで父の後を受け継いだ若き第9代将軍=義尚・・・彼に課せられた使命は、まずは世紀の大乱で失墜していく室町幕府将軍の権威を、少しでも回復させる事

それには、応仁の乱のゴタゴタに乗じて、武力で以って好き勝手やり始めた者を、足利将軍家の威力で以って抑えなければ・・・実は、この混乱に乗じて近江(滋賀県)南部の戦国大名=六角高頼(ろっかくたかより)が、武力で以って近江内の公家領や寺社領を占拠し続けるという暴挙に出ていたのです。

公家や寺社からの依頼を受けた義尚は、長享元年(1487年)、有力武将を従えた約2万の軍勢で以って六角氏の本拠=を攻撃して高頼を敗走させますが、高頼は、配下の甲賀武士の所に逃げ込み、彼らとともにゲリラ戦を展開・・・(12月2日参照>>)

そして、1年半にも渡るこのゲリラ戦のさ中、義尚は近江(まがり・滋賀県栗東)陣中にて、25歳の若さで病死してしまうのです(3月27日参照>>)

その死を受けて、第10代将軍となったのが、父=義視とともに美濃にいたその息子=足利義材(よしき=後の義稙)・・・息子を失った義政&富子の推薦での将軍就任という事もあり、当然、義尚の遺志をついで、彼もまた、六角氏と戦う事になります。

延徳三年(1491年)、高頼の追討命令を諸国の武将に発し、時の天皇=第103代後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)からの征討綸旨(りんじ=天皇家の命令書)も賜った義材は、8月27日、軍を率いて京を出立し、まずは三井寺(みいでら=滋賀県大津市・園城寺)に陣取ります。

これを知った高頼は、舞い戻っていた自身の本城=観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)をアッサリ捨てて、またもや甲賀の山中へ、その身を隠します。

この間、将軍自らの出陣にビビッって義材側に降る者、あるいは、個々の攻撃にて砦を落とされる者など、様々な小競り合いが勃発しつつも、甲賀山中に拠る高頼は、配下の者と連絡を取りつつゲリラ戦を展開していくのですが・・・

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足利義材の六角征討関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中、年が明けた明応元年(1492年=実際には7月19日に延徳四年より改元)5月、飯道寺(はんどうじ=滋賀県甲賀市)に拠った高頼は、諸所の防備をさらに固める一方で、密かに、絶賛お家騒動中(8月7日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極高清(きょうごくたかきよ)に援軍を求めて、幕府軍の混乱を図ろうとします。

この要請を受けて、市原谷から八風峠(はっぷうとうげ=三重県三重郡~滋賀県東近江市)まで出張って来る京極軍・・・この状況に義材は、自軍を2手に分け、一つは甲賀の高頼に備えつつ、主力部隊を市原谷に向けて進撃させました。

義材より、この合戦の大将を任された赤松政則(あかまつまさのり)は、9月15日に野洲川(やすがわ)沿いの立入(たていり=滋賀県守山市)から、浦上則宗(うらがみのりむね)桐原(きりはら=滋賀県近江八幡市)から、蒲生野(こもうの=滋賀県東近江市)を越え、17日には芝原(しばはら)に到着し、ここでぶつかった京極勢を蹴散らし甲津畑(こうづはた=同東近江市)まで進出します。

さらに幕府軍の一手は八風峠付近に火を放ち、近くの永源寺(えいげんじ=滋賀県東近江市)を焼き払います。

この勢いに耐えきれなくなった京極軍は退却・・・赤松政則は土岐成頼(ときしげより)に京極の追撃を命じ、自らの本隊は陣所へと帰還しました。

この京極軍の退却によって敗戦の色濃くなった高頼は、甲賀山中にて甲賀武士に守られながらも、より安全な場所を求めて、鈴鹿(すずか)を越えて伊勢(いせ=三重県北中部)へと逃走・・・これに前後して将軍=義材は、朽木貞綱(くつきさだつな=佐々木貞綱)の息子で六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子となっていた虎千代高頼に代わる新しい近江守護として任命して統治に当たらせる事に・・・

これで、「近江には新守護を配置して高頼が去った」という事で、明応元年(1492年)12月13日、義材は金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市)に置いていた自らの本陣を払い、帰京の途についたのでした。

しかし、この状況・・・お気づきの通り、ただ、事が沈静化しただけで、六角高頼自身を征伐したわけではありません。

つまり、これは・・・
「義尚&義材=二人の将軍が自ら軍を率いたにも関わらず、近江の一大名さえ討ち滅ぼす事ができなかった」
という結果なわけで、ここで義材が陣を払った事は、むしろ足利将軍家の力不足をまざまざと見せてしまった事になるわけで・・・

応仁の乱を経ても、まだ何とか保っていた室町幕府将軍の権威が、ここから、見事に崩れていく事になります。

なんせ、義材の帰京を知った六角軍の諸将は、結局その後、もといたそれぞれの領地へと復帰してしまうのですから・・・

結果的に、今回の将軍=義材による六角征討は、戦国の幕開けとなった出来事と言えるかも知れません。

ちなみに、関東での戦国の幕開けと言える北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)による「伊豆討ち入り」は、この前後年=延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)の事とされます(10月11日参照>>)

近畿も関東も・・・そろって、戦国時代に突入!!ですな。
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コメント

どうも最近、尼子経久がかなり長く大内家、京極家の承認下で所領を広げ、庇護していた吉童子丸を放逐か何かしてからは国人衆の支持がなかなか得られなくなった(?)とかいう説(つまり戦国大名化は早くとも1508年で、その後も守護大名と戦国大名の両方でつかず離れずのようなスタンスだった疑惑?が‥)があるらしいですから、これこそまさに戦国の始まりですね!

投稿: ほよよんほよよん | 2017年12月13日 (水) 23時49分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

このページの一つ前のページで書かせていただいた斎藤妙椿・妙純父子も、応仁の乱のドサクサでかなり領地を増やしています。
で、その妙純が亡くなるのは、今回の件の4年後…

応仁の乱は大乱ではありましたが、室町将軍家や管領家の家督争いにそれぞれの武将が味方をして真っ二つとなったわけですから、未だ幕府の権威も、わずかながら残っていたような気がしますので、今回の将軍の権威の失墜が、やはり戦国の幕開けのように感じています。

投稿: 茶々 | 2017年12月14日 (木) 01時50分

この記事の序盤でも触れていますが、今年はどういう訳か応仁の乱がにわかにピックアップされて関連書籍が売れたようですね。
応仁の乱を取り上げたテレビ時代劇や映画があったわけではないのに?と思いました。
今月の歴史秘話ヒストリアでも畠山家の内紛と言う視点で触れています。
昔大河ドラマでも取り上げていますが、今年だったら昔よりもヒットできていた?
当時のNHKはある意味先見の明があったのかも。

投稿: えびすこ | 2017年12月23日 (土) 10時40分

えびすこさん、こんにちは~

昨年出版された呉座勇一氏の「応仁の乱」が、30万部突破という歴史モノとしては異例のヒットを飛ばしたからでしょうね~

なぜ、そこまでヒットしたのかは、様々な方が分析されているようですが…

これキッカケで、また大河ドラマなんかで描いて下されば…とも思いますが、出演者が多すぎて大変な事になりそうです。

投稿: 茶々 | 2017年12月23日 (土) 17時50分

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