武田VS北条~薩埵峠の戦い(第2次)
永禄十二年(1569年)1月18日、北条氏政が武田信玄を攻撃するため四万五千の軍を率いて駿河に出陣し、薩埵峠に布陣しました。
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北東方面へと手を伸ばしたい甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)、上洛を見据えて西へと手を広げたい駿河(するが=静岡県中北部)の今川義元(いまがわよしもと)、関東支配を強めたい相模(さがみ=神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす)・・・お互いの利害関係が一致した、この3者の間で甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれたのは天文二十三年(1554年)の事でした(3月3日参照>>)。
しかし、その6年後の永禄三年(1560年)・・・強固な同盟の一角であった今川義元が、未だ領国の尾張(おわり=愛知県西部)一国すら統一していない若造(←失礼m(_ _)m)=織田信長(おだのぶなが)に、あの桶狭間の戦い(2015年5月参照>>)で敗れ、命を落としてしまったのです。
父の死を受けて義元の嫡男=今川氏真(うじざね)が後を継ぎますが、これが、なかなかうまく行かない・・・氏真は、世間で言われているほどボンクラなボンボンではありませんが(3月16日参照>>)、なんせ、父の義元が大物過ぎましたから、早々に見切りをつけて離反する者もチラホラ・・・
それでも、しばらくは様子見ぃで同盟関係を保っていた信玄・・・なんたって、あの永遠のライバル=越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)との川中島(9月10日参照>>)だって、未だ決着ついて無いワケですし・・・
ところが、かの桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立(2008年5月19日参照>>)した三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)が、このドサクサで旧領を自分の物にしたばかりか、隣国の織田信長と同盟を結んで、今川領の遠江(とおとうみ=静岡県西部)にまで手を伸ばす姿勢を見せ始めます。
「イカン!このままでは全部家康に取られてしまう~」
とばかりに、今川との同盟破棄に反対する息子の義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで信玄は方針転換・・・信長が間に入って「信玄が駿河を、家康が遠江奪う」という両者間の約束事を取り決めたのです。
もちろん、氏真から見れば
「何、勝手に取り決めとんねん!」です。
かくして永禄十一年(1568年)12月、信玄の南下を知った氏真は、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らに1万5千の兵をつけて薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)に出陣させます。
そこは甲斐から駿府(すんぷ=駿河国府)へ侵攻する際に必ず通るであろう重要箇所・・・氏真としては意地でも守らねばなりません。
「ここで武田軍を喰い止めておけば、遅かれ早かれ、必ず背後から北条が援助してくれるはず」・・・でした。
しかし、残念ながら、この薩埵峠で起こったのは小競り合い程度の小さな衝突のみ・・・現地に赴いた今川配下の者が早々に離脱し、戦いらしい戦いも無いままに、今川方は崩れてしまったのです(薩埵峠の戦い~第1次:12月12日参照>>)。
これが第1次薩埵峠の戦いと言われる合戦です。
この勢いのまま翌12月13日、信玄は、氏真の本拠である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区)の攻防戦へと突入(12月13日参照>>)・・・猛攻を抑えきれない氏真は、妻子を連れて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走します。
そんな掛川城を包囲したのは信玄・・・ではなく家康。【井伊谷の戦いと家康の遠江侵攻】参照>>
年が明けた永禄十二年(1569年)1月12日、いよいよ総攻撃を仕掛けるのですが・・・
そんなこんなの永禄十二年(1569年)1月18日、信玄の勝手な同盟破棄に激おこの北条氏政(うじまさ=氏康の息子)は、「敵の敵は味方」とばかりに謙信と結んだ後、武田と徳川に挟まれて窮地に追い込まれた氏真を支援すべく、4万5千の軍勢を率いて出陣し、かの薩埵峠へとやって来たのです。
氏政は、まず、掛川城への援軍として下田城(しもだじょう=静岡県下田市)の城将=清水康英(しみずやすひで)らに約300の兵をつけて海路より送り込み、主力は陸路を蒲原(かんばら=静岡県の中部)まで進み、信玄の背後を狙おうという作戦です。
ところが、この薩埵峠で1万8千もの武田軍に阻まれ、なかなか前へ進めません。
結局、この1月18日から4月20日までの間、小競り合い程度はあったものの、両者ほぼ対峙したままのこう着状態が続く事になるのです。
最終的に、掛川城にいた氏真が、謙信に信玄の背後を突く事を要請した事で、信玄は兵を甲斐へと戻し、一方の氏政も、信玄が常陸国(ひたち=茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ)などに工作を要請していた事を知って、自軍を一旦、相模へと戻しました。
結果、この第2次薩埵峠の戦いは「引き分け」という形で幕を閉じます。
ただし、この間も、徳川相手に籠城戦を続けていたかの掛川城は、結局、永禄十二年(1569年)5月17日に北条の仲介により開城を決意し、徳川と北条の和睦交渉が展開される中、氏真は北条を頼って相模へと逃れました(12月27日参照>>)。
氏真が相模へ去った後も信玄は、駿河における更なる優位性を求めて関東各地を転戦するのですが、そんな信玄を、北条は三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)にて待ち伏せして奇襲(10月6日参照>>)・・・互いに多くの死者を出しながらも、コチラもなんだかんだで引き分けに・・・
そんなこんなの11月28日、氏真の重臣であった岡部正綱(おかべまさつな)が、かの今川館を襲撃し、一時的に占拠します(12月7日参照>>)。
時を同じくして、北条に庇護を受ける氏真も、氏政の息子=北条氏直(うじなお)を養子に迎え、彼が駿河領有の正統な後継者である事を主張したのです。
こうして、さらに深刻化する武田VS北条・・・ここで武田を一気に潰そうと周辺の諸将への大動員をかける北条でしたが、一方の信玄も、「負けてはならじ!」とばかりに、12月6日には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を攻撃して、城主の北条綱重(ほうじょうつなしげ=氏信・氏康の従兄弟)を討ち取り(12月6日参照>>)、続く12日には、北条勢が薩埵峠付近に展開していた砦(とりで)を次々に落として行ったのです。
これらの信玄の怒涛の進撃により、やむなく北条は駿河周辺から撤退する事に・・・
とは言え・・・
皆様ご存じのように、そんなこんなしている間に、将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて永禄十一年(1568年)に上洛を果たした(9月7日参照>>)あの織田信長が、畿内にて、その将軍にさえ物申す大きな存在になりつつあった(1月23日参照>>)わけで・・・
こうして、戦国は、更なる時代へと突入していく事となります。
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コメント
最近、(ポストの主題とは関係が薄くてすいませんが)薩埵峠→今川家瓦解の後にある三増峠の戦いに関する研究が深いらしいようで興味深いです。
髙地に予め陣取っていたはずの北条勢が武田方の撤退ルートの関係で逆に不利になってしまったため、一概に信玄の陽動が決まったともいえないとも、武田勢は武田勢で調略が裏目に出て敵地で味方が孤立してしまい、氏康による戦後の処刑を許してしまったとか。
でも、あまり言いたくないですが、北条勢が勢力の割にどこでもかしこでも弱いのは、やはり個人的には四公六民の弊害かなと思います
投稿: ほよよんほよよん | 2018年1月19日 (金) 00時19分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
あわよくば天下を狙う戦国の世において、北条は、天下とか領地拡大とかよりも「関東支配」を重視してた感あるな~って思ってます。
投稿: 茶々 | 2018年1月19日 (金) 03時04分