永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…
永享十三年(1441年)4月16日、幕府に反発した結城氏朝らによる結城合戦で、結城城が陥落しました。
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南北朝の不穏な空気が収まらなかった事から、本拠地が関東でありながら京都にて幕府を開く事になった足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)は、将軍職を三男の義詮(よしらきら)に継がせ、四男の基氏(もとうじ)を鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東の支配を任せます(9月19日参照>>)。
以来、室町幕府将軍は義詮の息子らが、鎌倉公方は基氏の息子ら継いでいくわけですが、応永三十二年(1425年)2月に、第5代将軍の足利義量(あしかがよしかず)が若くして亡くなった事で、後継者選びが難航し、結局、くじ引きで決まった足利義教(よしのり)が第6代将軍となります(2016年6月24日参照>>)。
この決定に不満を持ったのが、第4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)・・・「将軍家に物申さん」と上洛を思案する持氏を関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)=上杉憲実(うえすぎのりざね)が静止しますが、これがキッカケとなって持氏と憲実との溝が深まり、とうとう持氏が挙兵したところを、将軍=義教が派遣した幕府軍に攻められ、永享十一年(1439年)2月10日、持氏は自刃・・・続いて嫡男の義久(よしひさ)も自害に追い込まれました。
これが永享の乱(えいきょうのらん)と呼ばれる一件です(くわしくは2018年2月10日参照>>)。
こうして公方が不在となった関東は、憲実はじめとする重臣たちが政務をこなすことになりますが、不仲になったとは言え、上司として仰いでいた持氏を自刃にまで追い込んでしまった事に悩む憲実は、関東管領職を辞任し、伊豆にて隠居してしまいます。
次の鎌倉公方に、自らの息子を派遣しようと考えていた義教でしたが、信頼できる憲実がいないとなると、可愛い息子を関東にやるのは不安・・・もちろん、このまま上杉家の家督が宙に浮いたまま、というわけにもいかず、
とりあえず、上杉の本拠である越後(えちご=新潟県)にいた憲実の弟=上杉清方(きよまさ・きよかた)が関東に入り、上杉家の中心となって、何とか関東も落ち着きを取り戻します。
しかし、もともとは公方として関東を支配していた持氏・・・当然の事ながら、その息のかかった者たちは、持氏が死のうが嫡男が果てようが、そのへんにウジャウジャいるわけで・・・
翌・永享十二年(1440年)正月、持氏派の一部の者が決起し、これをキッカケに関東の諸将が動きはじめ、3月には、持氏の次男&三男である春王(しゅんのう・はるおう)と安王(あんのう・やすおう)が常陸(ひたち=茨城県)で蜂起した事を知った結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)の結城氏朝(ゆうきうじとも)が、彼らを自らの城へと招き入れ、幕府に対抗する姿勢を見せたのです。
それによって、持氏に恩義を感じている武将たちが、続々と結城城に集まって来ました。
この動きを知った京都・・・早速、将軍=義教の命により幕府軍が編成される一方で、隠居していた憲実も鎌倉へと戻り、弟=清方を大将とする討伐軍が鎌倉を出発したのです。
まさに関東が一触即発状態のこの5月15日、大和(やまと=奈良県)で事件が起こります。
もともと、興福寺(こうふくじ)や春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和の地は、やがて興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代に『衆徒』の筒井(つつい)氏が北朝につき、『国民』の越智(おち)氏が南朝についた事で、南北朝が終わった後も、未だ両者の争乱はくすぶり続けていたわけですが、
ご存じのように、室町幕府は北朝・・・って事で、将軍=義教は、配下の一色義貫(いっしきよしつら)&土岐持頼(ときもちより)らを越智討伐軍として大和に派遣するのです。
一節には、「今回の永享の乱や、その後の結城の動きに同調するような動きが越智氏にあった」とも言われていますが、そこはハッキリしないものの、とにかく一色義貫&土岐持頼は、義教の命令で以って、幕府軍を率いて大和に来ていたわけです。
ところが、この二人が、その大和にて殺害されてしまいます。
それも、越智との合戦で、ではなく味方に・・・
一色義貫は安芸武田(あきたけだ=広島県)氏の武田信栄(たけだのぶひで)に朝食を誘われて向ったところ、その席で襲われ、側近たちが討たれた後に義貫は自害・・・陣中に残っていた息子や家族たちも細川持常(ほそかわもちつね)に襲撃され、こちらも討死もしくは自害しました。
一方の土岐持頼も・・・コチラは伊勢(いせ=三重県中北部)の長野(ながの=長野工藤)氏の者に討たれたと言われています。
さらに翌日には、京都にあった一色義貫の邸宅が一色教親(のりちか)に襲撃され、出陣せずに残っていた息子たちも捕えられてしまいました。
いずれも、一色義貫&土岐持頼にとっては、これまでともに戦って来た仲間たち・・・教親なんかは義貫の甥っ子ですし・・・
しかし驚くのは、その後の采配・・・死んだ義貫は若狭(わかさ=福井県南部)・丹後(たんご=京都府北部)・三河(みかわ=愛知県東部)の守護だったわけですが、この事件後、その若狭の守護となるのは武田信栄、丹後の守護は一色教親、三河の守護には細川持常、そして土岐持頼の伊勢守護も一色教親が獲得します。
もっと先の戦国も群雄割拠する頃になると、力ずくで守護を倒して自らがその領地を統治する=下剋上で支配する武将なんかもいますが、彼らとて、あくまで自称=勝手に守護の役割を分捕って実行してるだけで、正式な守護では無い・・・なんせ、正式な守護は幕府=将軍が決めるはずですから・・・
つまり、この結果を見る限り、一色義貫&土岐持頼の殺害は、将軍=義教の命令だった事になるわけで・・・とは言え、関係者以外、誰も、「将軍が命令を出した」という確かな事はわからないわけで、結局、疑惑を持ちながらも表面上は何事も無かったように政務は続けられました。
まぁ、あまり騒ぎ立てると、今度は自分に火の粉が降りかかって来るやも知れませんからね~
そんなこんなの6月24日、今度は東北で事件が起こります。
第2代鎌倉公方=足利氏満(うじみつ)の息子で篠川公方( ささがわくぼう)と称された足利満直(みつなお・みつただ)が、奥州の諸将に襲撃され自殺したのです。
この満直という人は、第3代鎌倉公方である兄の足利満兼(みつかね)の命を受けて、足利による東北支配を強固にすべく派遣され、篠川御所(ささがわごしょ=福島県郡山市)にて政務を行っていた人物・・・なので、永享の乱で死んだ持氏とは叔父⇔甥の仲になるわけですが、その永享の乱の時は幕府より錦の御旗(にしきのみはた=官軍の証)を頂いて、持氏を攻める側に回っていたわけで・・・
なので、春王&安王らの命を受けた奥州石川(おうしゅういしかわ)氏をはじめとする持氏派の諸将の襲撃に遭ってしまったわけです。
それから間もなくの7月頃、かの上杉清方を総大将とする幕府軍が結城城の周辺に集結しはじめます。
それは、関東はもちろん、上州(じょうしゅう=群馬県)・武州(ぶしゅう=東京都・埼玉県)に越後や信濃(しなの=長野県)などなど、まさに東国の幕府軍を総動員したほどの大軍であったようですが、対する結城城側だって、すでに持氏恩顧の武将たちが集結していたわけですから、堅固な造りの結城城は、そう簡単に落ちはしませんでした。
長引く籠城戦・・・睨み合いが続く中、幕府側ではいつ総攻撃をかけるべきか?の話し合いが何度も行われますが、何も決定しないままズルズルと時が過ぎるばかり・・・
やがて、年が明けた永享十三年(1441年)元旦には、逆に結城城内から撃って出た兵に陣を襲撃される始末・・・まぁ、さすがに多勢の幕府軍は、襲撃勢を蹴散らして、さほどのダメージを受ける事もなく、この日の戦いは幕府勝利となりますが、さりとて結城城側も、かなりの数の兵士が無事城内に戻ったと見え、態勢が崩れる事無く、そのまま籠城戦は継続されて行きます。
しかし、所詮は多勢に無勢・・・しかも、大軍に囲まれた籠城戦には、時間に限りがあるという物・・・静かなる籠城戦が始まってからほぼ9カ月めの永享十三年(1441年)4月16日、幕府方の総攻撃により結城城は陥落し、結城氏朝をはじめとする籠城組の将は、ことごとく討取られました。
この時、未だ13歳の春王と11歳の安王は、女装して城を脱出しますが、まもなく発見され捕縛・・・京都の将軍のもとに護送される途中の5月16日、美濃垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)にて斬首されました(くわしくは2008年2月10日の後半参照>>)。
こうして、結城城に集結していた持氏派は、ほぼ一掃され、結城合戦は終結・・・関東の支配は上杉家に任されて安定するか?に見えましたが、おっとドッコイ!
例え配下の者でも、例え謀反など起こさずとも、自身の気にそぐわぬ者は成敗する・・・強気の将軍=義教の、あの一色義貫&土岐持頼殺害事件の余波が、ここに来て表面化するのです。
「このままでは、自分も、いつ始末されるかわからない」
と恐怖を感じた播磨(はりま=兵庫県南西部)・備前(びぜん=岡山県東南部)・美作(みまさか=岡山県東北部)の守護=赤松満祐(あかまつみつすけ)が、嫡子の教康(のりやす)らに命じ、結城合戦の祝勝会と称して将軍=義教を呼び出し、あの春王&安王の死から、わずか1ヶ月の6月24日、宴会の席で義教を暗殺してしまうのです。
世に嘉吉の乱(かきつのらん)と呼ばれる将軍暗殺事件(6月24日参照>>)・・・このため幕府内の政情は一転し、関東の情勢も大きく変わります。
結城合戦の時、わずか1歳だった持氏の4男=永寿丸(永寿王とも)は、この将軍の死によって赦免され、やがて成長して足利成氏(しげうじ)と名乗り、関東を暴れまわる事になるのですが、そのお話は9月30日のページでどうぞ>> 。
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コメント
この辺の時代はなかなかマイナーで取り上げられる機会が少なく興味深いです。
大河ドラマ北条時宗で、時宗の妻の老後に幼少の足利尊氏がチラッと出たり、太平記で尊氏のお母さんの実家が上杉で、華の乱で義教がシルエットのみ出た記憶くらいで…あとはアニメ一休さんくらいしか室町時代に触れられずにおりましたが、鎌倉公方などの詳しい事が知れて嬉しいです。
いつも楽しく読ませて頂いています。
投稿: カッシーくん | 2018年4月17日 (火) 22時53分
カッシーくんさん、おはようございます。
ホント、このあたりのドラマを見てみたいですね~
オモシロイと思うんですが、やはり、知名度が…って感じなんでしょうかね。
投稿: 茶々 | 2018年4月18日 (水) 06時35分