赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本城の戦い
長享二年(1488年)4月7日、山名政豊の播磨坂本城を赤松政則が攻めた英賀坂本城の戦いがありました。
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嘉吉元年(1441年)、播磨・備前・美作(みまさか=岡山県北東部)の守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)であった赤松満祐(あかまつみつすけ)が、時の室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=第6代)を暗殺した嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)・・・
この事件により赤松家は衰退する一方で、満祐を討伐した山名宗全(そうぜん=持豊)は、赤松の旧領を賜って武家のトップクラスに躍り出、その後の応仁元年(1467年)に起きた将軍家や管領家の後継者争いが絡む、あの応仁の乱(5月20日参照>>)でも西軍の総大将を務めました。
一方、この応仁の乱の時に、東軍の総大将だった細川勝元(ほそかわかつもと)に近づいて功を挙げて復権していた(5月28日参照>>)のが満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)でした。
その後、両総大将の死を受けて和睦交渉し、文明九年(1477年)に応仁の乱を終結させたのは、彼らの息子=細川政元(まさもと=勝元の息子)と山名政豊(やまなまさとよ=宗全の息子か孫)でしたが、こうして京都の情勢にかかりっきりになっていた政豊の領国では、更なる領地拡大を狙う政則の動きに加え、一揆などの混乱も起きていたわけです。
それは新たな将軍=足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子・第9代)の静止を振り切ってでも帰国しなければならない状態でした(9月4日参照>>)。
政則にしてみれば、もともと赤松家の物だった領地・・・
しかし、政豊にとっては功績の恩賞に先代が貰った領地・・・
それを、うまく采配仕切れない将軍家・・・
こうして出来上がったのが山名VS赤松の戦いの構図でした。
もちろん、実際にはそんな単純な構図ではなく、その混乱に乗じて取って代わろうとする地元の豪族たちも、両者の間に入り乱れて来るわけで・・・
そんなこんなの文明十六年(1484年)、赤松配下の福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)が、山名政豊と組んだ松田元成(もとなり)からの攻撃を受けて陥落してしまうのです(1月6日参照>>)。
しかも、この時、赤松政則は福岡城の救援に向かう援軍を浦上則国(うらがみのりくに)に任せ、自身はかつての赤松の所領であった但馬(たじま=兵庫県北部)朝来(あさご)を奪回すべく向った真弓峠(まゆみとうげ=兵庫県朝来市生野町)で山名軍とぶつかり、大敗を喰らってしまったのです(12月25日参照>>)。
つまり、独自の判断で兵を分散させてしまったために、福岡城も落ちるわ、真弓峠でも負けるわ、という大失態をやっちまったわけで・・・
これに激怒したのが、福岡城への援軍を要請した守護代の浦上則宗(うらがみのりむね)でした。
なんせ、この則宗は、守護=政則を守護代としてずっと支えていた人・・・かの応仁の乱の頃は政則は未だ13歳で、一方の則宗は脂の乗った38歳でしたから、冒頭に書いた「応仁の乱キッカケで守護に返り咲いた」てのは、どう見ても若き領主をサポートしていた則宗の功績も大きく、当然、両者の力関係も微妙なわけで・・・
このため赤松家内は分裂し、実権を握った則宗によって、一時的に政則が追放されるという一件も起こりますが、このドサクサに乗じて山名が攻めまくって美作と備前を奪い取って来たため、家臣たちの要望の末、足利義政(よしまさ=第8代将軍)の仲介で政則と則宗は和解・・・協力して山名に当たる事となりました。
確かに・・・内輪モメしてる場合では無いです!
おかげで、文明十七年(1485年)に再び真弓峠でぶつかった時も、翌文明十八年(1486年)に、赤松の拠点の一つである英賀(あが=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)に攻め込まれた時も、見事、山名軍に勝利します。
一方の山名軍は、この敗戦により、保持する城が坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)ほか数ヶ所という窮地に立たされてしまいました。
翌年・・・近江(滋賀県)南部の六角高頼(ろっかくたかより)が幕府に刃向かった近江鈎(まがり・滋賀県栗東)の陣(12月13日参照>>)に、赤松は守護代の浦上則宗を、山名は嫡男の山名俊豊(としとよ=後に廃嫡)を派遣中の長享二年(1488年)4月7日、赤松政則は、長き抗争に決着をつけるべく、山名政豊を坂本城に攻めたのです。
7日→8日→9日の3日間に渡って行われた戦いで、赤松軍は戦死者を出しつつも勝利し、大いに気を吐きましたが、一方で、これらの城外戦には勝利したものの、城の一ヶ所に集まった山名勢を完全に崩す事ができず、戦いは籠城戦に持ち込まれます。
しかし、この時、一方の坂本城内では、何やらややこしい雰囲気に・・・
『蔭凉軒日録』によると・・・
実は、これまでの一連の敗戦により、山名の中には厭戦(えんせん=戦いに嫌気がさす)気分が漂っており、山名政豊自身も、すっかりヤル気を失っていたのです。
もちろん、未だヤル気満々の者もいました・・・てか、世は戦国ですから、そっちの方が多いくらいです。
特に、山名配下の但馬の国人領主たちが、これまでの犠牲を考えると「むしろ撤退は許され無い事」として猛反対・・・徐々に政豊は城内で孤立していきます。
未だ合戦上等の彼らから、嫡子の俊豊を当主に推す声さえも出始めた7月18日の夜10時頃・・・結局、政豊は、わずかの部下と馬廻りだけを連れて、闇に紛れて坂本城を出奔して但馬に帰ってしまうのです。
さすがの抗戦派も、この政豊のいきなりのトンズラまでは考えていなかったのか?
城内に動揺が走りまくりで、見事に彼らも戦意喪失・・・備後(びんご=広島県東部)からの加勢組も、一人、また一人と去って行きました。
となれば、いずれは坂本城からの山名の完全撤退が・・・と言っても、実はその日付はよくわかっていないのです。
先の『蔭凉軒日録』によれば、かの福岡城に詰めていた山名勢が、政豊の行動を知り、7月20日に、彼らも福岡城も退去したとの事なので、おそらく坂本城からの山名の完全撤退の日付も、その7月20日前後・・・
こうして文明十六年(1484年)の真弓峠に始まった・・・いや、もとはと言えば、あの嘉吉の乱に始まった赤松VS山名の直接対決は、政豊のトンズラで幕を閉じたのです。
まぁ、長い戦いでしたからね~
メンタルが鬼でなければ、戦国を生きてはいけませぬ。
この5年後の明応二年(1493年)、政則は、細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)を継室(けいしつ=後妻)に娶り、その弟で、時の権力者である細川政元と縁を深めますが、その結婚生活は政則の死を以って、わずか3年で終了・・・その後の赤松家は、鬼瓦のニックネームも勇ましい新婚の奥さんが守っていく事になりますが、そのお話は【鬼瓦と呼ばれた細川勝元の娘・洞松院】でどうぞ>>
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