猿掛城攻防~庄為資と毛利元就と三村家親と…
永禄二年(1559年)2月15日、三村家親から救援要請を受けた毛利元就が猿掛城を攻撃すべく、備中伊原に布陣しました。
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備中(びっちゅう=岡山県西部)猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)は標高230mの猿掛山に築かれた山城で、山の北側には東西に流れる小田川があり、それと並行するように走る旧山陽道を抑えた要所にありました。
その歴史は古く、平安時代の終わり頃には、ここに領地を与えられた庄家長(しょういえなが=荘家長)によって、館や城郭らしき物が構築されていたと見え、以来、鎌倉時代には幕府御家人として、南北朝には南朝の北畠の配下として活躍した庄(しょう=荘)氏が、この城を拠点として来ました。
やがて、戦国の天文の頃の城主であった庄為資(しょうためすけ=荘為資)は、天文二年(1533年)4月、備中中南部にあった松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)を攻めます。
この松山城は、一昨年の大河ドラマ「真田丸」のオープニングにも使用され、現存12天守の一つとして重要文化財に指定され、竹田城に勝るとも劣らない雲海に浮かぶ「天空の城」として有名な、あの松山城ですが・・・(現存する建物は江戸時代の物です)
ここには、源氏の支流で室町幕府にて奉公衆として足利(あしかが)氏に仕えた上野(うえの)氏が、備中の守護だった細川の守護代として入城し、この当時は上野頼氏(うえのよりうじ)が城主を務めていましたが、今や守護もへったくれも無い世は下剋上・・・ご多分に洩れず、当時、西国(中国地方)を二分していた周防(すおう=山口県の東南部)の大内(おおうち)氏と、出雲(いずも=島根県東部)の尼子(あまこ・あまご)氏との権力闘争に翻弄される状況だったのです。
そんな中、尼子氏の支援を受けた庄為資が、この松山城を襲撃したというワケですが、この戦いで頼氏は討死・・・まもなく、頼氏に代わって為資が松山城の城主となり、自身の猿掛城には一族の穂井田実近(ほいださねちか=庄実近)を城代に据えたのです。
この勢いにより、庄氏は下道(かとう=岡山県倉敷市&総社市の一部)・小田(おだ=同笠岡市付近)・上房(じょうぼう=高梁市の高梁川以東)の三郡を治める備中最大の勢力となりました。
しかし、ここに大内×尼子の間を縫って登場して来るのが、西国第三の男=毛利元就(もうりもとなり)です。
はじめは、彼もまた、大内と尼子に翻弄される小さな国人領主の一人就でしたが、天文十年(1541年)に、尼子傘下から大内傘下に鞍替えした時、この元就を潰すべく、当主=尼子晴久(あまごはるひさ=当時は尼子詮久)が元就本拠の郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市・吉田郡山城)を攻めるも、大内の援軍を得ていた郡山城は落ちる事無く・・・逆に尼子軍は大将を討ち取られ、痛い敗北を喫してしまうのです(1月13日参照>>)。
もちろん、この時点での元就は、上記の通り、未だ大内の支援を受けている状態ですが、そんな中で、天文十三年(1543年)には、安芸竹原(たけはら=広島県竹原市)の国人領主=小早川興景(こばやかわおきかげ)の死去にともなって、三男の隆景(たかかげ)を養子に送りこんで竹原小早川家を掌握し、その6年後には小早川の本家にあたる沼田(ぬまた・ぬた=広島県広島市)を領する小早川繁平(しげひら)を出家に追い込んで、コチラも隆景に乗っ取らせます。
また、これと同時進行で、妹の旦那=吉川興経(きっかわおきつね)の養子に次男の元春(もとはる)を送り込んでおいて後、天文十九年(1550年)には、その興経父子を殺害して吉川家も乗っ取ってしまうのです(9月27日参照>>)。
こうして力をつけて来た元就は、天文二十年(1551年)に大内氏の重臣=陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)がクーデターを起こして、事実上大内の実権を握ってしまった(8月27日参照>>)事をキッカケに大内に反旗を翻した石見(いわみ・島根県)の吉見正頼(よしみまさより)に同調して、彼も大内氏を離反・・・
天文二十三年(1554年)には折敷畑(おしきばた)の戦いで勝利し(9月15日参照>>)、翌・弘治元年(1555年)には、あの戦国三大奇襲の一つ=厳島(いつくしま)の戦い(10月1日参照>>)で晴賢を葬り去り(10月5日参照>>)、2年後の弘治三年(1557年)には、大内の後継者であった大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)を自刃に追い込んで(4月3日参照>>)、西国の名門=大内氏を滅亡させていたのです。
猿掛城攻防戦・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そんなこんなの永禄二年(1559年)2月上旬、上り調子の毛利に支援を求めつつ、備中に侵攻して来たのが星田(ほしだ=岡山県井原市美星町)を本拠としていた成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)でした。
三村家親は、元就がここまで大きくは無い、かなり早いうちから、すでに毛利の味方となっていたらしく、両者の信頼関係は非常に篤い物だったようで・・・家親からの援軍要請を受けた元就は、早速、嫡男の隆元(たかもと)以下、元春・隆景の3人の息子を従えて安芸を発ち、永禄二年(1559年)2月15日、毛利本隊は伊原(いばら=岡山県井原市)に、元春は矢掛(やがけ=岡山県矢掛町)に、それぞれ陣を敷いたのです。
家親は、この毛利軍を先鋒として、まずは、城下の民家に放火して回って猿掛城へと迫って来ます。
しかし、城主=庄為資はまったくひるまず、逆に三村の軍勢を少数で追い散らしたタイミングを見計らい、この間に別働隊を動かして元春の本陣にも迫りました。
このため、家親の軍勢は大いに乱れますが、一方の元春の軍勢は、まったく動じず・・・この元春の威勢に恐れをなした為資勢は、やむなく退却したとか・・・(ま、『毛利家文書』内の話やからね~チョイと元春age?)
その後、約50日ほどに渡って小競り合いが繰り返されますが、元就の毛利本隊は持久戦を視野に入れて力を温存する作戦をとったため、合戦の主体となったのは家親の軍勢と元春の軍勢・・・両者は、そんな小競り合いを繰り返しつつも、この間に猿掛城を包囲し、やがて決戦となる春を迎えます。
4月3日、家親が1500余騎で先陣、元春が2000余騎の軍勢で後陣の態勢で以って、再び井原へと陣を進めますが、この動きを察知した為資は、敵が攻撃を始める前日に夜襲をかけて蹴散らすべく準備に入ります。
しかし、この夜襲計画の情報をいち早く手に入れた家親は、二段構えの伏兵を置いて態勢を整え、自らは1000余の軍勢を率いて敵の本陣に斬り込む作戦に出ます。
ところが、この三村軍の動きも為資側はキャッチ・・・夜襲を待ち伏せされてはマズイとばかりに、夜襲のための兵を早々に退き始めます。
この動きを見た家親・・・「このまま退かせるわけにはいかぬ」とばかりに、自ら先陣を切って敵の追撃に乗り出しますが、この時の大きな鬨(とき)の声により、隠れていた伏兵も一気に動き、全軍で以って敵の追撃を開始したのです。
このため、静かに退くはずだった為資の軍勢は大混乱・・・為資自身が、わずかの側近とともに猿掛城へとやっとこさ戻るの精一杯だったというほどの大敗となってしまいました。
しかも、この直後、元就が来島水軍(くるしますいぐん=村上水軍)を使って瀬戸内の海上を封鎖して他の同盟者との連絡を絶たせて為資を孤立させた事により、ついに為資は降伏し、猿掛城を開城したのでした。
結果、三村家親の長男=元祐(もとすけ)が為資の養子になって庄元資(しょうもとすけ=・荘元祐・穂井田元祐)と名乗って庄氏を継ぎ、猿掛城主となりました。
さらに三村方は、猿掛落城後も庄為資の息子=庄高資(しょうたかすけ=荘高資)が守っていた、かの備中松山城を永禄四年(1561年)と永禄九年(1566年)の2回に渡って攻め、最終的に松山城を攻略・・・高資を討ち取って本来の庄氏は壊滅し、代わって三村が備中の覇者となるのです。
しかし、世は戦国・・・実は、上記の松山城攻めの間に、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下にあった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客により、家親は暗殺されています。
それを受けて三村家の後を継いだのは、この松山城攻めにも、父=家親とともに参加していた次男=元親(もとちか)なのですが・・・
ご承知の通り、この後、浦上からの独立を狙う宇喜多と、毛利&三村・・・この微妙なトライアングルが更なる展開を見せるのですが、そのお話は、6月2日の【備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親の自刃】でどうぞ>>m(_ _)m。
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コメント
赤穂四十七士の一人、三村次郎左衛門がこの三村氏の一族だったと記憶しています。
この話の頃は正に権謀術策が跋扈した時代ですね。
昨日の友が今日は敵、親兄弟でも安心出来なかったのではないでしょうか。
毛利元就は自らの死後、決して冒険はせず現状維持に徹するように諭したのもそんな世情が背景にあったと思います。
因みに私の家は大内氏と一時協力関係にあった益田氏から分かれた三隅氏からさらに分かれた家系で、島根県の邑南町に今も先祖の城跡が残っています。
投稿: masa | 2018年2月18日 (日) 19時07分
masaさん、こんばんは~
城跡ですか…イイですね~(*^-^)
投稿: 茶々 | 2018年2月19日 (月) 02時07分
三村家は動員力1万とも称されたらしいですね
知っている年配の方に三村家の遠戚の方がおられますが、やはり多数の三村遺跡みたいなのが残っていて研究の余地があると聞いています
領土は広くないものの平野部を抑えていたので収入は多かったのではと思います。
ゲームとかだと、大内・尼子・毛利の順で強いんですが、尼子家が精いっぱい動員して1万、江戸期の検地から算出すると(配下郷士がMAXで応じても)7130というデータからすると、大内>(壁)>三村、山名等>尼子、浦上等>(壁)>毛利等というのが正確な配分ではないかと思います。
投稿: ほよよんほよよん | 2018年2月19日 (月) 19時53分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
ここらあたりの事は、まだまだわからない事が多いですね。
おっしゃる通り、研究の余地があります。
投稿: 茶々 | 2018年2月20日 (火) 01時49分
天文初旬、庄為資の時、福島県大槻村から大槻喜右衛門が評定衆として入城し、長男大月源内は備中兵乱松山合戦参戦し、最初三村方最終盤に毛利方に内応し、毛利が勝利しております。
「備中兵乱記より」。
投稿: 名無しの歴史好き | 2018年8月 6日 (月) 16時49分
名無しの歴史好きさん、こんばんは~
「備中兵乱松山合戦」のお話は、本文の末尾に今回の続きとしてリンクを貼った2018年6月2日のページ>>に書いております。
ページのボリュームの都合上、大槻さん出てこないので申し訳ないです。
投稿: 茶々 | 2018年8月 7日 (火) 02時00分