永享の乱~鎌倉公方・足利持氏が自刃
永享十一年(1439年)2月10日、『永享の乱』で敗れた第4代鎌倉公方=足利持氏が自刃しました。
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ともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇と対立し、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)でしたが、当時は、一方の後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)にて南朝を開いており、未だ動乱の真っ只中・・・
故に結局、尊氏は、足利家の本拠地が関東であるにも関わらず、不穏な空気が収まらない京都を離れる事ができなかったため、京都の室町で幕府を開く事になってしまったわけで・・・
そのため、鎌倉を拠点に関東を治めるべく、最初は弟=直義(ただよし)を鎌倉に派遣し、次に嫡男の義詮(よしらきら)、そして貞和5年(1349年)、後に2代将軍となるべき義詮に代わって四男の基氏(もとうじ)を派遣します(9月19日参照>>)。
この基氏以降、鎌倉を守る役目は基氏の息子からまたその息子へと代々受け継がれていく事になり、この後、それは鎌倉公方(かまくらくぼう)と呼ばれ事になります。
とは言え、この鎌倉公方は、関東はもちろん、伊豆や甲斐(山梨県)をも含めた広大な範囲を統轄する役職で、幕府に准ずる組織ですから、最初こそウマく行っていたものの、徐々に「畿内を牛耳る将軍家と関東を牛耳る鎌倉公方は同等にも感じられる」ような雰囲気が持ち上がって来るわけで、代が進むにつれ、その色が濃くなって来る・・・
そんな中の応永三十二年(1425年)2月、第5代室町幕府将軍の足利義量(あしかがよしかず)が、わずか19歳で病死・・・さらに、その3年後の応永三十五年(1428年)1月に、義量の父で第4代将軍だった足利義持(よしもち)も死亡します。
この義持は、息子が第5代将軍になった後も、実権を握り続けていた人なので、先の義量の死の後も、父の義持が政務をこなしていたため、そこらへんは義持が亡くなるまでは大丈夫だったわけですが、若くして亡くなった息子には後継ぎがいなかったわけで・・・
その状況で、続いて父の義持も亡くなれば・・・しかも、次期将軍を指名せずに死んでしまったおかげで、当然のごとく後継者問題が勃発するのです。
そこで、義持の3人の弟たちの中から時期将軍を選ぶ事になりますが、あーだこーだの協議の末、結局は、くじ引きによって選ばれ、正長二年(1429年)3月に第6代将軍となったのが足利義教(よしのり)だったのです(2016年6月24日参照>>)。
ま、この時代のくじ引きは、今で言う抽選という感覚とは違い、「神のお告げ」「神様が選んだ」という意味合いだったわけですが、このドタバタ劇にカチンと来たのが、義持の猶子(ゆうし=両者の結束目的とした養子縁組)で、関東にて4代目の鎌倉公方をやっていた足利持氏(もちうじ)でした。
なんだかんだで血筋は足利家やし、なんやったら猶子やし、
「くじ引きするくらいモメてるんやったら、俺にもちょっとくらい絡む権利あるんちゃうん?」
と・・・
この時、
「一発、文句言いに行ったる!」
とイキリまくって上洛を考える持氏を
「まぁ、まぁ、まぁ」
と説得したのが、若き関東管領(かんとうかんれい)=上杉憲実(うえすぎのりざね)でした。
この関東管領という役職は、初期には関東執事(かんとうしつじ)とも呼ばれ、鎌倉公方を補佐する役職なのですが、その任命権は将軍にあり・・・つまり、役職は支店長の下の副支店長なんだけど、実は、本社の社長から派遣されてて、社長の指揮下にあるみたいな?
なので、憲実は、これまでも度々、関東周辺で起こる戦いやモメ事を穏便に治めつつ、時には持氏に厳しい苦言を呈しながらも、幕府将軍家と鎌倉公方の融和を計って来たわけですが・・・
その憲実の姿勢が、どうしても、「自立したい」感溢れる持氏とは相容れず、両者の溝は徐々に深まりつつあったのです。
そんなこんなの永享九年(1437年)6月、持氏は、不穏な動きをする信濃(しなの=長野県)の小笠原(おがさわら)を抑えるべく、上杉憲直(うえすぎのりなお=持氏の側近:宅間上杉家)を大将とした軍勢を派遣しようとします。
しかし、これが・・・
「小笠原攻撃とは名ばかりで、実は憲実を討とうとしている」
との噂が立ち、鎌倉は一気に不穏な空気に・・・ただ、これは、本当に持氏の本意では無かったらしく、すぐさま持氏は、自ら憲実の宿所に出向いて誤解を解き、大事には至らなかったのですが、どうやら、表面では収めたものの、水面下では、もう、お互いの亀裂は修復不可能になりつつあったようで・・・
翌・永享十年(1438年)6月、持氏の嫡男である賢王丸(かんおうまる)の元服がとり行われるのですが、なんと!この時、持氏は賢王丸に義久(よしひさ)と名乗らせたのです。
そう、これまでの鎌倉公方は、その元服する際、時の将軍にお願いし、その将軍の名から一字を賜って名乗るのが通例・・・当の持氏は、先の4代将軍=義持から、持氏の父である満兼(みつかね)は、あの3代将軍=義満(よしみつ)からいただいてます。
ところが持氏・・・自らの息子には、将軍家の通字(とおりじ=家に代々継承される字)である「義」の文字の名を名乗らせたのです。
つまり、「俺らは将軍家と対等や」と・・・
もちろん、この時も憲実は反対して元服式をボイコットし、
「将軍様にお願いしては?」
と提言しますが、持氏の決意は固く、両者の亀裂が決定的となります。
この関東での不穏な空気は、早い段階で、駿河(するが=静岡県東部)守護の今川範忠(いまがわのりただ)によって京都に知らせられ、義教は
「状況を監視して、動きがあったら、すぐに憲実に味方しろ」
と範忠に指示する一方で、奥州(おうしゅう=東北)の伊達(だて)や芦名(あしな)といった面々に
「憲実が窮地に陥ったときは、すぐに救援できるよう準備しておけ」
との命令を発していました。
間もなくの8月になると、
「持氏が憲実追討の兵を集めている」
との噂が流れ出しますが、
「今度は、ホンマモンやぞ!」
と察した憲実は、慌てて上野(こうずけ=群馬県)の平井(ひらい=藤岡市)へと身を隠します。
この憲実の動きを知った持氏は、その2日後、自らが兵を率いて鎌倉を出立・・・武蔵府中(むさしふちゅう=東京都府中市)の高安寺(こうあんじ)に布陣し、一触即発の状態となりました。
もちろん、この「持氏出陣」の知らせも、間もなく京都に届き、幕府側は、すばやく持氏追討の軍を編成するとともに、後花園(ごはなぞの)天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令)も得て、幕府軍は錦の御旗(にしきのみはた=天皇の軍という証)を掲げた官軍として京都を出発するのです。
この時、将軍義教も自ら出陣しようとしましたが、さすがにそれは側近に止められ、何とか思い留まっています。
こうして、斯波持種(しばもちたね)や甲斐将久(かいゆきひさ)を中心とした幕府軍が東へ向っていた頃、すでに出兵していた駿河や信濃の武士たちが箱根あたりで公方方と遭遇して一戦を交え、敵陣を突破したりしてますが、
そんなこんなの9月27日、相模の早川尻(はやかわじり=神奈川県小田原市)にて幕府軍と一戦交えたのは、あの上杉憲直と、同じく持氏側の大将格だった一色直兼(いっしきなおかね)の軍勢・・・両者激しく戦いますが、何たって幕府軍はあまりの大軍にて、自軍に多くの戦死者を出してしまった憲直は、やむなく兵を退きました。
この敗北を受けた2日後、高安寺にいた持氏は、陣を海老名(えびな=神奈川県海老名市)に移動させますが、この時、持氏の側にいた千葉胤直(ちばたねなお)が裏切り、幕府側へと転じます。
実は胤直は、以前より憲実との和睦の道を進言していたのですが、持氏には、まったく聞き入れられず・・・ここに来て、とうとう持氏に見切りをつけたのでした。
さらに10月になると、鎌倉にて留守居役を命じられていた三浦時高(みうらときたか)までもが、その役目をすっぽかして自身の領地に帰ってしまいます。
これを好機と見た憲実・・・10月19日、自ら分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)に布陣し、一戦交える覚悟を決めます。
しかし、それから間もなくの11月1日、あの時、一旦領国に戻った三浦時高が、今度は鎌倉に攻め入り、御所を攻め落として持氏の息子たちを拘束・・・これを知った持氏は、急いで鎌倉に戻ろうとしますが、その帰路の途中、憲実の重臣である長尾忠政(ながおただまさ)にバッタリ出会います。
「もはや、これまで!」
と観念した持氏は、自らの身を忠政に預け、降伏したのです。
忠政によって鎌倉の永安寺(ようあんじ=神奈川県鎌倉市二階堂)に幽閉された持氏は、一旦、称名寺(しょうみょうじ=神奈川県横浜市金沢区)に入って出家した後、再び永安寺にて千葉胤直監視のもと幽閉されます。
この間、主人の投降を知った上杉憲直と一色直兼は、自ら恭順姿勢を見せて称名寺に入りましたが許されず・・・長尾忠政に攻められて、11月7日に、両者ともに自刃します。
そんな敗者二人の首は、やがて京都に送られて将軍=義教が検分する事になるのですが、この時、義教は持氏の首が無い事に、たいそうお怒りだったとか・・・
そう、実は持氏に対しては、今回は敵に回った配下の者たちからも、助命の願いが出されていたのです。
上記の通り、持氏は出家しましたし、拘束された息子=義久も、寺に入って喝食姿(かっしきすがた=元服前の少年の髪形)になって降伏の意を表明していたので、おおもとの被害者である憲実でさえ、
「命ばかりは助けてさしあげたい」
と懇願していたのです。
しかし、義教は許しませんでした。
相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)の柏心周操(はくしんしゅうそう)を通じて、憲実に持氏追討の命を下し、それを受けた千葉胤直らによって永安寺を攻撃された持氏は、永享十一年(1439年)2月10日、自刃して果てたのでした。
その後、報国寺(ほうこくじ=神奈川県鎌倉市)にいた嫡男の義久のもとにも「討伐」の報告が入り、覚悟を決めた義久は、仏前で焼香した後、念仏を唱えながら自害したと言います(ただし義久の死に関しては、日付や場所、亡くなった年齢などが複数あり、諸説入り乱れてます)。
こうして永享の乱(えいきょうのらん)と呼ばれる持氏の反乱は終焉を迎えましたが、当の持氏やその息子、大将格の面々こそ討伐されたものの、関東には持氏恩顧の武将たちがまだまだいて、彼らは無傷だった事から、この後、事態は更なる展開へと進みます。
持氏の次男&三男である春王(しゅんのう・はるおう)と安王(あんのう・やすおう)を抱え込んだ結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)の結城氏朝(ゆうきうじとも)による結城合戦が勃発(4月16日参照>>)・・・敗色濃くなった氏朝は、春王と安王を女装させて城から脱出させますが、まもなく発見された二人は護送中に処刑されてしまいます(2008年2月10日参照>>)←以前、永享の乱と結城合戦を同時に書いてしまったため、前半部分の内容がだだカブリですが、お許しを(*_ _)人ゴメンナサイ
ところが、この春王&安王の死から、わずか1ヶ月後の嘉吉元年(1441年)6月、義教が嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)にて殺害されるのです。
この義教の死によって、未だ幼児であった持氏の四男坊=永寿丸(永寿王とも)が赦免されるのですが、この四男坊が成長して足利成氏(しげうじ)に・・・(9月30日参照>>)
「我こそが鎌倉公方の後継者!」
とばかりに関東支配に乗り出す成氏に対し、幕府は、
「コッチが幕府公認の鎌倉公方や!」
とばかりに、亡き義教の息子=足利政知(まさとも)を関東に送りこみますが、現地が乱れに乱れていたため、政知は鎌倉に入る事ができず、御所を構えた地名を取ってコチラは『堀越公方』呼ばれます。
一方、政知の進出により勢力範囲を制限された成氏は下総古河(こが=茨城県古河市)を本拠地とする事となり、コチラは『古河公方』と呼ばれますが、
ご存じのように、そんなこんなしているうちに、将軍家も公方家も、やがて、力のある武将の推しがなければやってけない戦国へと突入していく事となります。
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コメント
古河公方は長く続きましたが、この関東将軍家の争いが伊勢家…関東北条家みたいな第三勢力を勃興させたとも言えますよね。
ただ、他の(鎌倉以来の家が多い)関東の小大名たちが、それぞれを支持したりしなかったりという感じでマチマチなのがふ~むって感じです。
古河公方は苦労を重ねた成氏の個人人気?が幕府的な支持者を比較的多く集めたが、やはり根元的に違う戦国大名的な新システムを求める層も一定数いてそれらは北条家を支持したとか、そういう感じに理解すればいいのでしょうか。
投稿: ほよよんほよよん | 2018年2月12日 (月) 16時22分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
この頃は、ちょうど、伝統的な上下関係を重んじる古風なタイプと、そこにこだわらない革新的なタイプの入り乱れた時期でしたね。
「強さでのし上がって来たから革新的」とならなず、人それぞれな所が、また、オモシロイです。
投稿: 茶々 | 2018年2月13日 (火) 01時56分
スミマセン、本文中の実義→直義で、系図の義顕→義詮でしょうか?
投稿: | 2018年4月 4日 (水) 23時13分
わぁ!ありがとうございますo(_ _)oペコッ
全然気づいてませんでした~
見つけていただいて感謝!!
また、何か発見されましたら、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2018年4月 5日 (木) 02時53分