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2017年12月31日 (日)

日本史の新発見&発掘…2017年総まとめ

 

いよいよ、2017年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 坂本龍馬(さかもとりょうま)が京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(なかねせっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった高知県が発表…封紙には「坂本先生遭難(暗殺)直前ノ書状ニテ他見ヲ憚(はばか)ルモノ也」朱書きの付箋が貼られていて“トップシークレット”の扱いになっていた事がうかがえ、この付箋を、いつ誰が書いたのかが気になるところです。
3月 方墳の(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村小山田遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかった県立橿原考古学研究所が発表しました…出土した瓦片などから640年頃の築造とみられ飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定。当時の最高権力者である舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(そがのえみし)(参照>>)の墓ではないか?とみられています。
4月 米子城跡(米子市久米町)がある湊山で見つかった石垣が、豊臣秀吉(とよとみひでよし)朝鮮出兵=文禄・慶長の役(参照>>)に参加した武将らに広まった、全国5例目、中国地方では初の「登り石垣」である事が分かりました…出兵にも参加し、米子城の大部分を築城した吉川広家(きっかわひろいえ)(参照>>)が取り入れたと見られています。
5月 群馬県と長野県の境=碓氷峠(安中市松井田町峠)で、戦国時代末期のものとみられる城跡が見つかりました…天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐(参照>>)の際に、前田利家(まえだとしいえ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)真田昌幸(さなだまさゆき)らによる連合軍=北国勢(参照>>)が、北条(ほうじょう)側の支城へと侵攻する足がかりのための陣地(陣城)として急造した可能性が高いと見られます。
6月 戦国時代のキリシタン大名=高山右近(たかやまうこん)(参照>>)が城主だった高槻城(たかつきじょう=高槻市城内町)の二の丸跡内堀から、右近が城主だった時代に拡張したとみられる堅牢なつくりの大堀や、これまで記録になかった木橋橋脚などが見つかりました…今後、城の築造過程や実態などを知る上で貴重な資料となりそうです。
坂本龍馬が兄=権平(ごんぺい)家族に宛てた手紙を新たに6枚発見…龍馬が慶応二年(1867年)12月4日に記した手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたましたが、この6枚は初めて原本が確認されたそうです。
7月 兵庫県豊岡市出石町の旧家に、豊臣秀吉が側室の茶々(ちゃちゃ=淀殿)(参照>>)に宛てた手紙が残されていた事が判明…病気だった茶々を気遣う愛情溢れる内容の手紙で、数多く残る秀吉の手紙の中でも、茶々宛ては、これまで3通しか発見されていないとの事。
9月 奈良=興福寺の国宝=阿修羅像(あしゅらぞう)の3面ある顔のうち、下唇をかむ右側の顔が原型の段階では口を開き、やや穏やかな表情だったことが分かりました…九州国立博物館のCT撮影で判明した物で、完成前に修正されたとみられます。
兵庫県姫路市埋蔵文化財センターが姫路城の西の玄関口だった「備前門」の石垣跡が、同市魚町の地中で見つかったと発表しました…石垣の構造から江戸初期に造られた可能性が高いそうです。
江戸時代に日本各地で見られた巨大なオーロラは史上最大の磁気嵐が原因だったと、国立極地研究所の研究グループが米学術誌に発表しました…オーロラを詳しく記した日記が新たに京都で見つかった事から正確に分析&コンピュータで再現できたのだとか
本能寺の変(参照>>)織田信長(おだのぶなが)を討った明智光秀(あけちみつひで)が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかりました…変の直後の12日付けで、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)(参照>>)で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはししげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と光秀が通じているとの内容。本能寺の変に関する書状で光秀の直筆は、かなり珍しいそうです。
10月 兵庫県立歴史博物館(姫路市)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)家臣に宛てた自筆文書が見つかったと発表しました…「俸禄(ほうろく=給与)」をさらに下の家臣に与えるよう指示する内容で、時期は姫路城主だった頃の物とみられ「秀吉が下級家臣の少額の給与まで自筆で指示していたことがうかがえ、秀吉と家臣団との関係を考える上で興味深い」物との事。
11月 幕末の「禁門の変」で戦死した来嶋又兵衛(きじままたべえ)(参照>>)の、人柄などを表す資料山口県美祢市(みねし)で発見されました…見つかった資料は来嶋の日記や手紙など約50点で、資料からは来嶋が長州藩の財政や、江戸屋敷の運営などで力を発揮していたことや、家族思いだったことがうかがえるそうです。
北東北最大の戦国大名・三戸南部氏の居城跡「三戸城跡(城山公園)の発掘調査で、16世紀後半~17世紀初め頃の本丸に通じる正門「大御門(おおごもん)」の柱を建てた礎石7個が発見されました年代を示す建物跡の発見は初めてで、三戸南部氏関連の城館跡では、江戸時代の本城・盛岡城を除いて最大の大きさの門という事になり、来年度以降の調査で、大御門の築造年代をさらに絞り込んでいくとの事。
12月 奈良時代に造営された恭仁京(参照>>)の中心の恭仁宮跡(木津川市加茂町)の発掘調査で、高官が執務や儀式をした「朝堂院」の北端とみられる柱穴を発見…隣接する「大極殿院」の区画が柱穴の位置から推定され、「続日本紀(しょくにほんぎ)に聖武天皇の時代に平城宮(参照>>)の大極殿を移築して恭仁宮の大極殿が建てられたとの記録がある事から、建材だけでなく、形態も譲り受けたのではないかと考えられ、恭仁京も平城宮と同形態の可能性が高くなったとの事。
関ケ原の合戦の前哨戦「伏見城の戦い」(参照>>)で焼けたとみられる城の石垣が、京都市伏見区桃山町の集合住宅の建設に伴う調査で見つかりました…石垣はひび割れて赤く変色しており、かなりの高温で焼かれて崩れ落ちたとみられ、激しい攻防があった事が想像されます。

こうして見てみると、この1年、様々な発見があった事がわかりますが、個人的には、やはり本能寺の時の明智光秀の書状ですかね~

来年、年明けしょっぱなのブログ更新で、今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』についても感想など書かせていただくつもりでおりますので、ドラマの中の本能寺の変については、ソチラでお話しますが(感想は1月5日参照>>)、今回のドラマでの本能寺の描き方はなかなか斬新ではありました。

ドラマで描かれた「信長による家康暗殺説」(参照>>)をはじめ、一昨年(2015年参照>>)に発見された四国説(参照>>)を後押しする『石谷家文書』などなど・・・やはり、この本能寺の変は謎が謎よびますね~

で、
今回の光秀の書状には、「将軍=義昭の入洛については…」という内容がある事から、「光秀には反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想があったのではないか?」との見方がされています。

確かに、この手紙を書いた時点で、そのような構想を持っていた事は確かでしょうが、難しいのは、この書状の日付が、本能寺の10日後の12日だという事・・・

光秀が、事を起こす前=最初から、このような構想を持っていたのなら、まさに「室町幕府再興のために本能寺の変を起こした」事になるのでしょうが、ひょっとしたら、やっちゃった後で、思うように畿内が掌握できない事やら、意外に支持してくれる武将が少ない事やら、のアテ外れがあり、急きょ、皆が仰ぐような看板として義昭を引っ張り出し、自らの謀反を正当化しようとした可能性も無くはないわけで・・・

かと言って、「信長暗殺」なんで重要事項は秘密裏に準備を進めねばならず、事を起こす前に手紙を書いたり、ペラペラ周囲にしゃべっちゃったりなんて事はしてはならない・・・てのも一理。

たとえば・・・
「信長による家康暗殺説」を主張される方で、よく、『本城惣右衛門覚書』にある
「…我等ハ 其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ  いゑやすさまとばかり存候…」
「↑(中国方面に行くと思っていた明智軍が京都に向かったので)我々は家康を討ちに行くのだと思った」
という一文を挙げて、「皆が、家康を暗殺するんだと思っていた」=「信長による家康暗殺説はアリ」とおっしゃる方がいらっしゃいますが、これを書いた本城惣右衛門(ほんじよそうえもん)なる人は、野武士程度の雑兵だった人で、失礼ながら、この時点では、なかなかの下っ端・・・もし、そんな下っ端の面々までもが「光秀が信長の命で家康を暗殺しようとしている」事を知っていたなら、逆に、秘密ダダ漏れで、戦略としては終わってますから、
むしろ、この記述に関しては、その逆=「家康暗殺はなかった」を意味しているような気がしないでもない。

つまり、今回発見の「変の後には義昭帰京云々」は、トップシークレットだったからこそ、書状などという後に残る物には、事を起こした後でないと書けなかった可能性もあるわけで・・・

いやはや(*´v゚*)ゞ
書状が出て来たから、謎の解明に近づくと思いきや、よけいにドロ沼にはまらされるとは!!

ま、そこが楽しいんですけどね。。。

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2017年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2018年は平成最後の年・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

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2017年12月26日 (火)

松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い

 

天正元年(1573年)12月26日、筒井順慶を主力とする織田信長軍に攻められた松永久秀父子が多聞山城を開け渡しました。

・・・・・・・・

畿内を制する三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として活躍していた松永久秀(まつながひさひで)・・・主君の命を受けて永禄二年(1559年)頃から大和(やまと=奈良県)への侵攻を開始(11月24日参照>>)、間もなく信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城。

その後、長慶の死によって衰退し始めた三好家を盛りたてる中心人物の一人となった久秀は、永禄八年(1565年)には三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、大和国衆の二大巨頭である筒井(つつい)筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻め(11月18日参照>>)や、越智(おち)貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)攻防戦(9月25日参照>>)など繰り返していましたが、やがて永禄十一年(1568年)9月、亡き義輝の弟で室町幕府第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて織田信長(おだのぶなが)が上洛(9月7日参照>>)すると、敵対する筒井氏の筒井順慶(つついじゅんけい)よりも先に、三好家の後継者である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)とともに、いち早く信長に降伏して傘下となり、その後ろ盾を以って、更なる奈良の支配を進めていました。

Matunagahisahide600a しかし、その信長と久秀の関係は、まもなく崩れます。

久秀の心が、どのあたりから反信長に移ったのかは定かではありませんが、信長上洛から2年後の元亀元年(1570年)には、すでに、信長と将軍義昭との間にギクシャク感が出始め(1月27日参照>>)、その年の6月には、信長VS浅井(あざい)&朝倉(あさくら)との姉川の戦い(6月28日参照>>)があり、9月には野田福島戦で、本願寺のおおもと=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が参戦し(9月12日参照>>)、その流れから、翌年には比叡山(ひえいざん)(9月12日参照>>)や本願寺門徒による長島一向一揆(5月16日参照>>)も反信長に参戦・・・さらに翌年の元亀三年(1572年)には、上洛の気配を見せる武田信玄(たけだしんげん)三方ヶ原(12月22日参照>>)で、信長の同盟者である徳川家康(とくがわいえやす)と激突し、その翌日には犀ヶ崖(さいががけ)で討死にした平手汎秀(ひらてひろひで=信長の傅役・平手政秀の三男?)の首が、これ見よがしに信長のもとに送られて来る(12月23日参照>>)・・・いわゆる、義昭の呼びかけによる信長包囲網的な物に信玄が参戦して来たわけで・・・

この信玄という大物の包囲網参戦には、久秀の心も、大いに揺れた事でしょう。

さらに、翌・天正元年(1573年:7月に元亀より改元)1月には、信玄は野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)へと駒を進め(1月11日参照>>)、翌2月には、義昭自身が決起(2月20日参照>>)します。

信長包囲網ここに極まれり!!
嫡男の松永久通(ひさみち)を信貴山城に入れ、自らは多聞山城にあった久秀が、明確な反信長の狼煙を挙げたのは、この年の5月の事でした。

久秀の反旗を知った信長は、これまで度々久秀と敵対していた筒井順慶に、「多聞城を潰したれ!」と合力の援軍を出して攻めさせたのです。

『二条宴乗日記』によれば・・・
5月16日に順慶が奈良の三条に進出・・・これを受けて多聞山城の松永勢も出陣したと・・・

しかし、皆様ご存じのように、実は、この時点で、あの大物=武田信玄は、すでに亡くなっています。

あまりにドラマっぽくで「ホンマかいな?」と思ってしまいますが、『武田文書』などの記述によれば、久秀がこの信玄の死を知ったのは、上記の出陣の翌日=5月17日の事だったとか・・・

この少し前に、久秀が「信長包囲網の一員として頑張るんで、是非とも信玄さんのご協力を…」てな内容の手紙を出していたところ、この日に武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)からの返書が届き、そこに信玄の死の事が書いてあったのだとか・・・(4月16日参照>>)(←3年間隠すんやなかったんか~い☆\(^^;))

とは言え、例え巨頭が死んだとて、久秀にはまだ希望はあります。
なんたって、将軍が挙兵してるんだし、浅井&朝倉もいるんだし・・・

ところが、この年の7月に槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻められた義昭は、息子を人質に出して信長に降伏(7月18日参照>>)・・・続く8月に越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月23日参照>>)信長に攻められ、ともに自害して果てました。

さらに11月16日には、以前、久秀とともに信長に降ったものの、やはり義昭絡みで反発した三好義継が、信長に若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)攻められ自刃し、同じ11月には残る本願寺も、どうやら信長との休戦の協定が結ばれた様子・・・この11月には、本願寺の第11代法主=顕如(けんにょ)から贈られた白天目茶碗(はくてんもくちゃわん)で信長が茶会を開いた事が記録され、『本願寺文書』にも、顕如のもとに信長からの礼状が届いた事が記録されています。

もちろん、この間も順慶率いる筒井を主力とした織田軍の多聞城攻撃は続けられていたわけで、その連日に渡って響き渡る銃声は、あの東大寺まで聞こえて来ていたとか・・・

もはや完全なる孤立無援となってしまった久秀・・・やむなく天正元年(1573年)12月26日、突如として織田軍の将=佐久間信盛(さくまのぶもり)多聞山城を明け渡したのです。

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多聞山城のい戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後の多聞山城は明智光秀(あけちみつひで)が城番として入り、その後も柴田勝家(しばたかついえ)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)、さらに塙直政(ばんなおまさ=原田直政)大和守護に任じられて城に入り、大和や河内一帯を治めていましたが、この直政が本願寺との合戦で死亡したため、天正四年(1576年)5月に、今回の多聞山城戦キッカケで信長の傘下となった筒井順慶が、大和一国を賜ると同時に多聞山城に入城しますが、そのわずか2ヶ月後に多聞山城は破却されました。

とは言え、ご存じのように、この天正元年の多聞山城落城の時には、信長は久秀父子を許しています。

翌・天正二年(1574年)1月早々、赦免のお礼のために岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を訪れ、信長に謁見した久秀は、名刀=不動国行(ふどうくにゆき)を献上したという・・・
※ちなみに、この天正二年(1574年)の3月には、奈良を掌握した事を内外に知らしめるかのように、信長は東大寺正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)削り取りに来てます(3月28日参照>>)

以前も書かせていただきましたが(2009年12月26日参照>>)、やはり久秀は、信長にとって、魅力的なチョイワルオヤジ(←古いww)だったのかも知れません。

ただ・・・それこそ、皆様ご存じのように、このチョイワルオヤジは、この5年後に、またまた信長に反旗をひるがえします。。。と、そのお話は信貴山城の戦いでどうぞ>>
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2017年12月18日 (月)

赤沢朝経率いる京軍の大和侵攻~奈良の戦国

 

明応八年(1499年)12月18日、赤沢朝経率いる京軍が大和衆の籠る秋篠城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

日本が真っ二つに分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・約10年に渡るこの大乱は文明九年(1477年)11月に終わりを告げました(11月11日参照>>)が、もともと、将軍家や管領家などの複数の後継者争いが発端だった事や、そのそれぞれを支持する地方の武将が、それぞれ東西に分かれて戦った事、結果的にどっちが勝ったというハッキリした物も無かった事などがあって、京都を中心とした応仁の乱自体が終結しても、それぞれの地方の武将たちや、その配下の者の地元では、未だ小競り合いが続いていたわけで・・・

そんな地元のうちの一つが大和国(やまとのくに=奈良県)でした。

ここは、かの応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)をおっぱじめた畠山義就(よしなり・よしひろ)畠山政長(はたけやままさなが)らの河内畠山氏ドロ沼家督争い(7月17日参照>>)の影響をドップリ受けてる場所だったのです。

この河内畠山氏は、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)山城(やましろ=京都府南部)越中(えっちゅう=富山県)の守護を務め、足利将軍家の一門でもあり、室町幕府の三管領家(さんかんれいけ=幕府管領職(将軍の補佐役)をこなす三家:細川&斯波&畠山)の一つというスゴイ家柄・・・この時期、未だコレという突出する武将がいなかった大和地域では、それぞれの畠山家を支持する諸将が、応仁の乱さながらに東西に分かれて入り乱れ、反目を繰り返していたのです。
(大和衆の関わった応仁の乱の前哨戦=高田城の戦いは10月16日を参照>>)

しかし明応八年(1499年)10月、
大和の武士たちは「これではイカン!」と気がついた・・・

同じ大和の者同士で争い合うバカバカしさを悟った彼らは、それぞれの派閥トップである筒井(つつい)越智(おち)の間で10月27日に和議が結ばれた事をキッカケに、河内の争いを大和に持ち込まない事を約束し、今後は、大和を平和に導く事を誓い合ったのです。

残念ながら、古市(ふるいち)だけは、その合意に加わりませんでしたが・・・ま、この古市澄胤(ふるいちちょういん)は、去る明応二年(1493年)に山城の国一揆を鎮圧した(9月17日参照>>)事で大出世を遂げたうえ、時の管領=細川政元(ほそかわまさもと=応仁の乱東軍大将の細川勝元の息子)にも通じていたので、大和の国人衆の中でも一歩抜け出た雰囲気・・・なので「俺はお前らみたいなんとはツルまへんで~」てな感じだったのかも知れません。

ところが、ついこの間まで、政元が廃した前将軍=足利義稙(あしかがよしたね=義材・義尹)とツルんで政元に反発していた(9月27日参照>>)「筒井が、越智と和議なんてもってのほか!」「まだまだ河内の争乱に大和衆の勢力が必要だ」と思っていた政元が、今回の大和衆の合意に激おこ・・・大和の分裂を図るべく、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)を大和へ差し向けたのです。

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京軍の大和侵攻・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、朝経率いる数千の京軍が大和に隣接する南山城(みなみやましろ=京都府相楽郡付近)に押し寄せたのは12月12日・・・16日には、早くも、歌姫越えで大和に入り、秋篠村(あきしのむら=奈良県奈良市秋篠町)へ侵攻します。

迎える秋篠氏は、本拠の秋篠城(秋篠平城)に籠って徹底抗戦の構えを見せます。

この秋篠氏は、古代の渡来系埴輪作り集団=土師(はじ)の末裔とされる人物が、平安時代の初期に移り住んだ地名にちなんで秋篠安人(あきしののやすひと)と名乗ったのが始まりと言われますが、いずれかの頃からは、興福寺一乗院方の衆徒となっており、同じく興福寺に属していた筒井氏とは旧知の仲・・・ここ秋篠城には、筒井氏をはじめとする面々が籠っていたのです。

激しい戦闘が起こったのは、明応八年(1499年)12月18日でした。

大和衆の中で京側についた古市の軍を先頭に、大軍で押し寄せた京軍に対し、大和側は筒井に秋篠に宝来(ほうらい)超昇寺(ちょうしょうじ)といった弱小連合軍であったため、未だ全軍の統率がとれておらず・・・

逆に、一方の京軍は、その後ろ盾による武器の準備も万全なうえ兵糧の補給路などもすでに確保澄み・・・それゆえの士気の高さは最高潮です。

それでも、午前10時頃から始まった合戦では、大和勢も奮起して戦い、迎撃の軍勢を2度3度と繰り出して精一杯戦いますが、約6時間の戦闘の末、午後4時頃には、さすがの大和勢も疲弊し、まもなく、秋篠城は陥落しました。

敗れた者たちは散り々々に逃げ去り、勢いづいた京軍は、近くの法華寺(ほっけじ=奈良県奈良市法華寺町)喜光寺(きこうじ=奈良県奈良市菅原町:菅原寺)などの堂塔や僧坊に乱入し、破壊と略奪の限りを尽くし、しばらくの間奈良で大暴れしたのだとか・・・

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東大寺大仏殿のモデルとされる喜光寺本堂
(喜光寺への行き方は本家HP:奈良歴史散歩「西の京」のページでどうぞ>>)

その後、文亀元年(1501年)に、朝経は、古市と越智そして河内の遊佐(ゆさ)を、改めて大和の代官に任命して、一応の落ち着きを見せるのですが、やはり、「大和は大和武士の手で治めるべき」という考えが消える事は無く、永正二年(1505年)に再び、大和の国衆の間で盟約が成立したりしますが、翌年の3月には、またもや朝経率いる京軍が侵攻・・・

と、とにもかくにも、この間、春日大社(かすがたいしゃ)の御神木を持ち出して抗議したり、京軍の守りが手薄になる頃合いを見計らっては、手を変え品を変え場所を変え、メンバーも入れ替わったりしつつ、ゲリラ的活動を続けて行く大和の国衆たちと、それを鎮圧すべくやって来る京軍の戦いが続く事に・・・(9月21日参照>>)

しかし・・・
やがて、この堂々巡りな戦いが終わる時がやって来ます。

それは永正四年(1507年)・・・細川政元&赤沢朝経率いる京軍が、若狭(わかさ=福井県西部)丹後(京都府北部)の守護を務める若狭武田氏の第5代当主=武田元信(たけだもとのぶ)のピンチを聞きつけ、武田と対立する一色義有(いっしきよしあり)を攻めていた時、天皇からの帰京命令に、慌てて京都へと戻った政元が、自らの養子同士の後継者争いに巻き込まれて6月23日に暗殺(6月23日参照>>)・・・

その3日後の6月26日には、攻撃のさ中に、政元の死を知って京に戻ろうとした赤沢朝経も、不穏分子である丹後の国衆が起こした一揆によって命を落としてしまったのです。

こうして、大和侵攻のおおもとであった細川政元と、当事者であった赤沢朝経が、相次いで亡くなった事で、京軍からの脅威が無くなった大和の地・・・

これで、やっとこさ、大和の諸将は、自らの本拠地に戻って、領国の治世に力を注ぐ事ができる日々がやって来る・・・

と、思いきや、ほどなく、ライバルの細川澄之(すみゆき=政元の養子)を倒して(8月1日参照>>)、細川政元の後継者の座を獲得した細川澄元(すみもと=政元の養子)が、赤沢朝経の養子=赤沢長経(ながつね)を派遣して、またもや大和の地を支配しようとするのですが、

そのお話は、赤沢軍が大和一帯の焼き討ちを決行した11月15日の【大和国衆と赤沢長経の戦い】>>とのページでどうぞm(_ _)m
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2017年12月13日 (水)

戦国の幕開け~将軍・足利義材による六角征討

 

明応元年(1492年)12月13日、足利義材による六角高頼の征討が終わり、義材が帰京の途につきました。

・・・・・・

そもそもは・・・
さっさと将軍を辞めて趣味の世界に生きたい第8代室町幕府将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、仏門に入っていた弟=足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)を呼び戻して次期将軍に指名したものの、その途端に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男の子=足利義尚(よしひさ)が生まれちゃって・・・そうなると、当然わが子を将軍にしたい富子と、指名されちゃってヤル気満々の義視が対立。

そこに、畠山(はたけやま)やら斯波(しば)家やらの管領家の後継者争いが絡んだ事で日本全国の武将を東西に分ける大乱となってしまったのが、あの応仁の乱・・・(5月20日参照>>)

最初こそ激しいものの(5月28日参照>>)、途中からは、なかなかのグダグダ感を醸し出しつつ(11月13日参照>>)、結局、西軍大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(3月18日参照>>)&東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の両巨頭の死を以って、文明九年(1477年)、約10年に渡る大乱は幕を閉じました(11月11日参照>>)

その後、そもそもの渦中の人である義政は、文明十四年(1482年)に将軍職を息子の義尚に譲る事を表明・・・この間に、もう一方の渦中の人である義視は美濃(みの=岐阜県)へと亡命して行きました。

そんなこんなで父の後を受け継いだ若き第9代将軍=義尚・・・彼に課せられた使命は、まずは世紀の大乱で失墜していく室町幕府将軍の権威を、少しでも回復させる事

それには、応仁の乱のゴタゴタに乗じて、武力で以って好き勝手やり始めた者を、足利将軍家の威力で以って抑えなければ・・・実は、この混乱に乗じて近江(滋賀県)南部の戦国大名=六角高頼(ろっかくたかより)が、武力で以って近江内の公家領や寺社領を占拠し続けるという暴挙に出ていたのです。

公家や寺社からの依頼を受けた義尚は、長享元年(1487年)、有力武将を従えた約2万の軍勢で以って六角氏の本拠=を攻撃して高頼を敗走させますが、高頼は、配下の甲賀武士の所に逃げ込み、彼らとともにゲリラ戦を展開・・・(12月2日参照>>)

そして、1年半にも渡るこのゲリラ戦のさ中、義尚は近江(まがり・滋賀県栗東)陣中にて、25歳の若さで病死してしまうのです(3月27日参照>>)

その死を受けて、第10代将軍となったのが、父=義視とともに美濃にいたその息子=足利義材(よしき=後の義稙)・・・息子を失った義政&富子の推薦での将軍就任という事もあり、当然、義尚の遺志をついで、彼もまた、六角氏と戦う事になります。

延徳三年(1491年)、高頼の追討命令を諸国の武将に発し、時の天皇=第103代後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)からの征討綸旨(りんじ=天皇家の命令書)も賜った義材は、8月27日、軍を率いて京を出立し、まずは三井寺(みいでら=滋賀県大津市・園城寺)に陣取ります。

これを知った高頼は、舞い戻っていた自身の本城=観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)をアッサリ捨てて、またもや甲賀の山中へ、その身を隠します。

この間、将軍自らの出陣にビビッって義材側に降る者、あるいは、個々の攻撃にて砦を落とされる者など、様々な小競り合いが勃発しつつも、甲賀山中に拠る高頼は、配下の者と連絡を取りつつゲリラ戦を展開していくのですが・・・

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足利義材の六角征討関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中、年が明けた明応元年(1492年=実際には7月19日に延徳四年より改元)5月、飯道寺(はんどうじ=滋賀県甲賀市)に拠った高頼は、諸所の防備をさらに固める一方で、密かに、絶賛お家騒動中(8月7日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極高清(きょうごくたかきよ)に援軍を求めて、幕府軍の混乱を図ろうとします。

この要請を受けて、市原谷から八風峠(はっぷうとうげ=三重県三重郡~滋賀県東近江市)まで出張って来る京極軍・・・この状況に義材は、自軍を2手に分け、一つは甲賀の高頼に備えつつ、主力部隊を市原谷に向けて進撃させました。

義材より、この合戦の大将を任された赤松政則(あかまつまさのり)は、9月15日に野洲川(やすがわ)沿いの立入(たていり=滋賀県守山市)から、浦上則宗(うらがみのりむね)桐原(きりはら=滋賀県近江八幡市)から、蒲生野(こもうの=滋賀県東近江市)を越え、17日には芝原(しばはら)に到着し、ここでぶつかった京極勢を蹴散らし甲津畑(こうづはた=同東近江市)まで進出します。

さらに幕府軍の一手は八風峠付近に火を放ち、近くの永源寺(えいげんじ=滋賀県東近江市)を焼き払います。

この勢いに耐えきれなくなった京極軍は退却・・・赤松政則は土岐成頼(ときしげより)に京極の追撃を命じ、自らの本隊は陣所へと帰還しました。

この京極軍の退却によって敗戦の色濃くなった高頼は、甲賀山中にて甲賀武士に守られながらも、より安全な場所を求めて、鈴鹿(すずか)を越えて伊勢(いせ=三重県北中部)へと逃走・・・これに前後して将軍=義材は、朽木貞綱(くつきさだつな=佐々木貞綱)の息子で六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子となっていた虎千代高頼に代わる新しい近江守護として任命して統治に当たらせる事に・・・

これで、「近江には新守護を配置して高頼が去った」という事で、明応元年(1492年)12月13日、義材は金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市)に置いていた自らの本陣を払い、帰京の途についたのでした。

しかし、この状況・・・お気づきの通り、ただ、事が沈静化しただけで、六角高頼自身を征伐したわけではありません。

つまり、これは・・・
「義尚&義材=二人の将軍が自ら軍を率いたにも関わらず、近江の一大名さえ討ち滅ぼす事ができなかった」
という結果なわけで、ここで義材が陣を払った事は、むしろ足利将軍家の力不足をまざまざと見せてしまった事になるわけで・・・

応仁の乱を経ても、まだ何とか保っていた室町幕府将軍の権威が、ここから、見事に崩れていく事になります。

なんせ、義材の帰京を知った六角軍の諸将は、結局その後、もといたそれぞれの領地へと復帰してしまうのですから・・・

結果的に、今回の将軍=義材による六角征討は、戦国の幕開けとなった出来事と言えるかも知れません。

ちなみに、関東での戦国の幕開けと言える北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)による「伊豆討ち入り」は、この前後年=延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)の事とされます(10月11日参照>>)

近畿も関東も・・・そろって、戦国時代に突入!!ですな。
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2017年12月 7日 (木)

家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期

 

明応五年(1496年)12月7日、近江の六角高頼を攻めた斎藤妙純父子が、土一揆に襲われて死亡しました。

・・・・・・・・

斎藤妙純(さいとうみょうじゅん=利国)は、美濃(みの=岐阜県)守護代だった斎藤利永(としなが)の次男で、叔父である斎藤妙椿(みょうちん)の養子となって、妙椿の家系である持是院家(じぜいんけ)を継いでいます。

応仁の乱の際には、西軍として、養父=妙椿とともに伊勢周辺に出兵し、この乱のドサクサで多くの領地の切り取りに成功・・・この頃には、すでに美濃守護である土岐成頼(ときしげより)の上を行く勢力を持っていたと言われています。

しかし、応仁の乱後に妙椿が死去すると、残された領地を巡って、異母兄の斎藤利藤(としふじ=利永の長男)と妙純との間に争いが勃発します。

まぁ、長男の利藤にしてみれば、父の死後に守護代を継いだのは自分なのに、実際には叔父の妙椿に実権を握られて抑えつけられたあげく、妙椿が死んだと思いきや、今度は実弟が仕切るんかい!てな感じでしょうか?

結局、合戦にまで発展した兄弟ゲンカは、妙純が勝利し、負けた利藤は六角氏を頼って亡命・・・後に和睦して美濃守護代に帰り咲きますが、もはや、実権を握るのは妙純だったわけで・・・

そんなこんなの明応四年(1495年)、今度は、美濃守護の土岐成頼の後継者を巡っての争いが勃発します。

成頼が、「自らの後継者を嫡男の政房(まさふさ)より、末息子の元頼(もとより)に継がせたい」と言いだしたのです。

成頼の意向を知った兄=利藤は「ここが挽回のチャンス!」とばかりに、政房を奉じる弟=妙純に対抗して元頼を奉じ、妙椿の家臣だった石丸利光(いしまるとしみつ)を味方に引き入れて、妙純排除を画策します。

これが妙純VS石丸利光の船田合戦(ふなだがっせん)(6月19日参照>>)・・・

これが、利光と姻戚関係にあった織田敏定(おだとしさだ=信長の曽祖父?)や利藤を保護した六角高頼(ろっかくたかより=承禎の祖父)、かたや妙椿の娘婿であった朝倉貞景(あさくらさだかげ=義景の祖父)京極高清(きょうごくたかきよ=高次の祖父)などを巻き込んでの大きな合戦となったのです(5月29日参照>>)

明応四年(1495年)3月から翌明応五年(1496年)6月まで続いた船田合戦ではありましたが、最後の最後に城田寺城(きだじじょう=岐阜県岐阜市城田寺)に追い詰められた利光が、自らの切腹と引き換えに、ともに城に籠っていた主君=成頼と利藤の息子の助命を願い出て、元頼とともに自殺・・・こうして、1年3ヶ月に渡る合戦が終結しました。

しかし、おおもとの合戦が終結しても、そのまま納まらなかったのが、それぞれの援助者たちのギクシャク感・・・

妙純は、京極高清と連携して、石丸方に味方した六角高頼を討つべく、六角氏のお膝元である近江(おうみ=滋賀県)に出陣します。

この動きを察知した高頼は、自らの金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市金剛寺町)とともに諸所にある支城や砦の再構築を行いつつ、高島(たかしま=滋賀県高島市)朽木材秀(くつきえだひで=直親)蒲生貞秀(がもうさだひで=秀郷の高祖父)などに出陣を要請して合戦の準備を整えます。

かくして船田合戦終了から4ヶ月後の11月6日、数千の兵を率いて破竹の勢いで国境を越えた妙純は、周辺に火を放ちながら進軍し、またたく間に蒲生郡(がもうぐん=滋賀県蒲生郡)一帯が焦土と化します。

勇ましく防戦を展開する六角勢ではありましたが、斎藤勢の勢いはハンパなく・・・やがて高頼は金剛寺城に、蒲生貞秀は日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町・中野城とも)にと、ともに居城に追い詰められ、両者とも籠城戦に突入します。

まだまだ蒲生平野に火を放ちながら、やがて日野城を包囲した斎藤勢・・・しかし、これがなかなか強い!

囲まれ、攻められながらも奮闘する日野城兵は、攻める斎藤勢を1000人ほど討ち取り、その勢いで撃って出て、逆に追撃をかけるほどの奮闘ぶり・・・やむなく斎藤勢は、作戦変更して日野城を諦め、高頼の金剛寺城をターゲットとしますが、こちらもなかなか強く、容易に落とす事ができませんでした。

仕方なく、兵を退き始める斎藤軍・・・それを見た高頼は、城を出て追撃を開始して50余人を討ち取りますが、一方の六角方の被害も大きく、この日の戦いはここまで・・・

その後も、しばらくの小競り合いが続きましたが、やがて合戦開始から1ヶ月ほど経った明応五年(1496年)12月7日、こう着状態に終止符を打つべく、両者の間で講和の話が持ち上がり、船田合戦からの流れを汲んだ、この日野口(ひのぐち)の戦いは、ここに終結するのです。

こうして和睦を成立させ、陣を明け渡す事になった妙純・・・しかし、この一瞬を、諸所の六角と郷土民たちが襲います。

長期の侵攻や地元を焦土とされた事に不満を抱いた郷民たちの土一揆・・・妙純は、これらを何とか防ぎつつ、なんなら、一揆に加勢する日野勢への攻めに転じる様相を見せますが、なんせ、一揆はその人数がハンパ無い・・・

相手は一揆の烏合の衆とは言え、明らかに不利な動員人数・・・自らが囲まれた事を察した妙純は、息子の斎藤利親(としちか)とともに、ここで自害するのでした。

『大乗院寺社雑事記』では斎藤方74人が自害
『後法興院記』では千人以上の斎藤方が、この一揆の襲撃で戦死したと記録されています。

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観音寺城跡=観音正寺より南西方面を望む

この時、妙純と連携して観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)まで出張って来ていた京極高清は、妙純の死を知り、慌てて夜陰に紛れ、船で琵琶湖を渡って湖西へと出た後、本拠の江北(こうほく=北近江)へと戻ったと言います。

また、妙純の苦戦を聞いて援軍を出した朝倉貞景も、やはり江北のあたりで、妙純の死亡と高清の敗走を知り、本国の越前(えちぜん=福井県)へと戻っていきました。

猛将と言われた斎藤妙純のあっけない最期・・・

後に、妙純の孫に当たる斎藤利良(としなが)が病死した時、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(としまさ)と名乗ったのが、あの美濃のマムシこと斎藤道三(さいとうどうさん)です。(道三の経歴については諸説ありますが…)

ところで、余談ではありますが・・・
現在、重要文化財に指定され、徳川家康(とくがわいえやす)の遺言に従って久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう=静岡市駿河区)に安置されている「革柄蝋色鞘刀(かわづかろいろさやかたな)という名刀があります。

この刀は、天正十二年(1584年)頃に、家康が織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)から譲り受けた物で、家康が生涯で最も愛し、常に身につけ、その死の直前に振りまわした(4月17日参照>>)、あの刀だとされているのですが、この刀の指裏(腰に差した時に体側になる面)には「妙純傳持」「ソハヤノツルキ」、反対側の指表には「ウツスナリ」と刻まれているとか・・・

「ソハヤノツルキ」とは、平安の昔に征夷大将軍となって蝦夷(えぞ)を平定した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(7月2日参照>>)の愛刀で清水寺(きよみずでら=兵庫県加東市)が所蔵する騒速(そはや)の事で、「ウツスナリ」は、その刀の写しという事、

そして、「妙純傳持」は、それを斎藤妙純が持っていたという意味です。

そんな刀を、家康は、自らが最も警戒する西国=西に、「その切っ先を向けて安置せよ」と遺言したのです・・・もちろん、自分の死後も、徳川を永遠に守るために・・・

そこには、田村麻呂の武勇とともに、彼に勝るとも劣らない斎藤妙純という武将への敬意と憧れがあったと思えてなりません。
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2017年12月 1日 (金)

秀吉の中国攻め~黒田&竹中=二兵衛が迫る福原城の戦い

 

天正五年(1577年)12月1日、信長の命を受けた秀吉の中国攻めの福原城の戦いで、福原則尚の福原城が開城されました。

・・・・・・・・・・

元亀四年(天正元年=1573年)7月に、第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)槇島城(まきしまじょう)を攻撃し(7月18日参照>>)、続く8月に越前の朝倉と北近江の浅井を倒し(8月28日参照>>)、翌・天正二年(1574年)に長島一向一揆をせん滅し(9月29日参照>>)、さらにその翌年の天正三年(1575年)5月に、あの武田を長篠で撃ち破った(5月21日参照>>)織田信長(おだのぶなが)・・・

その年の11月に、これまで本拠としていた岐阜城美濃(岐阜県)尾張(愛知県西部)2国の家督を、嫡男の織田信忠(のぶただ)に譲り(11月28日参照>>)、翌・天正四年(1576年)の2月から安土城の築城に取りかかった(2月23日参照>>)信長は、この時点で、日本の中央部を抑えつつありましたが、そんな中で、信長とって気になる存在越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と、安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)でした。

どちらも、誰もが一目置く大大名ですので、これまでは、お互いを尊重し、表向きには争わない雰囲気を醸し出していましたが、ここに来て、北陸へと手を伸ばした謙信(3月17日参照>>)が、すでに元亀元年(1570年)から信長とは石山合戦を展開中(9月12日参照>>)の本願寺第11代・顕如(けんにょ)と和睦した事(5月18日参照>>)、また、畿内を追われた義昭が毛利を頼った事、などから、上杉&本願寺&毛利という三者の共通の敵が信長~という状況に・・・

この天正四年(1576年)の7月には、信長勢の警戒を破って毛利傘下の村上水軍が顕如の籠る石山本願寺に兵糧を運び込む事に成功する第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)もありつつ、刻々と迫りくる謙信の影も・・・(8月14日参照>>)

そんな中で、織田家内では、
北陸方面を柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)
山陰方面を明智光秀(あけちみつひで)(10月29日参照>>)
伊勢方面を織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)(11月25日参照>>)
などに担当させる中、
西国の雄=毛利と対峙する山陽方面を担当させたのが羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)でした。

Kurodazyosui500 この時、播磨(はりま=兵庫県南西部)御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)主の寺政職(こでらまさもと)の家臣=黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)など、いち早く味方についてくれる(11月29日参照>>)者もいましたが、一方で、毛利の色濃い備前(びぜん=岡山県南東部)との国境に近い西播磨の国衆たちは、やはり毛利への思いが強く、そう簡単に織田方の秀吉へなびこうとはしなかったのです。

そんな中の一人が上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)赤松政範(あかまつまさのり)でした。

Takenakahanbee600 天正五年(1577年)11月27日、能見川(のうみがわ=千種川支流)を渡った秀吉は、この上月城へと攻撃を仕掛けるのですが(11月29日参照>>)、それと同時に、周辺の支城を落とす多面的作戦を展開・・・自らの本隊は、上月城正面の仁位山(にいざん=兵庫県佐用町)へと向かう一方で、かの黒田官兵衛と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)ら2千余騎を福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)へ派遣したのです。

実は、この時、福原城にいた高倉山城(たかくらやまじょう=同佐用町)主=福原助就(ふくはら すけなり)は、福原城主の福原則尚(のりひさ)とは同族であり、未だ信長に従わぬ宇喜多(うきた)(10月30日参照>>)の家臣であると同時に、上月城の赤松政範の妹婿でもあった関係から、今回の秀吉の進軍に対しては、かなり強い抵抗を抱いていたわけです。

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福原城の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『播州佐用軍記』によれば、
翌・11月28日、千種川(ちくさがわ=兵庫県南西端部を流れる)上津の渡しから川を渡った竹中軍は、福原城内から撃って出た福原方の兵により、かなり多くの犠牲者を出しつつも、何とか福原軍を城内へと追い込みます。

その後、ただちに周辺の山麓に火を放って、あぶり出しの総攻撃にかかりますが、この作戦は失敗に・・・

ここで、本隊から加勢にやって来た蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)が猛攻撃を仕掛けますが、やはり福原城を落とす事はできず・・・

とは言え、上記の通り、すでに敵を城内へ追い込み、そこをネズミ一匹逃がさぬ状態で包囲は完了しているわけで・・・ならば、このまま、長期に渡る籠城戦=兵糧攻めに持ち込むべきか?

との案も浮上しますが、そんなこんなの天正五年(1577年)12月1日、搦(から)め手からの鉄砲一斉射撃を開始した蜂須賀勢勢に歩調を合わせるように、大手を攻める黒田軍&竹中軍も一斉射撃を開始・・・

これを受けた城内では大手と搦め手の応戦に手勢を分散せねばならないばかりか、これまでの連日に渡る射撃攻撃に応戦していたため、今回の二刻ほどの一斉射撃に応戦している間に、城内の弾薬が尽きてしまう事態に・・・

この状況に浮き足立つ城内・・・その様子を見て取った黒田官兵衛の采配のより、黒田軍が一気に城内へと突入し、福原城の開城を成功させたのです。

この時、孫子(そんし)の兵法『囲師(いし)には必ず闕(か)き』「囲む時は逃げ道を作っておく」(本家HP:孫子の兵法「軍争編」参照>>)を実践した官兵衛によって用意された一方向の逃げ道に敗走の兵士が殺到する中、同じく脱出を図った助就は、潜んでいた伏兵に追い詰められて自害したとも、秀吉方の平塚為広(ひらつかためひろ)なる武将に討ち取られたとも言われます。

また、別の説では、高倉山を守っていた赤松の兵が、秀吉本隊の猛威に恐れをなして戦線離脱してしまったために、助就が、その高倉山城を救援に向かうべく福原城を出たところで、竹中軍と遭遇・・・激戦となってしまい、高倉山に向かう事を断念した助就は、福原城内へと戻って自害したとも伝わります。

いずれにしても、この日の戦いによって福原城は開城となり、助就が命を落とした・・・という事は確かな事だと思われます。

この間、秀吉本隊の猛攻を受けていた上月城では、翌・12月2日に敵陣に夜襲をかけるも失敗・・・コチラは12月3日に陥落し、尼子氏(あまこし)の再興を願う山中鹿之介(やまなかしかのすけ・幸盛)(7月17日参照>>)に、この上月城の守りを任せた秀吉は、更なる三木城攻防戦へと向かう事になります。

この後の出来事の参照ページ
三木の干殺し~別所長治の籠城戦>>
信長に見捨てられた上月城>>
山中鹿之介奮戦!上月城の攻防>>
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