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2017年12月31日 (日)

日本史の新発見&発掘…2017年総まとめ

 

いよいよ、2017年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 坂本龍馬(さかもとりょうま)が京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(なかねせっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった高知県が発表…封紙には「坂本先生遭難(暗殺)直前ノ書状ニテ他見ヲ憚(はばか)ルモノ也」朱書きの付箋が貼られていて“トップシークレット”の扱いになっていた事がうかがえ、この付箋を、いつ誰が書いたのかが気になるところです。
3月 方墳の(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村小山田遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかった県立橿原考古学研究所が発表しました…出土した瓦片などから640年頃の築造とみられ飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定。当時の最高権力者である舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(そがのえみし)(参照>>)の墓ではないか?とみられています。
4月 米子城跡(米子市久米町)がある湊山で見つかった石垣が、豊臣秀吉(とよとみひでよし)朝鮮出兵=文禄・慶長の役(参照>>)に参加した武将らに広まった、全国5例目、中国地方では初の「登り石垣」である事が分かりました…出兵にも参加し、米子城の大部分を築城した吉川広家(きっかわひろいえ)(参照>>)が取り入れたと見られています。
5月 群馬県と長野県の境=碓氷峠(安中市松井田町峠)で、戦国時代末期のものとみられる城跡が見つかりました…天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐(参照>>)の際に、前田利家(まえだとしいえ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)真田昌幸(さなだまさゆき)らによる連合軍=北国勢(参照>>)が、北条(ほうじょう)側の支城へと侵攻する足がかりのための陣地(陣城)として急造した可能性が高いと見られます。
6月 戦国時代のキリシタン大名=高山右近(たかやまうこん)(参照>>)が城主だった高槻城(たかつきじょう=高槻市城内町)の二の丸跡内堀から、右近が城主だった時代に拡張したとみられる堅牢なつくりの大堀や、これまで記録になかった木橋橋脚などが見つかりました…今後、城の築造過程や実態などを知る上で貴重な資料となりそうです。
坂本龍馬が兄=権平(ごんぺい)家族に宛てた手紙を新たに6枚発見…龍馬が慶応二年(1867年)12月4日に記した手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたましたが、この6枚は初めて原本が確認されたそうです。
7月 兵庫県豊岡市出石町の旧家に、豊臣秀吉が側室の茶々(ちゃちゃ=淀殿)(参照>>)に宛てた手紙が残されていた事が判明…病気だった茶々を気遣う愛情溢れる内容の手紙で、数多く残る秀吉の手紙の中でも、茶々宛ては、これまで3通しか発見されていないとの事。
9月 奈良=興福寺の国宝=阿修羅像(あしゅらぞう)の3面ある顔のうち、下唇をかむ右側の顔が原型の段階では口を開き、やや穏やかな表情だったことが分かりました…九州国立博物館のCT撮影で判明した物で、完成前に修正されたとみられます。
兵庫県姫路市埋蔵文化財センターが姫路城の西の玄関口だった「備前門」の石垣跡が、同市魚町の地中で見つかったと発表しました…石垣の構造から江戸初期に造られた可能性が高いそうです。
江戸時代に日本各地で見られた巨大なオーロラは史上最大の磁気嵐が原因だったと、国立極地研究所の研究グループが米学術誌に発表しました…オーロラを詳しく記した日記が新たに京都で見つかった事から正確に分析&コンピュータで再現できたのだとか
本能寺の変(参照>>)織田信長(おだのぶなが)を討った明智光秀(あけちみつひで)が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかりました…変の直後の12日付けで、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)(参照>>)で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはししげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と光秀が通じているとの内容。本能寺の変に関する書状で光秀の直筆は、かなり珍しいそうです。
10月 兵庫県立歴史博物館(姫路市)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)家臣に宛てた自筆文書が見つかったと発表しました…「俸禄(ほうろく=給与)」をさらに下の家臣に与えるよう指示する内容で、時期は姫路城主だった頃の物とみられ「秀吉が下級家臣の少額の給与まで自筆で指示していたことがうかがえ、秀吉と家臣団との関係を考える上で興味深い」物との事。
11月 幕末の「禁門の変」で戦死した来嶋又兵衛(きじままたべえ)(参照>>)の、人柄などを表す資料山口県美祢市(みねし)で発見されました…見つかった資料は来嶋の日記や手紙など約50点で、資料からは来嶋が長州藩の財政や、江戸屋敷の運営などで力を発揮していたことや、家族思いだったことがうかがえるそうです。
北東北最大の戦国大名・三戸南部氏の居城跡「三戸城跡(城山公園)の発掘調査で、16世紀後半~17世紀初め頃の本丸に通じる正門「大御門(おおごもん)」の柱を建てた礎石7個が発見されました年代を示す建物跡の発見は初めてで、三戸南部氏関連の城館跡では、江戸時代の本城・盛岡城を除いて最大の大きさの門という事になり、来年度以降の調査で、大御門の築造年代をさらに絞り込んでいくとの事。
12月 奈良時代に造営された恭仁京(参照>>)の中心の恭仁宮跡(木津川市加茂町)の発掘調査で、高官が執務や儀式をした「朝堂院」の北端とみられる柱穴を発見…隣接する「大極殿院」の区画が柱穴の位置から推定され、「続日本紀(しょくにほんぎ)に聖武天皇の時代に平城宮(参照>>)の大極殿を移築して恭仁宮の大極殿が建てられたとの記録がある事から、建材だけでなく、形態も譲り受けたのではないかと考えられ、恭仁京も平城宮と同形態の可能性が高くなったとの事。
関ケ原の合戦の前哨戦「伏見城の戦い」(参照>>)で焼けたとみられる城の石垣が、京都市伏見区桃山町の集合住宅の建設に伴う調査で見つかりました…石垣はひび割れて赤く変色しており、かなりの高温で焼かれて崩れ落ちたとみられ、激しい攻防があった事が想像されます。

こうして見てみると、この1年、様々な発見があった事がわかりますが、個人的には、やはり本能寺の時の明智光秀の書状ですかね~

来年、年明けしょっぱなのブログ更新で、今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』についても感想など書かせていただくつもりでおりますので、ドラマの中の本能寺の変については、ソチラでお話しますが(感想は1月5日参照>>)、今回のドラマでの本能寺の描き方はなかなか斬新ではありました。

ドラマで描かれた「信長による家康暗殺説」(参照>>)をはじめ、一昨年(2015年参照>>)に発見された四国説(参照>>)を後押しする『石谷家文書』などなど・・・やはり、この本能寺の変は謎が謎よびますね~

で、
今回の光秀の書状には、「将軍=義昭の入洛については…」という内容がある事から、「光秀には反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想があったのではないか?」との見方がされています。

確かに、この手紙を書いた時点で、そのような構想を持っていた事は確かでしょうが、難しいのは、この書状の日付が、本能寺の10日後の12日だという事・・・

光秀が、事を起こす前=最初から、このような構想を持っていたのなら、まさに「室町幕府再興のために本能寺の変を起こした」事になるのでしょうが、ひょっとしたら、やっちゃった後で、思うように畿内が掌握できない事やら、意外に支持してくれる武将が少ない事やら、のアテ外れがあり、急きょ、皆が仰ぐような看板として義昭を引っ張り出し、自らの謀反を正当化しようとした可能性も無くはないわけで・・・

かと言って、「信長暗殺」なんで重要事項は秘密裏に準備を進めねばならず、事を起こす前に手紙を書いたり、ペラペラ周囲にしゃべっちゃったりなんて事はしてはならない・・・てのも一理。

たとえば・・・
「信長による家康暗殺説」を主張される方で、よく、『本城惣右衛門覚書』にある
「…我等ハ 其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ  いゑやすさまとばかり存候…」
「↑(中国方面に行くと思っていた明智軍が京都に向かったので)我々は家康を討ちに行くのだと思った」
という一文を挙げて、「皆が、家康を暗殺するんだと思っていた」=「信長による家康暗殺説はアリ」とおっしゃる方がいらっしゃいますが、これを書いた本城惣右衛門(ほんじよそうえもん)なる人は、野武士程度の雑兵だった人で、失礼ながら、この時点では、なかなかの下っ端・・・もし、そんな下っ端の面々までもが「光秀が信長の命で家康を暗殺しようとしている」事を知っていたなら、逆に、秘密ダダ漏れで、戦略としては終わってますから、
むしろ、この記述に関しては、その逆=「家康暗殺はなかった」を意味しているような気がしないでもない。

つまり、今回発見の「変の後には義昭帰京云々」は、トップシークレットだったからこそ、書状などという後に残る物には、事を起こした後でないと書けなかった可能性もあるわけで・・・

いやはや(*´v゚*)ゞ
書状が出て来たから、謎の解明に近づくと思いきや、よけいにドロ沼にはまらされるとは!!

ま、そこが楽しいんですけどね。。。

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2017年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2018年は平成最後の年・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

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コメント

茶々さん、こんにちは。今年は重要な書状が多く発見された一年でしたね。坂本龍馬のものも興味深い。では、良いお年を。

投稿: いんちき | 2017年12月31日 (日) 07時05分

いんちきさん、ありがとうございました。

良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2017年12月31日 (日) 11時20分

茶々さん、こんにちは。
午前中に掃除を終えて今は休憩しています。
この1年は疲れました。あわただしかったです。
私が興味深いのは恭仁京の話です。疲れていましたがなるほどと思いました。
聖武天皇に対して伯母の元正天皇はどう対応したのかが興味深いです。確か奈良時代だと天皇と上皇は地位が一緒だったので甥は伯母に相談していたのかなと思ったりします。
本当にご迷惑をおかけしてすみません。来年もよろしくお願いします。

投稿: non | 2017年12月31日 (日) 14時16分

nonさん、明けましておめでとうございますm(_ _)m

恭仁京など、あの時に次々と遷都された都についての事は、あまり多く発見されていないので、全容が解り難く、少しの発見でも興味深いです。

こちらこそ、今年もよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2018年1月 1日 (月) 01時50分

茶々さん、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

明智光秀の書状の件は、その割には幕臣だった細川藤孝が知らぬ存ぜぬで通していたり(その一方、wikiを見ると光秀の家臣団には旧幕臣出身の人も何人かいたらしいですけど)、
当の足利義昭が変後は何のお咎めなしですんでいるところを見ると、焦った光秀が思いつきで室町幕府の名前を借りたのでは?と思ってしまいますよね。


私がこれらのニュースで一番印象に残ったのは、秀吉が下級家臣の俸禄もちゃんとチェックしていたというニュースです。
天下統一後もそうしてたのかは分かりませんが、秀吉、真面目!面倒見がいい!それとも家康や利家みたいにお金に細かいタイプだった!?
それでも、現代社会でもお金の管理を人任せにしてトラブルを起こすという事件があるので、秀吉偉いなぁと思いました。

投稿: 禿げ鼠 | 2018年1月 1日 (月) 10時03分

茶々さん、おはようございます。
平成も実質今年で終わりですね。
本当に月日が早いと感じます。
奈良時代みたいにゆっくりした時間があったらと思います。
平城京、藤原京以外の奈良時代の都は難波宮、恭仁京、紫香楽宮、保良宮がありましたが、ほとんどわかっていません。特になぜ聖武天皇があそこまで大規模な工事をしたのか民衆を苦しめるような行為をしたのかよくわからないのです。天武天皇の偉業を思い出すためにしては平城京間近で都を移すとかその後難波、紫香楽と移ったり、大仏建立もです。よくわかっていません。その何故を今回の発見をきっかけにわかったらと思います。
ところで里中満智子、永井路子等は元正天皇と橘諸兄の皇親路線VS光明皇后と藤原仲麻呂の藤原路線と言いますが現実にそこまで対立していたとしての結果での放浪だと聖武天皇の時代はかなり不安定だったのだなと思いました。

投稿: non | 2018年1月 1日 (月) 11時54分

禿げ鼠さん、明けましておめでとうございますm(_ _)m

>私がこれらのニュースで一番印象に残ったのは、秀吉が下級家臣の俸禄もちゃんとチェックしていたというニュースです。

それも興味深いですね。
戦国武将の家臣掌握術はスゴイ物がありますね~
おそらくは、そこをちゃんとしとかないと、いつ寝返るかわからない不安もあったのかも知れませんが、大所帯なワリには長が末端まで気にかけてる感がうかがえますね。

投稿: 茶々 | 2018年1月 2日 (火) 02時38分

nonさん、こんばんは~

不穏な事が起こると「天皇に徳がなっから」と思われてた時代でもありましたから、「何とかせねば」という感じだったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2018年1月 2日 (火) 02時40分

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