徳川家康、徹底根絶やし~気賀堀川城一揆
永禄十二年(1569年)3月27日、徳川家康の最大の汚点とも言われる気賀・堀川一揆がありました。
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昨年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、その賑やかさが記憶に新しい気賀(きが=浜松市北区細江)。
ドラマでもあったように、この町は、南に浜名湖(はまなこ=静岡県浜松市から湖西市)を持ち、東に川が流れ、北を街道が通るという陸路&水路の便利さがあるとともに、満潮になると周辺が湿地帯となるその地形が天然の要害であった事から、古くから人の往来する交通の要所として栄えていました。
しかし、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時「東海一の弓取り」と称されていた遠江(とおとうみ=静岡県西部)の支配者=今川義元(いまがわよしもと)が織田信長(おだのぶなが)に討たれると、息子の今川氏真(うじざね)が後を継ぐも、義元時代のような勢いは徐々に薄れつつあった今川家・・・
そこを狙ったのが、隣国=甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)と、かの桶狭間キッカケで今川から独立(2008年5月19日参照>>)した三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)でした。
永禄五年(1562年)に尾張(おわり=愛知県東部)統一(11月1日参照>>)を果たした信長は、この二人を結びつけ、やがて信玄と家康は阿吽の呼吸で以って遠江に侵攻を開始するのですが・・・
この家康の動きを知った土地の人々が、その侵攻に備えるために構築したのが、今回の堀川城(ほりかわじょう=静岡県浜松市北区細江町気賀)です。
土地の者が自分たちで建てた・・・という経緯から、おそらくは城というよりは砦のような物であったと思われますが、それ故、築城年数も、その様相も、ほとんどわかっていません。
ただ、『瀬戸文書』に残る永禄十一年(1568年)9月14日付けの氏真が発給した「徳政令を凍結する」旨の書かれた瀬戸方久(えとほうきゅう)宛ての安堵状には、
「…然者今度新城取立之条…」
と、新しい城を建てる?or建てた?事が記されていますので、おそらく、この頃に構築したとみられます。
以前、この3年後に起こる「伊平・仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)の戦い」のページ(10月22日参照>>)で、この家康の遠江侵攻の時、近藤康用(こんどうやすもち)をはじめとする井伊谷三人衆(いいのやさんいんしゅう)が道案内をしたと書かせていただきましたが、このように、遠江には、家康の侵攻を歓迎する者もいた反面、その仏坂で戦いがあった事でもお察しのように、家康の侵攻を拒む者も多くいたのです。
なんせ、もともとが今川の領地ですから・・・
そんな中、ここ気賀は後者=家康の侵攻を歓迎しない立場にあったのですね。
おそらく堀川城が構築されたであろうその永禄十一年(1568年)には、暮れの12月12日に、信玄が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)で今川とぶつかり、翌日の13日には氏真の居館=今川館を攻撃(12月13日参照>>)・・・やむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川))へと逃げる氏真を、今度は家康が包囲したのが12月27日の事でした(12月27日参照>>)。
これだけの今川相手の合戦が行われれば、当然、戦いに敗れて、気賀に落ちて来る者も多数・・・やがて、それらの今川の落武者たちに扇動されるように、気賀の住人は堀川城に立て籠もり、家康の支配に抵抗する事になります。
一説には、この頃、気賀には3000人ほどの住人がいた中、そのうちの約2000人~2500人が堀川城に籠城したとも言われています。
「気賀一揆」あるいは「堀川一揆」や「堀川城の戦い」とも呼ばれる、この籠城戦・・・もちろん、ここには、近隣の土豪(どごう=半士半農の土着武士)は当然、商人や農民、非戦闘員とおぼしき女子供も含まれています。
この時、籠城戦を率いていた大将とされるのは、今川の家臣で、当時、居城の堀江城(ほりえじょう=静岡県浜松市西区)を家康勢に攻められていた大沢基胤(おおさわもとたね)の被官(ひかん=部下)であった尾藤主膳(びとうしゅぜん)と山村修理(やまむらしゅり)らであったとか・・・
『常山紀談』によれば・・・
堀川城に籠った彼らは、家康の暗殺を企てていたところ、「三河に戻る徳川軍が城の近くを通る」という情報を入手・・・
鉄砲にて討ち取らんと構えていたところ、その事を知らない家康が、無防備に、わずか7騎でその場所を通過・・・あまりの数の少なさに、一揆勢は、それとは知らずやり過ごして、「家康はまだか?」と、そのまま待ち構えていましたが、やがて、その後を石川数正(いしかわかずまさ)の大軍が通ったのを見て、やっと
「さては、もう家康は通り過ぎてしまったか…」
「簡単に討つ事ができたはずの好機を逃してしまった」
と大いに悔やんだ・・・さすが、神君家康公は神仏に見守られておる!
てな逸話が残ってますが・・・
さすがに、これは、後の江戸開幕を知ってるからこその家康ageでしょうが、長引く掛川城攻防戦のさ中に、家康が、堀川城の近くまで来たのに攻撃せず、一旦、三河に戻ったという話は確かな事で・・・実は、家康は干潮が最大になるのを待っていたのだとか・・・
そう、先にも書かせていただいた通り、この堀川城は、浜名湖のほとりに建っており、満潮の時には、舟で自由に出入りができるものの、干潮時には1ヶ所の出入口でしか通行できなかったのです。
かくして永禄十二年(1569年)3月27日、干潮時を狙って、約3000の家康軍が堀川城に一斉に攻撃を仕掛けます。
ちなみに、『浜松御在城記』には、「辰ノ三月七日」に堀川城への攻撃があったと記載されている事から、「辰の年=永禄十一年(1568年)」なので、「永禄十一年(1568年)の3月7日に1度めの堀川城への攻撃があった」とする説もありますが、上記の通り、遠江への侵攻が始まるのが永禄十一年(1568年)の12月頃からなので、それ以前の攻撃というは、おそらく無かった物と思われます。
とにもかくにも、上記の通り、干潮時には、ほとんど逃げ場が無かった堀川城・・・
『三河物語』によれば・・・
この戦いで1番乗りの大活躍をした17歳の若武者=大久保忠栄(おおくぼただなが・ただひで)が、一揆勢の鉄砲に当たって討死したした事とともに、
「男女供ニナデ切リニゾシタリケル」
と、かなりの人数の籠城組を撫で斬り(なでぎり=たくさんの人を片端から切り捨てる事)にした事が記されています。
一説には、このわずか一日の戦いで戦死した一揆勢の人数は1000人に達したのだとか・・・
その後、生き残った者の探索が行われ、捕縛された700人が半年後の9月9日に処刑され、その全員の首を、堀川城近くの小川に沿った土手に並べて晒したとの事・・・その場所は「獄門畷(ごくもんなわて)」と呼ばれ、現在も、「堀川城将士最期の地」と刻まれた慰霊碑が建っています。
に、しても、住人が3000人ほどいて、そのうち約2000人~2500人が立て籠もって、1日の合戦で1000人が死んで、逃げたうちの700人が討首って・・・ホンマかいな?と思われる数字ですが・・・
そもそも、一般市民のほとんどが立て籠もるなんて事があるのか?
いや、「立て籠もる」というよりは、「そこに避難して来た」という事なら、あり得るかも知れません。
また、立て籠もった中で武士は100人ほどだったとも言われていますので、その多くが非戦闘員レベルの農民や女子供なら、一日の戦闘で1000人が討死にというのも、あり得るかも知れません。
ただ、捕縛された700人が一斉に斬首というのは・・・
もちろん、700人が一斉に捕まるわけでは無いので、約半年で何人かずつなのでしょうが、そんなに多くの者を押し込めておく場所は?
そもそも、住民がそんなに死んで、その後の気賀はどないなったん?
と、色々な疑問が残りますが・・・
ただ、この『三河物語』は徳川方の記録ですし、他の文献にも、かなり悲惨な状況だった事が記されていますので、やはり、この堀川城で、厳しい一件があった事は確かであろうと考えられており、今でも、その残虐さに、
「家康、やり過ぎ」とか
「家康、最大の汚点」とか
って言われる一件でもあります。
とは言え、この堀川城の一件は合戦というより一揆・・・一揆と言えば、家康は、この6年前に、あの三河一向一揆(みかわいっこういっき)(9月5日参照>>)を経験しています。
徳川を真っ二つに分け、徳川の存続が危ぶまれるほどの経験をした家康にとって、その記憶は鮮明に残っているでしょうから、「中途半端なやり方では根を残す」とばかりに、徹底的に根絶やしにした・・・という事なのかも、
いずれにしても、その残虐さ非情さも、現在の価値観と同じ物差しでは測れない物であります。
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