細川管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い
永正十七年(1520年)1月10日、細川高国が摂津越水城を包囲する細川澄元&三好之長勢に決戦を挑みました。
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あの応仁の乱に終止符を打ち乱世の梟雄と呼ばれた管領(かんれい=将軍の補佐役)=細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)・・・
この政元に実子がいなかった事から、その死後に3人の養子
関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)、
阿波(徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)、
備中(岡山県)細川家の高国(たかくに)、
の間で繰り広げられた後継者争奪戦で、
はじめは、澄元と高国が組んで澄之を追い落としたものの(8月1日参照>>)、澄之がいなくなると、今度は澄元と高国の争いに・・・
永正八年(1511年)8月、京都の船岡山(京都市)でぶつかった両者(8月24日参照>>)・・・この船岡山の戦いで勝利した高国は事実上京都を制し、負けた澄元は、摂津(せっつ=大阪府北部)に逃亡した後、領国の阿波に戻って、態勢を立て直す事に・・・
やがて永正十六年(1519年)、秋頃になって、態勢を立て直した澄元が、四国勢を率いて、まもなく上洛するとの噂が立ち始めます。
この情報を知った池田城(いけだじょう=大阪府池田市)の池田信正(いけだのぶまさ)は、父=貞正が命を落とした永正五年(1508年)の敗戦以来、奪われたままになっている領地を回復せんと、いち早く澄元に連絡をつけて田中城(たなかじょう=兵庫県三田市)に籠城し、
「その時には先陣を務めますので、ここを足がかりに上洛を…」
と、洛中へ入る拠点としての場所を提供します。
もちろん、高国方も、コレにすばやく反応・・・瓦林正頼(かわらばやしまさより=政頼)はじめとする高国配下の者が、すばやく集結し、永正十六年(1519年)10月22日夜、突如として田中城を攻撃したのです。
しかし、この時、敵方に内応者がいたため瓦林勢の動きは、池田側に筒抜け・・・しかも、この攻撃を察知して事前準備も万全にしていた事や、当日たまたま雨が降って、攻めるに困難を極めた事から、ほどなく瓦林勢は大敗し、兵は夜陰に紛れて敗走して行き、正頼自身は居城の腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)に籠城しました。
勝利した池田信正は、恩賞により弾正忠(だんじょうのちゅう=警察)に任ぜられ、豊島郡(てしまぐん=大阪府池田市周辺)を領地として与えられました。
こうして上洛の足がかりを得た澄元は、その10月のうちに、三好之長(みよしゆきなが)をはじめ、1万とも2万とも言われる四国勢を率いて兵庫(ひょうご)に上陸し、神呪寺(神咒寺=かんのうじ=兵庫県西宮市)に本陣を置いて、瓦林正頼らが籠った腰水城を包囲したのです。
一方、この澄元の状況を知った高国も、山城(やましろ=京都府南部)・丹波(たんば=京都府中部・兵庫県東部)・摂津など支配下の諸国人たちをかき集めて翌・11月21日に京都を出陣し、12月2日(もしくは6日)には池田城に入城し、ここを拠点として臨戦態勢に入ります。
その後、高国勢は武庫川(むこがわ)に沿うように、その上流から下流に向けての昆陽(こや=兵庫県伊丹市)・野間(のま=同伊丹市)・瓦林(かわらばやし=兵庫県西宮市)・浜田(はまだ=兵庫県尼崎市)などに布陣し、しばらくの間、睨み合いが続きました。
そんな中、こう着状態をたち割るように12月19日(18日とも)に大きな戦闘が行われ、四国勢数百人が討死にし、「その中には三好之長父子も…」という噂も流れましたが、三好父子の討死には誤報でした。
とは言え、この時は大きな痛手を受けた四国勢・・・しかも、瓦林勢には「那須与一(なすのよいち=参照>>)の再来」とうたわれた弓の名手=一宮三郎なる人物がいて、四国勢もなかなか攻めあぐねていたのです。
そんなこんなの永正十七年(1520年)1月10日、いよいよ両者は大決戦となります。
さすがに現政権派とあって、高国軍も、この頃には2万ほどにふくれあがっておりました。
『細川両家記』によれば・・・
午後4時頃から開始された戦いは、高国方の伊丹国扶(いたみくにすけ)が中村口(伊丹市)から切り崩しを開始し、四国勢に襲いかかると同時に腰水城からは瓦林勢が撃って出て四国勢の諸将を相手に奮戦・・・この局地戦では高国方が大いに成果をあげました。
しかし、この日の午後8時頃まで・・・約4時間に渡って繰り広げられた戦いは、上記の夕方の局地戦では高国側が有利だったものの、全体では、四国勢の戦死者は100余名、高国勢は、その倍の200余名の犠牲者を出してしまっていたのです。
その後も、断続的に戦いは繰り広げられていきましたが、やがて腰水城の兵糧が枯渇しはじめ、籠城を維持できなくなってしまった事から、永正十七年(1520年)の2月3日、劣勢を挽回できないまま城将の瓦林正頼は、腰水城を放棄し、武庫川の左岸へと逃亡したのです。
この時、高国自身は、腰水城の救援に向かうべく本隊を移動させていましたが、腰水城の落城には間に合わず・・・やむなく撤退するところを、澄元に同調する国衆=西岡衆(にしのおかしゅう=京都・乙訓地域の自治を担った武士集団)に襲撃されたため、六角定頼(ろっかくさだより)を頼って(この時の六角氏は定頼の父=六角高頼が主導の説もあり)、近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=大津市)へと逃れて行きました。
こうして、京の町は、一時的に澄元派が牛耳る事になりますが、もちろん高国も、このままでは終われません・・・いや、むしろ、ここから、ラッキーも加わって、高国はこの世の春を迎える事になるのですが、その続きのお話は、わずか4ヶ月後の永正十七年(1520年)5月5日に勃発する等持院表(とうじいんおもて)の戦い(5月5日参照>>)でどうぞo(_ _)oペコッ
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