久米田の戦い~三好実休が討死す
永禄五年(1562年)3月5日、久米田の戦いで三好実休が討死しました。
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室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の主導権争いに打ち勝って政権を握った細川晴元(はるもと)に対し、天文十八年(1549年)に江口の戦い(6月4日参照>>)にて勝利して彼を近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)を拠点として畿内を掌握し、京都には重臣の松永久秀(まつながひさひで)を所司代として置き、晴元に代わる政権を樹立したのです。
さらに、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)を味方につけて敵対していた第12代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる=義晴の息子)とも、永禄元年(1558年)の白川口の戦い(北白川の戦い)(6月9日参照>>)をキッカケに和睦し、事実上の天下人となった長慶・・・
しかし、そんな全盛期真っただ中の永禄四年(1561年)5月、これまで長慶の右腕として活躍してくれていた弟で岸和田城(きしわだじょう=言大阪府岸和田市)主の十河一存(そごうかずまさ・かずなが=長慶の3番目の弟)を亡くします(5月1日参照>>)。
これまでに畿内を追われた敵方の面々が、この有能な弟の死を挽回のチャンスと見るは必至・・・
案の定、かの六角義賢は、晴元に代わる息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのですが、これが永禄四年(1561年)11月の将軍地蔵山の戦い(11月24日参照>>)です。
そのページで書かせていただいたように、近江(おうみ=滋賀県)に拠点を持つ義賢は、滋賀と京都の間にある将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って・・・つまり、北東から京都を攻めるスタイルに・・・
一方、この時、その義賢と連携して、南から同時攻撃しようと動いたのが、紀伊(きい=和歌山県)&河内(かわち=大阪府東部)の守護でありながら、事実上、河内を三好家に掌握されていた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長>>の曾孫)でした。
この時、飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市)にて指揮を取る長慶は、息子の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)とともに松永久秀らを地蔵山城の備えとして北へ向かわせ、すぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)らを、岸和田城の備えとして南へ向かわせました。
一存亡き後、この岸和田城を治めているのは、長慶2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=長慶の2番目の弟)・・・
弟のピンチに駆けつける実休は、三好長逸(ながやす=三好三人衆)や三好政康(まさやす=同三人衆・政勝・政生・宗渭)らなどの三好一族とともに、阿波(あわ=徳島県)や淡路(あわじ=兵庫県淡路島)の軍勢を加えた7000余を岸和田に集結させますが、すでに、岸和田城が畠山勢に包囲されていたため、少し離れた久米田寺(くめだでら=大阪府岸和田市)周辺に布陣し、貝吹山城(かいぶきやまじょう=同岸和田市)に本陣を置いたのです。
京都側の地蔵山の戦いと同じ=まさに永禄四年(1561年)11月24日のその日、コチラ和泉(いずみ=大阪府南西部)側でも戦闘が開始されますが、コチラは三好勢がやや劣勢・・・
対峙と小競り合いを繰り返しつつ、12月25日には、飯盛山城の支城であった三箇城(さんがじょう=大阪府大東市)が畠山勢と、それに加勢する根来衆(ねごろしゅう=和歌山県岩出市の根来寺周辺の宗徒)の奇襲に遭って陥落し、城主の三好政成(まさなり=政康の兄で三好の重鎮)が討死してしまいます。
年が明けた永禄五年(1562年)になっても、京都方面は、両者の一進一退が続くも、コチラ和泉は、どうも三好の分が悪い・・・
『西國太平記』によれば、
そんな小競り合いのさ中の、ある日、実休は不思議な夢を見たと言います。
それは、以前、自らの手で死に追いやった阿波守護の細川持隆(もちたか=晴元の従兄弟)が夢枕に現れ、実休を殺そうと刀を向けたという物・・・
(【細川持隆自害~小少将の数奇な運命】参照>>)
「このまま斬られるわけにはいかぬ!」
とばかりに、実休は、取りあえずの時間稼ぎをすべく
「わかった!わかったけど、死ぬ前に時世の句を詠ませてくれ」
と言って、夢の中で句を詠みます。
それが
♪草枯らす 霜又今日の 日に消えて
因果はここに 巡り来にけり ♪
「今日、露のように消えて行くのも、これまでして来た事の報いなんや」
句を詠み終えて、覚悟を決めた所で、夢が覚めた・・・にしても、我ながら不吉な句を詠んだ物やなぁ、と思いつつ、この話を、弟の安宅冬康にすると、
「確かに不吉な夢ですが、それは、きっと逆夢やと思います。ご心配なら、俺が、歌を返して、不吉な歌の厄払いをしましょう」
と・・・
♪因果とは はるか車の 輪の外に
巡るも遠き 三好野々原 ♪
「俺らは、因果が巡る場所からメッチャ遠い所にいてます」
と詠んで、兄を勇気づけたのだとか・・・
そんなこんなの
永禄五年(1562年)3月5日、日付が変わった真夜中の0時、実休らの布陣する久米田に畠山勢が夜襲をかけたのです。
両者激しくぶつかり合う中、三好配下の篠原長房(しのはらながふさ)らが撃って出て根来衆の一団を崩します。
この勢いに乗じて押せ押せムードの三好勢・・・しかし、ここで三好の諸隊が一気に敵陣に撃って出たため、逆に総大将の実休の周辺が馬廻りや旗本のみの100騎前後と手薄になってしまいました。
ここを見逃さなかった畠山・・・この隙間を突いて実休めがけて突撃します。
『細川両家記』によれば、これを迎えた実休は、大傷を負いながらも一歩も退かず、そのまま周辺の30余名ともども、討ち取られたと言います。
『厳助大僧上記』では、「鉄砲により…」と記され、根来衆の放った鉄砲が致命傷となったとなっています。
こうして大将を討ち取られた三好軍は総崩れとなり、篠原長房や三好長逸らは、追撃して来る畠山勢をかわしながら飯盛山城へと敗走・・・安宅冬康も淡路へと逃走して行きました。
ただし、『常山紀談』によれば、
この日、飯盛山城にて連歌会に出席していた兄の長慶が、ちょうど、
♪すゝきにまじる 蘆の一むら…♪
「ススキの大群の中の蘆(あし)の一群が…」
という句に、出席者の誰もが、次の句を付けあぐねて、皆がしばらく考え込んでいた状態だった時、ふと届いた書状に目をやりながら、
♪古沼の あさき潟より 野となりて…♪
「古い沼が浅い方から野原に変わって…」
と、次の句を付け加えた後、
「実休が討死にしたと言う…今日の連歌は、これにて…」
と、すぐさま、弟の仇を討つべく、兵を率いて出陣し、見事、畠山勢を破っています。
また、この和泉周辺での畠山勢の敗北を知った、京都の六角勢も、一旦、近江へと退いていますので、弟を失ったとは言え、未だ、この時点では三好の強さは維持されていたわけですが、ご存じのように、このあたりから三好家内では、家臣の松永久秀が力を持ち始め(11月18日参照>>)、やがて織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)によって決定打を放たれる事になるのですが・・・(9月28日参照>>)
ところで・・・
先程の実休が見た夢の話・・・
微妙に違う複数の逸話が残っているので、その真偽のほどはわかりませんが、実際に、
♪草枯らす 霜又今日の 日に消えて
報いのほどは 終(つい)に逃れず ♪
というのが、三好実休の時世の句とされ、どうやら、実休は本当に、敵将を死に追いやった自責の念にかられていたのではないか?と言われています。
以前、長兄の三好長慶さんのページでも
【やさし過ぎる戦国初の天下人…】>>
と題する記事を書かせていただきましたが、もし、本当に「自責の念にかられていた」のだとしたら、やはり、三好家の人々は、兄も弟も・・・戦国に生きるには難しいほどにやさしい人たちだったのかも知れません。
血で血を洗う戦国の世において、「これで良いのか?」と自問自答しながらも、殺らねば殺られる現状に奮起して生きていたのかな?と・・・ふと、
とは言え、実際問題として、そんなに弱気では戦国武将としてやって行けないし、ここまでの勢力を維持する事はできないでしょうから、あくまで話半分の逸話という感じなのかも・・・
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コメント
三好家が天下を保てなかった理由については分かりづらいですが
個人的に感じるところとしては、宿敵細川家をけん制する為に、足利家を一足飛びに介入させすぎ、あるいは信頼しすぎたのが間違いの元ではないかと思っています
足利家からすると三好家のネゴシエーションは順序が違うと言いたかったのではないでしょうか。
投稿: ほよよんほよよん | 2018年3月 5日 (月) 21時24分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
そうですね~
細川は守護で三好は守護代ですからね~
三好家の思う上下関係で言えば、足利将軍家は別格の上位だけれど、守護と守護代は上下というよりライバル的な感じがあったのかも…とも思います。
投稿: 茶々 | 2018年3月 6日 (火) 01時45分
三好実休の家臣、宇山石見守重時をご先祖とするU氏です。久米田の戦いにて主君とともに討ち死にしました。法名号二秀山享年五十九歳。ご先祖様に感謝です。南無阿弥陀仏
投稿: 三好家臣団 | 2019年4月24日 (水) 20時00分
三好家臣団さん、こんにちは~
そうですね。
ご先祖様がいるからこそ、今の私たちがあるわけですから…感謝ですね。
投稿: 茶々 | 2019年4月25日 (木) 10時00分