秀吉VS家康…小牧長久手~美濃の乱
天正十二年(1584年)4月29日、長久手の戦い後のこう着状態の中、秀吉が犬山の本陣を出立し、その鉾先を美濃の諸城に向けました。
・・・・・・・・・
織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)亡きあと、ともに「邪魔だ」と感じていた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)(5月2日参照>>)と柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)を排除した織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)と羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)でしたが、
その後、以前の清州(清須)会議(6月27日参照>>)で後継者に決まった三法師(さんほうし=信長の孫・後の織田秀信)の後見人となって織田の後継者を自負する信雄は、秀吉の醸し出す、織田を継ぐ・・・ではなく、織田を飛び越えての天下を画策し始めた雰囲気に不快感を示し、東の大物であると徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけて、「秀吉に通じた」として自らの3人の重臣を殺害する事で、秀吉に宣戦布告したのです(3月6日参照>>)。
これが小牧・長久手(こまきながくて)の戦いですが、その経過は・・・
上記の信雄の重臣殺害事件(3月6日)>>の後、伊勢方面の秀吉傘下の亀山城を信雄方が攻撃(3月12日)>> しますが、一方で、信雄方に与すると見られた池田恒興(いけだつねおき=信長の乳兄弟)が秀吉に味方して犬山城を攻略(3月13日)>>します。
秀吉勢に、テリトリー内に入って来られた清州城(きよすじょう=愛知県清須市)の信雄側は、3月15日、家康がいち早く小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)を占拠・・・この周辺で戦う場合、この小牧山は要所となる場所であるため、実は秀吉側にとっても、ここは確保しておきたい場所だったのです。
そこで、秀吉傘下の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)が小牧山を落とすべく羽黒(はぐろ=愛知県犬山市)に陣を置くのですが、その作戦をお見通しの家康の奇襲に遭い長可は敗北(3月17日)>>。
この敗戦を受けて自らの出馬を考える秀吉は、紀州から大坂進出を試みる雑賀衆(さいかしゅう)&根来衆(ねごろしゅう)を撃退して(3月22日)>>、いよいよ小牧長久手の現場に向かいます。
ちなみに、その頃には、伊勢方面での戦い(3月19日)>>では秀吉側が勝利して、伊勢を抑えています。
とは言え、総動員数から見れば圧倒的に不利な家康は、小牧山に本陣を構えて防御を固め、そこを動こうとはせず、しばらくの間睨み合いが続きます(3月28日)>>。
そんな中、先の羽黒の戦いで屈辱を味わった森長可が一矢報いるべく「家康の本拠である三河に奇襲したい!」と提案し出陣しますが、この動きも家康側に見破られており、長可&恒興が討死(4月9日)>>するという敗戦となってしまいました。
この大きな戦い=長久手の戦いの後、しばらくのこう着状態が続いた事で、天正十二年(1584年)4月29日、秀吉は一旦大坂に戻るべく、犬山の本陣を後にしました。
実は、この小牧長久手の戦いの間、こう着状態が続くと、秀吉自身は度々大坂へと戻っています。
それは、大坂城構築とともに大坂の町の整備もしていたので、その様子をチョイチョイ見にいかねばならなかったとも言えますし、チョッカイ出してくる雑賀や根来も気になるとも言えますが、上記の通り、「小牧山から動いたら損!」と考える家康を、何とか動かすために、自らがチョイチョイ動いて様子見ぃしていたとも言えます。
その一つが、尾張(おわり=愛知県西部)に隣接する美濃(みの=岐阜県)における信雄傘下の諸将を攻撃する事・・・これによって家康の誘い出しを試みていたわけです。
←以前、関ヶ原の戦いでのページにupした位置関系図ですが、今回のご参考に…
(クリックしていただくと大きいサイズで開きます)
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そのターゲットとなったのが、加賀野井城(かがのいじょう=岐阜県羽島市)、竹ヶ鼻城(たけがはなじょう=岐阜県羽島市)、脇田城(わきだじょう=岐阜県海津市)、駒野城(こまのじょう=岐阜県海津市)でした。
かくして、本陣を後にした秀吉は、大良(おおら=岐阜県羽島市)の戸島東蔵坊(とうぞうぼう)まで来た時、羽柴小吉(こきち=甥で養子・秀勝)に、この場に留まって加賀野井城と竹ヶ鼻城をけん制しつつ監視するよう命じます。
この時、加賀野井城には、城主の加賀野井重望(かがのいしげもち=弥八郎)以下、信雄から加勢として派遣されていた千種三郎左衛門(ちぐささぶろえもん)など2千余騎が立て籠もっていましたが、2日後の5月1日に城を包囲した秀吉軍は、2重3重に柵を張り巡らせて、ネズミ一匹逃がさぬ態勢を整えます。
「このまま籠城すれば、やがて飢えてしまう」・・・と判断した加賀野井城内の諸将は、5月5日夜半、城兵が一丸となって撃って出ますが、数に物を言わせる秀吉軍は、蒲生氏郷(がのううじさと)を先頭に、一人残らず討ち取るべく猛戦し、ウムを言わさず400余の首を挙げました。
城主の加賀野井重望と信雄からの派遣要員は、この間に搦め手より城から脱出し、夜陰に紛れて清州城へと逃れたので、戦闘が一段落して陽が昇る頃には、この城内には、深手を負って動けない状態の敵兵しか残っていないという、殺伐とした風景になっていたのでした。
こうして加賀野井城を落とした秀吉勢・・・次に、すぐ近くにある竹ヶ鼻城。
実は、秀吉側は、加賀野井城を落とせば、すぐに竹ヶ鼻城も降伏して来るだろうと踏んでいたのですが、逆に、城主の不破源六(ふわげんろく=広綱)は、より守りを固めて抗戦の構えを見せます。
5月10日、秀吉勢は竹ヶ鼻城へと攻めかかりますが、何重もの濠に囲まれた堅固な要塞は、容易に落ちる事無く、このまま力攻めを続ければ、おそらく秀吉側も無傷ではいられない・・・
竹ヶ鼻城水攻めの位置関係図
←クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そこで、秀吉は近くに砦を築き、境川(さかいがわ=逆川)を堰き止めて城の周囲を水浸しにする水攻めとするべく、諸将に、それぞれ五間~十五間(一間=約1.8m)を割り当て、周辺の住民たちも総動員して昼夜問わずの工事を実施し、数日の内に堤を完成させ、その後、川の水をドッと引き入れると、たちまち、周辺の町屋は浸水し、竹ヶ鼻城は湖上の城となりました。
やがて城の曲輪(くるわ)までが浸水しはじめると、もはや戦う術も無く、見守る城兵のテンションも下がりっぱなし・・・16日になって、さすがの不破源六も降伏し、開城した後、伊勢方面へと退去して行きました。
竹ヶ鼻城を攻略した秀吉軍は、信雄派の織田信照(のぶてる=信長の弟)の拠る奥城(おくじょう=愛知県一宮市)を陥落させた後、6月には脇田城を陥落させ、一方で蟹江城(かにえじょう=愛知県海部郡蟹江町)攻防戦(6月15日参照>>)を展開しつつ、
8月には、筒井順慶(つついじゅんけい)と美濃の諸将を先鋒とする大軍が、信雄に仕える高木(たかぎ)一族の守る津屋城(つやじょう=岐阜県海津市南濃町)を攻め落とし、いよいよ駒野城へと迫りますが、ここに、信雄の要請を受けた法泉寺(ほうせんじ=三重県桑名市多度町)の僧=空明(くうみょう)が本願寺門徒を率いて参戦して来ます。
本願寺は、あの信長をも困らせた一向一揆の門徒衆ですから、ここに加勢して来た人数はしれていても、門徒は全国にまだまだいるわけで、さすがの秀吉も、全国の本願寺門徒相手に一戦を交えるかどうかについては一考を要するわけで・・・
ここは一旦兵を退き、先に落とした津屋城に、配下の稲葉貞通(いなばさだみち=一鉄の息子)父子を置いて監視させるだけにしておきました。
という事で、結果的には、この美濃での戦線において、駒野城だけは落城せずに済んだわけですが・・・
と、そんなこんなやってるうちに、秀吉の信雄懐柔作戦が実を結び始め、9月頃からは、家康そっちのけで信雄との和睦交渉が開始され、この年の11月15日に、桑名付近で行われた信雄と秀吉の会見にて、信雄から秀吉に人質を差し出すとともに犬山城と河田城(こうだじょう・ともに一宮市)を差し出す事、その代わり、秀吉は北伊勢の4郡を信雄に返還する事を条件に、正式に講和が成立・・・そうなると、家康も兵を退くしかなくなってしまいました(11月16日参照>>)。
こうして、最初で最後の秀吉VS家康の直接対決となった小牧・長久手の戦いは終了したのです。
・・・にしても、
一般的に、小牧長久手の戦いを語る時、あるいはドラマや小説等で描かれる時は、激しい戦いとなったうえに、重要人物である森長可&池田恒興が討死にした事もあって、何かと長久手の戦い中心になってしまうため、「秀吉負けた感」が強いですが、その小牧長久手以外は、意外に秀吉が優位だったのですね~
と言うのも、この合戦での総動員数は、秀吉が9万なのに対し、家康は1万7千ほどだったとされ、上記にも書いた通り、「家康は小牧を動いたら負け」状態で、その他の場所で大きく戦いを展開する事は、たぶん無理だったのではないか?と考えます。
そういう意味では、勝ち負けがウヤムヤのまま、勝手に講和して合戦を終わらせてくれた信雄さまも、案外、家康にとって良い働きをしてくれた感じ?なのかも知れませんね。
小牧長久手・関連ページ
●3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い>>
●3月13日:犬山城攻略戦>>
●3月14日:峯城が開城>>
●3月17日:羽黒の戦い>>
●3月19日:松ヶ島城が開城>>
●3月22日:岸和田城・攻防戦>>
●3月28日:小牧の陣>>
●4月9日:長久手の戦い>>
:鬼武蔵・森長可>>
:本多忠勝の後方支援>>
●4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
●5月頃~:美濃の乱←今ココ
●6月15日:蟹江城攻防戦>>
●8月28日:末森城攻防戦>>
●10月14日:鳥越城攻防戦>>
●11月15日:和睦成立>>
●11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
●翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
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コメント
信雄さまも、案外、家康にとって良い働きをしてくれた感じってのは同感です。
信雄との講和がなかったとすると、豊臣でも徳川でもない第三者が天下を取った可能性があると思います。
この誰得を防いだという点では信雄の功績が光ると思います。
ただ、近年(?)の研究によると、そもそもが信長のいわゆる軍団長制度の中で、信雄が家康との同盟強化的なものを任じられて居たという話のようなので、信雄としてはやるべき業務を忠実にこなすという感じなのではなかったかと思います。
投稿: ほよよんほよよん | 2018年5月 3日 (木) 17時03分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
そうですね。
戦いがもっと長引けば、どうなっていたかわかりませんからね~
投稿: 茶々 | 2018年5月 4日 (金) 01時45分
5倍もの兵力差があったみたいですが、こんなに差があったとは知りませんでした。
ところでこの一連の戦いの時に織田長益(のちの有楽斎)はどういう行動をとっていました?
今や「美濃」は注目のエリアですね。近く「東美濃」ナンバーができる可能性もあります。
投稿: えびすこ | 2018年5月 4日 (金) 10時15分
えびすこさん、こんばんは~
長益さんは信雄勢として参戦してたと思います。
信長の弟で、この時点で健在だったのは、長益と信照と信包だったはずですが、信包が秀吉側で、あとのお二人は信雄側だったはずです。
投稿: 茶々 | 2018年5月 4日 (金) 22時54分