島津斉彬の江戸入りと「お庭方」西郷隆盛
嘉永七年(安政元年=1854年)3月1日、島津斉彬の江戸入りに西郷隆盛が随行し、「お庭方」役につきました。
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ご存じ!今年の大河ドラマ「西郷どん」の主役=西郷隆盛(さいごうたかもり=本名:隆永、通称:吉之助→善兵衛→吉兵衛→1周回って吉之助)です。
(実は「隆盛」はお父さんの名前…維新後、位階を受ける際に友人が間違って父親の名を提出してしまったため、以後、自ら「隆盛」と名乗る事にしたらしい)←他に菊池源吾や大島三右衛門とかの変名を名乗っている時期もあって、ややこしいので今日は「隆盛」の名前で通させていただきます。
身長は180cm近くあり、(想像画→)
体重も100kgほどあったので、
見た目も大きく、その性格も細かい事にこだわらない大物感を感じさせるような人だったようですが、口数は少なく、重要な事しか話さなかったらしいので、ドラマのようなハッチャケ感は無かったものと思われます。
そんな隆盛は、鹿児島城下では下級武士が住む下加冶屋町(したかじやまち=鹿児島県鹿児島市加冶屋町)にて、薩摩藩の勘定方小頭(かんじょうがたこがしら)という役職の西郷吉兵衛隆盛(きちべえたかもり)の長男として文政十年(1828年)に生まれました。
ドラマでも描かれていたように、12歳の時に仲間と連れだって神社にお参りに行った際、ツレが上級武士の子とケンカし、そのケンカ相手の刀が、仲裁に入った隆盛の右腕を斬ってしまい重傷を負ったとされています(学校からの帰宅途中に暴漢に襲われた説もあり)。
幸いにして命を落とす事はありませんでしたが、傷は神経に達しており、そのせいで刀が握れなくなったために、以後は、剣術ではなく、学問で身を立てて行こうと考えるようになりました。
やがて弘化元年(1844年)=17歳の時に、郡奉行(こおりぶぎょう=知行地の管理&徴税etc担当)の迫田利済(さこたとしなり)を補助する役職=郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に採用されました。
これって・・・「藩の土地を管理して税を徴収する」=農政って事ですから、当然、年貢を納める側の農民とも親しく接する事になるわけで・・・
ここで、武家としては下っ端の下っ端である自分よりも、さらに下にいる農民たちの厳しい実態を垣間見た隆盛が、「何とか年貢を下げてもらえない物だろうか」と迫田に訴えると、真面目で硬派な迫田も同じ思いを抱き、その事を藩に訴えますが聞き入れられず・・・憤慨した迫田は、そのまま辞職してしまいます。
貧乏一家の長子として弟や妹たちを養わねばならない立場の隆盛は、さすがに辞職する事はしませんでしたが、おそらく心の内では、藩政の不合理に対する不満など抱いた事でしょう。
そんなこんなの嘉永二年(1849年)に勃発したのが、現藩主=島津斉興(しまづなりおき)の後継者争いです。
斉興の正室=弥姫(いよひめ=周子)が生んだ長男=斉彬(なりあきら)と、側室=由羅(ゆら)が生んだ五男=久光(ひさみつ)との間で起こった次期藩主の座を巡るお家騒動・・・世に「お由羅騒動」「高崎くずれ」とか呼ばれます(12月3日参照>>)。
結局、このゴタゴタは、密貿易事件や幕府も巻き込んだ末、嘉永四年(1851年)に斉興が隠居して斉彬が第11代薩摩藩主となる事で落ち着くのですが、その過程で、隆盛の父が御用人(ごようにん=庶務係)を務めていた赤山靭負(あかやまゆきえ)が自刃に追い込まれてしまい、この一件は隆盛にとっても大きな衝撃を受ける事件となりました。
一方、その頃に、徳川将軍家から島津家への打診があったのが、後に第13代将軍となる徳川家定(とくがわいえさだ)の正室(継室=いわゆる後妻さん)選びの一件・・・実は、家定は、この時すでに公卿出身の正室を2人、病気で亡くしてしていて、今回の嫁選びは3人目の嫁となるわけですが、先のお2人がひ弱なお育ちとも思える公家のお姫様だった事で「今度こそは丈夫な嫁を」と考え、島津家へ打診したのです。
と言うのも、第11代将軍=徳川家斉(いえなり)が正室に娶った姫が、この島津家出身・・・第8代藩主=島津重豪(しげひで)の娘で、元気で丈夫、夫を見送って72歳まで生きた篤姫(あつひめ=茂姫・後に近衛寔子)という女性だったのです。
もちろん、この篤姫の結婚自体が、それ以前に将軍家から島津へお嫁に来た竹姫(たけひめ)が両家の架け橋となり(12月5日参照>>)、将軍家と島津家の信頼関係を築いて、そのレールを敷いていた結果でもあるわけですが、
とにもかくにも、ここで将軍家が、かの「丈夫な篤姫の血筋」を要望した事で、斉彬は島津一門の中から一人の姫を選ぶ事になるのです。
一方、斉彬が将軍の嫁候補を吟味していたであろう嘉永五年(1852年)、最初の結婚をする隆盛でしたが、それから間もなく、父と母を相次いで亡くし、家督を相続して一家を支えていかねばならない立場となりますが、役職は相変わらず郡方書役助のまんま・・・
西郷家の苦しい家計がいっそう苦しくなる中、皆様ご存じの嘉永六年(1853年)6月・・・「イヤでござるよペリーさん」の黒船来航です(6月3日参照>>)。
さらに、同じ6月には第12代将軍=徳川家慶(いえよし=家斉の次男で家定の父)が死去、その2ヶ月後の8月には、品川沖にて砲台場の建設が開始(8月28日参照>>)されるという慌ただしさMAXの、まさにその頃、斉彬は、一門の島津忠剛(ただたけ)の長女であった一(いち)を家定の正室候補として選び、自らの養女として江戸へと発たせたのです。
彼女は、先の丈夫で長生きな姫にあやかって、その名を篤姫(あつひめ)と改め、家慶亡き今となっては、「将軍御台所候補」として江戸に向かったのでした。
その篤姫が江戸に到着した10月には、ロシアのプチャーチンが下田(しもだ=静岡県下田市)に来航し(10月14日参照>>)、年が明けた嘉永七年(安政元年=1854年)の2月には、早くもペリーさん(2月24日参照>>)が再びの来日を果たし、その騒ぎを鎮静化させるため幕府が黒船見物禁止令を発布(2月3日参照>>)したり・・・
(ちなみに前回放送=第8回の大河ドラマは、まさに「今ココ↑」でしたね(*^-^))
とまぁ、色んな事が目まぐるしく起こる中、この嘉永七年(安政元年=1854年)の3月1日、斉彬ご一行が江戸へと到着・・・そのお供の一人に抜擢され、斉彬の江戸入りに随行していたのが隆盛でした。
以前、かの農政に関する真摯な意見書を提出していた事が斉彬の目にとまっての抜擢です。
斉彬という人は、嘉永四年(1851年)に10年ぶりにアメリカから戻って来たジョン万次郎(まんじろう=中浜万次郎)を手厚くもてなして(1月3日参照>>)藩士たちへの西洋技術の指導を頼んだり、すでに嘉永五年(1852年)の段階で大砲鋳造のための反射炉の建設に着手したり・・・と、かなり先進的な考えの持ち主でしたから、おそらく、その人材登用も、身分にこだわることなく、実力重視で行っていたのでしょう。
そして、この江戸にて、隆盛は「お庭方(にわかた)」という役を命じられます。
これは、その名の通り、斉彬の邸宅の庭園を管理する役職ですが、お察しの通り、それは表向き・・・ドラマ上では主役の特権で、藩主様とも何度か出会って会話し、相撲大会では恐れ多くも投げ飛ばしちゃった西郷どんではありますが、実際には、隆盛の身分があまりに低すぎて、殿様とは直接お話などできない立場だったんですね~
しかし、そんなエライお殿様でも、気晴らしにお屋敷のお庭を散歩なさる事は度々あるわけで・・・そんなお庭の散歩中に、たまたまお庭を手入れしている者に出会い、「この花は何という名じゃ?」ってな声をかける事もあるわけで・・・
そうです・・・斉彬から、公にできないような密命を直接受け、その手足となって江戸の町を駆け巡る・・・これが、隆盛に与えられた使命だったわけです。
この江戸滞在中には、奥さんの実家から離縁の相談を持ちかけられ、1度目の結婚が破たんしてしまうという出来事もあったりしましたが、若き隆盛にとっては、大抜擢してくれた斉彬への恩に感動し、忠誠を誓い、人生の一大転機となった事は確かでしょう。
なんせ、ここは江戸・・・尊王のカリスマ的存在の、あの藤田東湖(ふじたとうこ)(10月2日参照>>)や橋本左内(はしもとさない)(10月7日参照>>)、後に天狗党のリーダーとなる武田耕雲斎(こううんさい)(10月25日参照>>)などなど、時代の最先端を行く人々と出会う事になるのですから・・・
ちなみに、かの篤姫の正式な婚儀が行われるのは、江戸入りから3年後の安政三年(1856年)12月・・・この間に準備された婚礼道具の数々は、贅の限りを尽くした将軍正室の腰入れにふさわしい豪華な品々でしたが、その道具類を吟味するに当たっても、隆盛は大いに活躍したとの事・・・
とは言え、皆様ご存じのように、この後、ほどなく幕末の動乱がやって来る事になります。
安政五年(1858年)7月に、尊敬して止まなかった斉彬が亡くなり(7月16日参照>>)、一時は殉死(じゅんし=主君の死をいたんで臣下や近親者が死を選ぶ事)を決意した隆盛を、清水寺成就院(じょうじゅいん=京都市東山区)の僧=月照(げっしょう)が思いとどまらせますが、間もなく、追いつめられた二人は心中をはかる事に・・・と、そのお話は、未だブログを始めて間もない頃の未熟なページではありますが、11月16日参照>>でどうぞm(_ _)m
★特別公開情報
普段は非公開の成就院(月の庭)ですが、
今年2018年は
●冬の旅イベントの1月27日~3月18日
(10時~16時)
●春の4月28日~5月6日
(9時~16時)
●秋の11月17日~12月2日
(9時~16時、夜間公開=18時~20時半)
の3度、特別公開が予定されています。
(予定は変更される場合もありますのでお出かけの際は事前に再確認を)
清水寺成就院「月の庭」
…西郷と月照が、月影を愛でながら日本の未来を語り合った庭です
(内部は撮影禁止ですので右の庭園の写真は建物正面にあるイベントポスターの転載です)
成就院のくわしい場所は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でご紹介しています>>(←別窓で開きます)
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コメント
いつも楽しく読ませて頂いております。細かい事で上げ足を取るようで忍びないのですが、徳川家慶は第11代ではなく、第12代征夷大将軍では無いでしょうか? 恐らく単純ミスだと推察しておりますが、訂正された方が良いと思いました。
投稿: t5koba24 | 2018年3月 1日 (木) 02時50分
t5koba24さん、おはようございます
アラま…ホントですね~
その前に「11代家斉」って書いてるので11代が二人に…(爆)
ありがとうございます。
書き換えておきましたデス
他にも見つけられましたら、お知らせくださいませm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2018年3月 1日 (木) 05時51分