松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い
天正元年(1573年)12月26日、筒井順慶を主力にるす織田信長軍に攻められた松永久秀父子が多聞城を明け渡しました。
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畿内を制する三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として活躍していた松永久秀(まつながひさひで)・・・主君の命を受けて永禄二年(1559年)頃から大和(やまと=奈良県)への侵攻を開始し(11月24日参照>>)、間もなく信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城。
その後、長慶の死によって衰退し始めた三好家を盛りたてる中心人物の一人となった久秀は、永禄八年(1565年)には三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)を暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、大和国衆の二大巨頭である筒井(つつい)氏の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻め(11月18日参照>>)や、越智(おち)氏の貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)攻防戦(9月25日参照>>)など繰り返していましたが、やがて永禄十一年(1568年)9月、亡き義輝の弟で室町幕府第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて織田信長(おだのぶなが)が上洛(9月7日参照>>)すると、敵対する筒井氏の筒井順慶(つついじゅんけい)よりも先に、三好家の後継者である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)とともに、いち早く信長に降伏して傘下となり、その後ろ盾を以って、更なる奈良の支配を進めていました。
久秀の心が、どのあたりから反信長に移ったのかは定かではありませんが、信長上洛から2年後の元亀元年(1570年)には、すでに、信長と将軍義昭との間にギクシャク感が出始め(1月27日参照>>)、その年の6月には、信長VS浅井(あざい)&朝倉(あさくら)との姉川の戦い(6月28日参照>>)があり、9月には野田福島戦で、本願寺のおおもと=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が参戦し(9月12日参照>>)、その流れから、翌年には比叡山(ひえいざん)(9月12日参照>>)や本願寺門徒による長島一向一揆(5月16日参照>>)も反信長に参戦・・・さらに翌年の元亀三年(1572年)には、上洛の気配を見せる武田信玄(たけだしんげん)が三方ヶ原(12月22日参照>>)で、信長の同盟者である徳川家康(とくがわいえやす)と激突し、その翌日には犀ヶ崖(さいががけ)で討死にした平手汎秀(ひらてひろひで=信長の傅役・平手政秀の三男?)の首が、これ見よがしに信長のもとに送られて来る(12月23日参照>>)・・・いわゆる、義昭の呼びかけによる信長包囲網的な物に信玄が参戦して来たわけで・・・
この信玄という大物の包囲網参戦には、久秀の心も、大いに揺れた事でしょう。
さらに、翌・天正元年(1573年:7月に元亀より改元)1月には、信玄は野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)へと駒を進め(1月11日参照>>)、翌2月には、義昭自身が決起(2月20日参照>>)します。
信長包囲網ここに極まれり!!
嫡男の松永久通(ひさみち)を信貴山城に入れ、自らは多聞山城にあった久秀が、明確な反信長の狼煙を挙げたのは、この年の5月の事でした。
久秀の反旗を知った信長は、これまで度々久秀と敵対していた筒井順慶に、「多聞城を潰したれ!」と合力の援軍を出して攻めさせたのです。
『二条宴乗日記』によれば・・・
5月16日に順慶が奈良の三条に進出・・・これを受けて多聞山城の松永勢も出陣したと・・・
しかし、皆様ご存じのように、実は、この時点で、あの大物=武田信玄は、すでに亡くなっています。
あまりにドラマっぽくで「ホンマかいな?」と思ってしまいますが、『武田文書』などの記述によれば、久秀がこの信玄の死を知ったのは、上記の出陣の翌日=5月17日の事だったとか・・・
この少し前に、久秀が「信長包囲網の一員として頑張るんで、是非とも信玄さんのご協力を…」てな内容の手紙を出していたところ、この日に武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)からの返書が届き、そこに信玄の死の事が書いてあったのだとか・・・(4月16日参照>>)(←3年間隠すんやなかったんか~い☆\(^^;))
とは言え、例え巨頭が死んだとて、久秀にはまだ希望はあります。
なんたって、将軍が挙兵してるんだし、浅井&朝倉もいるんだし・・・
ところが、この年の7月に槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻められた義昭は、息子を人質に出して信長に降伏(7月18日参照>>)・・・続く8月に越前(えちぜん=福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)と北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)(8月23日参照>>)も信長に攻められ、ともに自害して果てました。
さらに11月16日には、以前、久秀とともに信長に降ったものの、やはり義昭絡みで反発した三好義継が、信長に若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)を攻められ自刃し、同じ11月には残る本願寺も、どうやら信長との休戦の協定が結ばれた様子・・・この11月には、本願寺の第11代法主=顕如(けんにょ)から贈られた白天目茶碗(はくてんもくちゃわん)で信長が茶会を開いた事が記録され、『本願寺文書』にも、顕如のもとに信長からの礼状が届いた事が記録されています。
もちろん、この間も順慶率いる筒井を主力とした織田軍の多聞城攻撃は続けられていたわけで、その連日に渡って響き渡る銃声は、あの東大寺まで聞こえて来ていたとか・・・
もはや完全なる孤立無援となってしまった久秀・・・やむなく天正元年(1573年)12月26日、突如として織田軍の将=佐久間信盛(さくまのぶもり)に多聞山城を明け渡したのです。
多聞山城のい戦い・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
その後の多聞山城は明智光秀(あけちみつひで)が城番として入り、その後も柴田勝家(しばたかついえ)→細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)、さらに塙直政(ばんなおまさ=原田直政)が大和守護に任じられて城に入り、大和や河内一帯を治めていましたが、この直政が本願寺との合戦で死亡したため、天正四年(1576年)5月に、今回の多聞山城戦キッカケで信長の傘下となった筒井順慶が、大和一国を賜ると同時に多聞山城に入城しますが、そのわずか2ヶ月後に多聞山城は破却されました。
とは言え、ご存じのように、この天正元年の多聞山城落城の時には、信長は久秀父子を許しています。
翌・天正二年(1574年)1月早々、赦免のお礼のために岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を訪れ、信長に謁見した久秀は、名刀=不動国行(ふどうくにゆき)を献上したという・・・
※ちなみに、この天正二年(1574年)の3月には、奈良を掌握した事を内外に知らしめるかのように、信長は東大寺正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)を削り取りに来てます(3月28日参照>>)
以前も書かせていただきましたが(2009年12月26日参照>>)、やはり久秀は、信長にとって、魅力的なチョイワルオヤジ(←古いww)だったのかも知れません。
ただ・・・それこそ、皆様ご存じのように、このチョイワルオヤジは、この5年後に、またまた信長に反旗をひるがえします。。。と、そのお話は信貴山城の戦いでどうぞ>>
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コメント
いつもながら(?)詳しいですね…
色々な見方があると思いますが、個人的には三好家を陰から支えながらも、独立せざるを得なくなっていく松永久秀の姿が織田信秀の姿に見えたのではないかと。
もっとも、松永久秀からすると、三好義継の一件と、筒井順慶へ多聞山城が明け渡され、これ幸いと破却されているのに、信長が関知しなかったのに相当イラついていた気がします。
武田勝頼から劣勢を伝えられても出陣しているということは、元々かなりカチンと来ていたのではないかと。
松永久秀がちょい悪おやじというんですかね…
信長の「みんなに忍耐」を要求する人事というか配属が原因ではないかと個人的には思っています
投稿: ほよよんほよよん | 2017年12月27日 (水) 17時28分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
多聞山城の破却は信長が行った城割>>の一環でもあるのでどうなんでしょうね~
「仕方ない」と思ってたか?
でも、やっぱ、親子ほど年下の信長に対して、個人的にイラついていたのか?
心の奥底までは読めないですね~
すみませんm(_ _)m
私は、信長が忍耐を要求する人事や配属をしたとは思っていないので、そこのところはわかりません。
投稿: 茶々 | 2017年12月28日 (木) 00時43分