秀吉の中国攻め~播磨英賀城の戦い
天正八年(1580年)4月1日、織田信長の命で中国攻略中の羽柴秀吉が播磨英賀城を攻撃しました。
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天正元年(1573年)・・・7月に第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)に攻め(7月18日参照>>)、翌8月には越前(えちぜん=福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)と、北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)(8月28日参照>>)を倒し、天正三年(1575年)には、甲斐(かい=山梨県)の名門・武田勝頼(たけだかつより)を長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)(5月21日参照>>)に破った織田信長(おだのぶなが)・・・
そんな上り調子の信長の目下の敵は、
かつて畿内を掌握していた三好(みよし=三好長慶の一族)相手に戦っていた野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の合戦キッカケで「対信長戦」に参戦して来た(9月12日参照>>)本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が扇動する一向一揆=本願寺門徒との抗争。
長島一向一揆>>に、
越前一向一揆>>と、
各地で起こる一向一揆をせん滅して行く信長でしたが、天正四年(1576年)、その一向宗徒の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦い(6月3日参照>>)で、本願寺側に味方し、まんまと兵糧を運び込んだ(7月13日参照>>)のが安芸(あき=広島県)の毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)でした。
ここに来て本願寺と和睦し、再び北陸に手を出して来た越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)(8月4日参照>>)が東の強敵なら、この毛利は西国一の大大名・・・なんせ、信長に追放された足利義昭も、この頃には、この毛利を頼ってますしね。。。
これは、何とかせねばなりません。
そこで信長は、北陸方面を柴田勝家(しばたかついえ)に(9月18日参照>>)、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)の平定を明智光秀(あけちみつひで)に(10月29日参照>>)当たらせるとともに、すでに赤松則房(あかまつのりふさ)や小寺政職(こでらまさもと=黒田官兵衛の上司)などの播磨(はりま=兵庫県南西部)の諸将を味方につけつつあった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に中国地方の攻略を命じたのです。
以来、赤松政範(あかまつまさのり)の上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)(11月29日参照>>)や、その支城の福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)、今や「天空の城」として大人気の竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市)(10月23日参照>>)などの西国攻略を進める秀吉でしたが、
その上月城に、当時は毛利配下であった備前(びぜん=岡山県東南部)の宇喜多直家(秀家の父)がチョッカイ出したり、味方だと思っていた別所長治(べっしょながはる)が三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)で籠城したり(3月29日参照>>)と一進一退です。
年が明けた天正八年(1580年)1月にやっとこさ三木城を攻略しますが、この間に上月城が毛利の手に落ち(5月4日参照>>)、守りを任されていた出雲(いずも=島根県)の名門=尼子(あまご)氏も滅亡(7月17日参照>>)・・・そこで、鉾先を東播磨から西播磨へと向ける秀吉でしたが、
一方で、この三木城籠城戦が続いた、この2年の間に、信長が石山本願寺戦に鉄甲船を出して来たり【(11月6日参照>>)、信長に反発して有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠った荒木村重(あらきむらしげ)が開城させられたり(12月16日参照>>)、逆に反信長の最大勢力だった上杉家が謙信という大黒柱を失い継者を巡って内輪もめ(3月17日参照>>)し始めたり・・・てなアレコレが、その気持ちを変えさせたのか?ここに来て、毛利配下だった宇喜多直家が降伏して(10月30日参照>>)織田に寝返っていたのです。
この直家の寝返りを受けて、毛利が攻撃目標を播磨から美作(みまさか=岡山県北東部)へと変更した事を受けて、一旦、本拠の長浜(ながはま=滋賀県長浜市)に帰還していた秀吉は、再び軍勢を率いて播磨に戻り、閏3月2日には、備前との国境付近に陣を張りますが、この動きを見た毛利方の吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)と小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男) は、「秀吉と直家の両方を相手にするには態勢を整えねば!」と1度撤退する事に・・・
秀吉の播磨平定・関係図
←クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
そこで秀吉は、兵を西播磨に戻して、織田から毛利へと寝返った宇野政頼(うのまさより)&宇野祐清(すけきよ)父子の長水城(ちょうずいじょう=兵庫県宍粟市山崎)と、三木通秋(みきみちあき)の英賀城(あがじょう=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)を攻める事にしたのです。
この英賀という場所は、かつて本願寺の蓮如(れんにょ)上人が播磨での布教活動の拠点とした場所で、当時は英賀御堂(あがみどう)と呼ばれる壮大な伽藍を中心にする本願寺門徒衆の強い土地・・・ここを抑える事は、未だ交戦中の石山本願寺(石山合戦はこの年の8月に終結>>)にも少なからず影響を与えるはず・・・
かくして天正八年(1580年)4月1日、秀吉は2万余兵で以って英賀城を攻撃するのです。
ちなみに、この英賀城攻防戦は、
『英城日記』では、「かなり苦戦した秀吉が、和睦交渉で以って内応者を作り、やっとこさ2月13日に落とした」となっているのですが、
『信長公記』では、「はなから戦う気が無かった通秋が、そそくさと舟で逃亡してしまったため、戦闘らしい戦闘もなく4月26日に陥落した」となっています。
アレレ?両者の言い分の食い違いったらww
まぁ誰だって、味方のほうをカッコ良く下記残したいですからね~
そんな中、今回は4月1日の日付で書かせていただきます。
というのは、直家宛ての秀吉の書状に
「英賀城の八町(約900m)西に土塁が築かれていたのを4月1日に奪取してぶっ壊したった」と自慢げに報告しいるので・・・もちろん、これも自分をカッコ良く書いてるのかも知れませんが、何たってご本人の書状なので、とりあえず、今の所は1番確かな事ではないかと・・・
これに対し、英賀側では、やはり
「英賀が落ちたら、石山本願寺もタダでは済みまへんで!」
と、本願寺方の下間頼廉(しもつま らいれん=石山本願寺の坊官)に雑賀(さいが・さいか)衆による300~500挺の鉄砲隊を援軍として派遣してくれるよう要求しています。
秀吉の英賀城攻略図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
一方、上記の通り、4月1日に英賀城の土塁を破壊して西の丸を奪取した秀吉方でしたが、英賀城は東西に二つの川が流れ、南は播磨灘に面した湿地帯という自然の要害の地・・・容易に攻められる物ではありませんでした。
そこで秀吉は、陸上ではなく、船で海上から奇襲をかける作戦を実行・・・フイを突かれた英賀城内は大混乱に陥り、この時の戦いで800人以上の戦死者を出してしまって、あえなく陥落します。
城主の通秋は、落城の混乱のさ中の4月24日・・・舟で城を脱出し、海路で九州へと落ちのびたという事です。
(フムフム…ここは『信長公記』と一緒ですな)
史料によって少しずつ内容が違うので、未だ謎多き英賀城攻めですが、この英賀城と長水城(長水城攻防戦は2015年4月25日参照>>)を落とした事で、秀吉の播磨平定は一応完了・・・信長の命による西国攻略は次の段階へ進む事になります。
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