小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い
天正十二年(1584年)3月12日、小牧長久手の戦いの北伊勢方面の攻防となる亀山城の戦いがありました。
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天正十年(1582年)6月2日の『本能寺の変』によって命を落とした織田信長(おだのぶなが)・・・(6月2日参照>>)
信長と同時に、すでに家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)も亡くなってしまった事から、織田家の後継者は、信長の次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意)か?、もしくは三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)か?と思われましたが、
その3ヶ月後に行われた清州(清須)会議では、変の寸前まで父=信忠とともにた息子の三法師(さんほうし=つまり信長の孫・後の織田秀信)が織田家の後継者と決まり(6月27日参照>>)、炎上した安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間、三男の信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて後見人として三法師を預かるという形で、一旦は落ち着きます。
・・・が、水面下でのモメ事は、すでに動きつつあったのです。
なんせ後継者となった三法師は未だ3歳ですから、実質的には、その後ろにいる誰かが織田家を仕切る事になるわけで・・・
そんな中、かの信孝が、岐阜城に抱え込んだ三法師を、なかなか安土に戻そうとしなかった事から、次男の信雄が不満をつのらせる事になります(12月29日参照>>)。
こうして起こったのが、有名な賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)です。
この後の歴史の流れを知ってる私たちからすれば、どうしても、信長が座りかけた天下のイスを狙う羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、織田家家臣の筆頭である邪魔な柴田勝家(しばたかついえ)を消そうとした戦いのように思っちゃいますが・・・てか、それが一般的な見方かも知れませんが、
もちろん、実際に両者は戦ってますし、秀吉主導の信長の葬儀(10月15日参照>>)の雰囲気や、初の検地を実施したり(7月8日参照>>)なんぞを見ても、秀吉の心の中には、そのような思惑もあったのだろうとは思いますが、あくまで、この合戦開始の時点での表向きは、父の後を継ぎたい三男=信孝と彼を応援する勝家に、「ちょー待て!俺が次男や」と信雄が対抗した戦いで、秀吉は、そんな信雄のお手伝い・・・というのが前提の戦いだったように感じます。
(でないと、信雄は秀吉に協力しないし、信雄という看板無しに秀吉が信孝や勝家を攻撃すれば、謀反扱いになるかもですから…)
で、信雄に攻められた信孝は自刃し(4月23日参照>>)、戦いに敗れた勝家も、奥さん=お市の方(信長の妹)とともに自害しました(5月2日参照>>)。
すでに、この戦いの前から、父=信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)」というハンコを使用し、信長の弟や自分の妹の徳姫(とくひめ=信長の長女・徳川信康室)をはじめとする織田一族を庇護下に置いたりなんぞしていた信雄は、こうして事実上の織田家後継者となったわけですが、ここで、信雄と秀吉の間に亀裂が生じます。
なんせ、信雄を後押してたはずの秀吉が、上記の一連の過程で、かなりの力をつけてしまっていて、この前年の天正十一年(1583年)には、かの清州会議で得た大坂の一等地に、巨大な大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)まで築城しちゃったりしてますから・・・
で、そんな中で事件が起こります。
どこかの誰かの画策で、その方向に行っちゃったのか?
それとも、複数の誤解が重なって、そうなっちゃったのか?
いやいや、自らが率先して、秀吉と対立する気になったのか?
そこらへんの心の内は本人のみぞ知るところでしょうが、とにもかくにも、天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)に重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害してしまうのです(3月6日参照>>)。
これはつまり・・・秀吉との縁を切る=秀吉に宣戦布告したという事になるわけですが、そんな信雄にも、もちろん勝算はあります。
なんせ、今、秀吉側にいる者も、もとはと言えば、お父ちゃん=信長の配下だったわけですし、今回は、信長の死後には、宙に浮いた武田の旧領を切り取る事に目を向けていて(10月29日参照>>)、西の出来事(賤ヶ岳etc)を静観していた大物=徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけてますから・・・
かくして、その重臣殺害事件から、わずか3日の3月9日・・・信雄から伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)の守備を命じられた佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)&山口重政(やまぐちしげま)らは、松ヶ島城への道すがら、5000余の兵力で以って、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)&一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)に押し寄せたのです。
この亀山城は、前年の賤ヶ岳の時には、滝川一益(たきがわかずます)方の佐治新介(さじしんすけ=一益の従弟の滝川益氏と同一人物か?)が、関盛信から奪ったものの、その後の戦いの経過により、戦後は再び関盛信が預かっていた城だったのですが、もともと秀吉にとって北伊勢を守る重要な位置にあるばかりか、今回の相手が信雄&家康となれば、特に重視しなければならない城だったわけで・・・
とは言え、今は、単に松ヶ島城へ向う道すがら・・・この日は城下に放火して回っただけで、本格的な城への攻撃は無かったものの、これは、あくまで、宣戦布告した信雄側のごあいさつなわけで、当然、このままでは終わりません。
かくして天正十二年(1584年)3月12日、信雄方の林正武(はやしまさたけ=神戸与五郎)率いる500の軍兵が亀山城を奇襲したのです。
実は、この時、秀吉軍の主力は、未だ、その修復が未完成でありながらも信雄方が北伊勢の守りの拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を、修復が完了する前に崩すべく準備していたところだったので、逆に、この亀山城の守りは手薄になっていたのです。
もちろん、信雄方は、そこを狙って先制攻撃を仕掛けて来たわけですが、一方の守る亀山城は、関盛信父子以下、名のある武士は、わずか13名・・・何とかせねばなりません。
そこで盛信は、侍だけでなく卒(足軽とか)も合わせた2~30名の部隊を編成し、敵勢を引きつけたところで、城下に放火・・・その煙に紛れて敵へと撃って出たのです。
煙で何も見えない中、城兵の数を把握できない林勢は、前に進むどころか、その気勢に圧倒されて後ずさり・・・混乱してワケがわからないまま、それぞれ近隣の村々へと退却して行ったのです。
敵の退却を確認した盛信は、深追いせず、急ぎ兵を城へと戻し、すぐさま、籠城戦への備えを固めます。
しかし、その後に籠城戦となる事は無く、結局、信雄方は、そのまま亀山城攻めを断念する事になります。
そうです。
実は、この亀山城の戦いと同じ日の深夜に決行されたのが秀吉方による奇襲=犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)・・・秀吉VS家康の一連の直接対決として有名な、あの小牧長久手(こまき&ながくて)の戦いの勃発となるわけです。
しかも、犬山城が秀吉勢の手に落ちた翌日の14日には、準備していた峯城への攻撃も開始し、翌15日には、この城も秀吉方が制圧しています。
ご存じのように、小牧長久手方面での個々の戦いは微妙・・・というより、負けた感が濃い秀吉ですが、ここ北伊勢方面では、この後、松ヶ島城をも落としているのです【(3月19日参照>>)。
まぁ、結局、この小牧長久手の戦いは、大きな合戦だったワリには、信雄の単独行動によって勝敗がハッキリしないまま終わっちゃうんですけど・・・そのお話は、下記のそれぞれのページでご覧あれm(_ _)m
小牧長久手・関連ページ
●3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い←今ココ
●3月13日:犬山城攻略戦>>
●3月14日:峯城が開城>>
●3月17日:羽黒の戦い>>
●3月19日:松ヶ島城が開城>>
●3月22日:岸和田城・攻防戦>>
●3月28日:小牧の陣>>
●4月9日:長久手の戦い>>
:鬼武蔵・森長可>>
:本多忠勝の後方支援>>
●4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
●5月頃~:美濃の乱>>
●6月15日:蟹江城攻防戦>>
●8月28日:末森城攻防戦>>
●10月14日:鳥越城攻防戦>>
●11月15日:和睦成立>>
●11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
●翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
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コメント
これでいよいよ小牧長久手編もコンプリートという感じなのでしょうか!おめでとうございます
徳川義直が小牧長久手に興味を持ったということですが、確かに他家の力を借り過ぎな関ケ原、大混乱の大坂夏の陣に比べて、かっこよい戦いという感じはしますよね。
投稿: ほよよんほよよん | 2018年3月14日 (水) 17時30分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
次回に、今回の続きとなる松ヶ島城のお話を書いております(*^-^)
あと、昔々に書いたページを、もうチョイ詳しく書きなおししたい部分もあるのですけど…いつになる事やら
投稿: 茶々 | 2018年3月15日 (木) 01時14分