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2018年4月29日 (日)

秀吉VS家康…小牧長久手~美濃の乱

 

天正十二年(1584年)4月29日、長久手の戦い後のこう着状態の中、秀吉が犬山の本陣を出立し、その鉾先を美濃の諸城に向けました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)亡きあと、ともに「邪魔だ」と感じていた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)(5月2日参照>>)柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)を排除した織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)でしたが、

その後、以前の清州(清須)会議(6月27日参照>>)で後継者に決まった三法師(さんほうし=信長の孫・後の織田秀信の後見人となって織田の後継者を自負する信雄は、秀吉の醸し出す、織田を継ぐ・・・ではなく、織田を飛び越えての天下を画策し始めた雰囲気に不快感を示し、東の大物であると徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけて、「秀吉に通じた」として自らの3人の重臣を殺害する事で、秀吉に宣戦布告したのです(3月6日参照>>)

これが小牧・長久手(こまきながくて)の戦いですが、その経過は・・・

上記の信雄の重臣殺害事件(3月6日)>>の後、伊勢方面の秀吉傘下の亀山城を信雄方が攻撃(3月12日)>> しますが、一方で、信雄方に与すると見られた池田恒興(いけだつねおき=信長の乳兄弟)が秀吉に味方して犬山城を攻略(3月13日)>>します。

秀吉勢に、テリトリー内に入って来られた清州城(きよすじょう=愛知県清須市)の信雄側は、3月15日、家康がいち早く小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)を占拠・・・この周辺で戦う場合、この小牧山は要所となる場所であるため、実は秀吉側にとっても、ここは確保しておきたい場所だったのです。

そこで、秀吉傘下の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)が小牧山を落とすべく羽黒(はぐろ=愛知県犬山市)に陣を置くのですが、その作戦をお見通しの家康の奇襲に遭い長可は敗北(3月17日)>>

この敗戦を受けて自らの出馬を考える秀吉は、紀州から大坂進出を試みる雑賀衆(さいかしゅう)根来衆(ねごろしゅう)を撃退して(3月22日)>>、いよいよ小牧長久手の現場に向かいます。

ちなみに、その頃には、伊勢方面での戦い(3月19日)>>では秀吉側が勝利して、伊勢を抑えています。

とは言え、総動員数から見れば圧倒的に不利な家康は、小牧山に本陣を構えて防御を固め、そこを動こうとはせず、しばらくの間睨み合いが続きます(3月28日)>>

そんな中、先の羽黒の戦いで屈辱を味わった森長可が一矢報いるべく「家康の本拠である三河に奇襲したい!」と提案し出陣しますが、この動きも家康側に見破られており、長可&恒興が討死(4月9日)>>するという敗戦となってしまいました。

Toyotomihideyoshi600 この大きな戦い=長久手の戦いの後、しばらくのこう着状態が続いた事で、天正十二年(1584年)4月29日秀吉は一旦大坂に戻るべく、犬山の本陣を後にしました。

実は、この小牧長久手の戦いの間、こう着状態が続くと、秀吉自身は度々大坂へと戻っています。

それは、大坂城構築とともに大坂の町の整備もしていたので、その様子をチョイチョイ見にいかねばならなかったとも言えますし、チョッカイ出してくる雑賀や根来も気になるとも言えますが、上記の通り、「小牧山から動いたら損!」と考える家康を、何とか動かすために、自らがチョイチョイ動いて様子見ぃしていたとも言えます。

その一つが、尾張(おわり=愛知県西部)に隣接する美濃(みの=岐阜県)における信雄傘下の諸将を攻撃する事・・・これによって家康の誘い出しを試みていたわけです。

Sekigaharafukutukazyoucc 以前、関ヶ原の戦いでのページにupした位置関系図ですが、今回のご参考に…
(クリックしていただくと大きいサイズで開きます)

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そのターゲットとなったのが、加賀野井城(かがのいじょう=岐阜県羽島市)竹ヶ鼻城(たけがはなじょう=岐阜県羽島市)脇田城(わきだじょう=岐阜県海津市)駒野城(こまのじょう=岐阜県海津市)でした。

かくして、本陣を後にした秀吉は、大良(おおら=岐阜県羽島市)戸島東蔵坊(とうぞうぼう)まで来た時、羽柴小吉(こきち=甥で養子・秀勝)に、この場に留まって加賀野井城と竹ヶ鼻城をけん制しつつ監視するよう命じます。

この時、加賀野井城には、城主の加賀野井重望(かがのいしげもち=弥八郎)以下、信雄から加勢として派遣されていた千種三郎左衛門(ちぐささぶろえもん)など2千余騎が立て籠もっていましたが、2日後の5月1日に城を包囲した秀吉軍は、2重3重に柵を張り巡らせて、ネズミ一匹逃がさぬ態勢を整えます。

「このまま籠城すれば、やがて飢えてしまう」・・・と判断した加賀野井城内の諸将は、5月5日夜半、城兵が一丸となって撃って出ますが、数に物を言わせる秀吉軍は、蒲生氏郷(がのううじさと)を先頭に、一人残らず討ち取るべく猛戦し、ウムを言わさず400余の首を挙げました。

城主の加賀野井重望と信雄からの派遣要員は、この間に搦め手より城から脱出し、夜陰に紛れて清州城へと逃れたので、戦闘が一段落して陽が昇る頃には、この城内には、深手を負って動けない状態の敵兵しか残っていないという、殺伐とした風景になっていたのでした。

こうして加賀野井城を落とした秀吉勢・・・次に、すぐ近くにある竹ヶ鼻城。

実は、秀吉側は、加賀野井城を落とせば、すぐに竹ヶ鼻城も降伏して来るだろうと踏んでいたのですが、逆に、城主の不破源六(ふわげんろく=広綱)は、より守りを固めて抗戦の構えを見せます。

5月10日、秀吉勢は竹ヶ鼻城へと攻めかかりますが、何重もの濠に囲まれた堅固な要塞は、容易に落ちる事無く、このまま力攻めを続ければ、おそらく秀吉側も無傷ではいられない・・・

Komakinagakutetakegahanamizuzeme_2 竹ヶ鼻城水攻めの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そこで、秀吉は近くに砦を築き、境川(さかいがわ=逆川)を堰き止めて城の周囲を水浸しにする水攻めとするべく、諸将に、それぞれ五間~十五間(一間=約1.8m)を割り当て、周辺の住民たちも総動員して昼夜問わずの工事を実施し、数日の内に堤を完成させ、その後、川の水をドッと引き入れると、たちまち、周辺の町屋は浸水し、竹ヶ鼻城は湖上の城となりました。

やがて城の曲輪(くるわ)までが浸水しはじめると、もはや戦う術も無く、見守る城兵のテンションも下がりっぱなし・・・16日になって、さすがの不破源六も降伏し、開城した後、伊勢方面へと退去して行きました。

竹ヶ鼻城を攻略した秀吉軍は、信雄派の織田信照(のぶてる=信長の弟)の拠る奥城(おくじょう=愛知県一宮市)を陥落させた後、6月には脇田城を陥落させ、一方で蟹江城(かにえじょう=愛知県海部郡蟹江町)攻防戦(6月15日参照>>)を展開しつつ、

8月には、筒井順慶(つついじゅんけい)と美濃の諸将を先鋒とする大軍が、信雄に仕える高木(たかぎ)一族の守る津屋城(つやじょう=岐阜県海津市南濃町)攻め落とし、いよいよ駒野城へと迫りますが、ここに、信雄の要請を受けた法泉寺(ほうせんじ=三重県桑名市多度町)の僧=空明(くうみょう)本願寺門徒を率いて参戦して来ます。

本願寺は、あの信長をも困らせた一向一揆の門徒衆ですから、ここに加勢して来た人数はしれていても、門徒は全国にまだまだいるわけで、さすがの秀吉も、全国の本願寺門徒相手に一戦を交えるかどうかについては一考を要するわけで・・・

ここは一旦兵を退き、先に落とした津屋城に、配下の稲葉貞通(いなばさだみち=一鉄の息子)父子を置いて監視させるだけにしておきました。

という事で、結果的には、この美濃での戦線において、駒野城だけは落城せずに済んだわけですが・・・

と、そんなこんなやってるうちに、秀吉の信雄懐柔作戦が実を結び始め、9月頃からは、家康そっちのけで信雄との和睦交渉が開始され、この年の11月15日に、桑名付近で行われた信雄と秀吉の会見にて、信雄から秀吉に人質を差し出すとともに犬山城と河田城(こうだじょう・ともに一宮市)を差し出す事、その代わり、秀吉は北伊勢の4郡を信雄に返還する事を条件に、正式に講和が成立・・・そうなると、家康も兵を退くしかなくなってしまいました(11月16日参照>>)

こうして、最初で最後の秀吉VS家康の直接対決となった小牧・長久手の戦いは終了したのです。

・・・にしても、
一般的に、小牧長久手の戦いを語る時、あるいはドラマや小説等で描かれる時は、激しい戦いとなったうえに、重要人物である森長可&池田恒興が討死にした事もあって、何かと長久手の戦い中心になってしまうため、「秀吉負けた感」が強いですが、その小牧長久手以外は、意外に秀吉が優位だったのですね~

と言うのも、この合戦での総動員数は、秀吉が9万なのに対し、家康は1万7千ほどだったとされ、上記にも書いた通り、「家康は小牧を動いたら負け」状態で、その他の場所で大きく戦いを展開する事は、たぶん無理だったのではないか?と考えます。

そういう意味では、勝ち負けがウヤムヤのまま、勝手に講和して合戦を終わらせてくれた信雄さまも、案外、家康にとって良い働きをしてくれた感じ?なのかも知れませんね。

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱←今ココ
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
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2018年4月21日 (土)

信長VS顕如・石山合戦~高屋・新堀城の戦い

 

天正三年(1575年)4月21日、織田信長と本願寺顕如による石山合戦での高屋・新堀城の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・

信長上洛の際、それまで畿内を牛耳っていた三好(みよし)では、嫡流の三好義継(よしつぐ=長慶の甥で養子)と重臣の松永久秀(まつながひさひで)は恭順したものの、三好三人衆と呼ばれた三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)らは信長を受け入れる事ができずに敵対します。

2年後の元亀元年(1570年)、そんな三好三人衆と信長がぶつかった野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)の戦い(8月26日参照>>)をキッカケに、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を本拠とする本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)対信長戦に参戦を表明(9月12日参照>>)した事から、10年の長きに渡る石山合戦(いしやまかっせん)が始まるのです。

野田福島の後に一旦は停戦するものの、全国に信者を持つ本願寺の教祖様が再び扇動し始めると、元亀二年(1571年)の5月には長島(ながしま=三重県桑名市)にて長島一向一揆(5月16日参照>>)、同年の9月には近江の一向一揆(9月3日参照>>)、天正二年(1574年)1月からは越前一向一揆(1月20日参照>>)と各地で一揆が勃発しますが、

Odanobunaga400a 一方の信長も、元亀四年(天正元年=1573年)には反発する足利義昭を追放(7月18日参照>>)し、浅井(あさい)(8月28日参照>>)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)滅亡させ・・・と、一つ一つ敵を潰していく中、天正二年(1574年)9月には、一向一揆の中で最も信長を困らせていた長島一向一揆をせん滅した(9月29日参照>>)事で、本家本元の石山本願寺への直接攻撃を画策しはじめます。

翌天正三年(1575年)3月に上洛した信長は、「この年の秋には大坂を攻めるゾ!」とばかりに、この戦闘の担当与力(よりき)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)に命じるとともに、配下の諸将たちに、その準備を整えるよう指示しました。

そして、信長自身は、その要路である平野(ひらの=大阪市平野区)周辺に戦闘時の禁令を発布して準備を整え、4月6日に河内(かわち=大阪府東部)に向け、軍勢を率いて出立しました。

『兼見卿記』によれば、その数は約1万余であったとか・・・

京都から八幡(やわた=京都府八幡市)を通り、7日に若江(わかえ=大阪府東大阪市)に到着した信長は、翌8日に、石山本願寺に与する三好康長(やすなが=長慶の叔父)の拠る高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)を攻撃したのです。

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古室山古墳より駒ヶ谷方面を望む

『信長公記』によれば、駒ヶ谷山(こまがだにやま=同羽曳野市)に本陣を構えて、眼下の合戦の様子を観望する信長は、自軍の伊藤与三右衛門(いとうよそうえもん)の弟=伊藤二介(ふたすけ)が、数か所の傷を負いながらも、先駆けとして何度も敵方に突進した後、壮絶な最期を遂げる姿を見て「晴れがましい働きである」と絶賛したのだとか・・・

その日、四方八方から高屋城に攻撃を仕掛けた織田軍は、佐久間信盛(さくまのぶもり)丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)塙直政(ばんなおまさ)らの諸将が、谷間やら田畑やら、近辺をくまなく焼き払ったと言います。

その後、12日に、本陣を住吉(すみよし=大阪市住吉区)に移した信長のもとには、畿内(山城・摂津・河内・和泉・大和)からはもちろん、若狭(わかさ=福井県西部)近江(おうみ=滋賀県)美濃(みの=岐阜県)尾張(おわり=愛知県西部)伊勢(いせ=三重県中北部)丹後(たんご=京都府北部)丹波(たんば=兵庫県北東部・京都府北部)紀伊(きい=和歌山県)根来衆(ねごろしゅう)まで、続々と援軍が集まって来ます。

信長はそれらの軍勢を天王寺から住吉・遠里小野(おりおの=大阪市住吉区)方面へと展開して石山本願寺をけん制・・・14日には石山本願寺周辺へ押し寄せて刈田を行い、大いに騒ぎ立てますが、その頃には軍勢の数は、なんと10万余に達していたとか・・・

16日からは、本陣を遠里小野に移し、近隣の刈田を実行した後、次のターゲットである新堀城(しんぼりじょう=堺市北区新堀町)を包囲するべく(さかい=大阪府堺市)に向かいます。

ここ新堀城には、先の三好康長と結んだ十河一行(そごういっこう)香西長信(こうざいながのぶ)立て籠もっていたのです。

17日に城を取り囲んだ織田軍は、19日の夜には火矢を射かけ、草で以って堀を埋め、大手と搦め手の二方向から攻撃を開始し、すばやく両門を突破・・・大将の一人である十河一行をはじめとする170余の首を挙げ、香西長信を生け捕りにした後、斬首にしました。

この新堀城の落城を知った高屋城の三好康長が、信長の側近である松井友閑(まついゆうかん)を通じて降伏を申し出て来たため、信長は康長を許し、高屋城も接収したのです。

天正三年(1575年)4月21日、ここに高屋・新堀城の戦いは終結しました。

その後、信長は、塙直政に命じて、高屋城&新堀城をはじめとする河内の城や砦をことごとく破却させました。

さぁ、これで、残るは石山本願寺そのものだけ!
いよいよ・・・という事になるはずだったのですが・・・

この高屋・新堀城の戦いの終結と、まさに同じ4月21日・・・遠く三河(みかわ=愛知県東部)で、今は亡き甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の後を継いだ四男=勝頼(かつより)が、信長の同盟者である徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)の娘婿=奥平貞昌(おくだいらさだまさ)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市)を取り囲んだのです(4月21日参照>>)

家康からの援軍要請に応える信長・・・ご存じ、長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いです(5月21日参照>>)

上記に書いた通り、おそらくはご本人は「この秋に…」と考えていたであろう信長による石山本願寺への直接攻撃は、翌天正四年(1576年)5月の天王寺合戦へと持ち越される事になりました。

その後のお話は関連ページで↓
【天王寺合戦】>>
【第1次・木津川口海戦】>>
【信長の鉄甲船完成】>>
第2次木津川口海戦】>>
【石山合戦の終結】>>
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2018年4月16日 (月)

永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…

 

永享十三年(1441年)4月16日、幕府に反発した結城氏朝らによる結城合戦で、結城城が陥落しました。

・・・・・・・・・・・

南北朝の不穏な空気が収まらなかった事から、本拠地が関東でありながら京都にて幕府を開く事になった足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)は、将軍職を三男の義詮(よしらきら)に継がせ、四男の基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東の支配を任せます(9月19日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以来、室町幕府将軍は義詮の息子らが、鎌倉公方は基氏の息子ら継いでいくわけですが、応永三十二年(1425年)2月に、第5代将軍の足利義量(あしかがよしかず)が若くして亡くなった事で、後継者選びが難航し、結局、くじ引きで決まった足利義教(よしのり)第6代将軍となります(2016年6月24日参照>>)

この決定に不満を持ったのが、第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)・・・「将軍家に物申さん」と上洛を思案する持氏を関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)上杉憲実(うえすぎのりざね)が静止しますが、これがキッカケとなって持氏と憲実との溝が深まり、とうとう持氏が挙兵したところを、将軍=義教が派遣した幕府軍に攻められ、永享十一年(1439年)2月10日、持氏は自刃・・・続いて嫡男の義久(よしひさ)も自害に追い込まれました。

これが永享の乱(えいきょうのらん)と呼ばれる一件です(くわしくは2018年2月10日参照>>)

こうして公方が不在となった関東は、憲実はじめとする重臣たちが政務をこなすことになりますが、不仲になったとは言え、上司として仰いでいた持氏を自刃にまで追い込んでしまった事に悩む憲実は、関東管領職を辞任し、伊豆にて隠居してしまいます。

次の鎌倉公方に、自らの息子を派遣しようと考えていた義教でしたが、信頼できる憲実がいないとなると、可愛い息子を関東にやるのは不安・・・もちろん、このまま上杉家の家督が宙に浮いたまま、というわけにもいかず、

とりあえず、上杉の本拠である越後(えちご=新潟県)にいた憲実の弟=上杉清方(きよまさ・きよかた)が関東に入り、上杉家の中心となって、何とか関東も落ち着きを取り戻します。

しかし、もともとは公方として関東を支配していた持氏・・・当然の事ながら、その息のかかった者たちは、持氏が死のうが嫡男が果てようが、そのへんにウジャウジャいるわけで・・・

Yuukiuzitomo500a 翌・永享十二年(1440年)正月、持氏派の一部の者が決起し、これをキッカケに関東の諸将が動きはじめ、3月には、持氏の次男&三男である春王(しゅんのう・はるおう)安王(あんのう・やすおう)常陸(ひたち=茨城県)で蜂起した事を知った結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)結城氏朝(ゆうきうじとも)が、彼らを自らの城へと招き入れ、幕府に対抗する姿勢を見せたのです。

それによって、持氏に恩義を感じている武将たちが、続々と結城城に集まって来ました。

この動きを知った京都・・・早速、将軍=義教の命により幕府軍が編成される一方で、隠居していた憲実も鎌倉へと戻り、弟=清方を大将とする討伐軍が鎌倉を出発したのです。

まさに関東が一触即発状態のこの5月15日、大和(やまと=奈良県)で事件が起こります。

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和の地は、やがて興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代に『衆徒』の筒井(つつい)北朝につき、『国民』の越智(おち)南朝についた事で、南北朝が終わった後も、未だ両者の争乱はくすぶり続けていたわけですが、

ご存じのように、室町幕府は北朝・・・って事で、将軍=義教は、配下の一色義貫(いっしきよしつら)土岐持頼(ときもちより)らを越智討伐軍として大和に派遣するのです。

一節には、「今回の永享の乱や、その後の結城の動きに同調するような動きが越智氏にあった」とも言われていますが、そこはハッキリしないものの、とにかく一色義貫&土岐持頼は、義教の命令で以って、幕府軍を率いて大和に来ていたわけです。

ところが、この二人が、その大和にて殺害されてしまいます。

それも、越智との合戦で、ではなく味方に・・・

一色義貫は安芸武田(あきたけだ=広島県)武田信栄(たけだのぶひで)に朝食を誘われて向ったところ、その席で襲われ、側近たちが討たれた後に義貫は自害・・・陣中に残っていた息子や家族たちも細川持常(ほそかわもちつね)に襲撃され、こちらも討死もしくは自害しました。

一方の土岐持頼も・・・コチラは伊勢(いせ=三重県中北部)長野(ながの=長野工藤)の者に討たれたと言われています。

さらに翌日には、京都にあった一色義貫の邸宅が一色教親(のりちか)に襲撃され、出陣せずに残っていた息子たちも捕えられてしまいました。

いずれも、一色義貫&土岐持頼にとっては、これまでともに戦って来た仲間たち・・・教親なんかは義貫の甥っ子ですし・・・

しかし驚くのは、その後の采配・・・死んだ義貫は若狭(わかさ=福井県南部)丹後(たんご=京都府北部)三河(みかわ=愛知県東部)の守護だったわけですが、この事件後、その若狭の守護となるのは武田信栄、丹後の守護は一色教親、三河の守護には細川持常、そして土岐持頼の伊勢守護も一色教親が獲得します。

もっと先の戦国も群雄割拠する頃になると、力ずくで守護を倒して自らがその領地を統治する=下剋上で支配する武将なんかもいますが、彼らとて、あくまで自称=勝手に守護の役割を分捕って実行してるだけで、正式な守護では無い・・・なんせ、正式な守護は幕府=将軍が決めるはずですから・・・

つまり、この結果を見る限り、一色義貫&土岐持頼の殺害は、将軍=義教の命令だった事になるわけで・・・とは言え、関係者以外、誰も、「将軍が命令を出した」という確かな事はわからないわけで、結局、疑惑を持ちながらも表面上は何事も無かったように政務は続けられました。

まぁ、あまり騒ぎ立てると、今度は自分に火の粉が降りかかって来るやも知れませんからね~

そんなこんなの6月24日、今度は東北で事件が起こります。

第2代鎌倉公方=足利氏満(うじみつ)の息子で篠川公方( ささがわくぼう)と称された足利満直(みつなお・みつただ)が、奥州の諸将に襲撃され自殺したのです。

この満直という人は、第3代鎌倉公方である兄の足利満兼(みつかね)の命を受けて、足利による東北支配を強固にすべく派遣され、篠川御所(ささがわごしょ=福島県郡山市)にて政務を行っていた人物・・・なので、永享の乱で死んだ持氏とは叔父⇔甥の仲になるわけですが、その永享の乱の時は幕府より錦の御旗(にしきのみはた=官軍の証)を頂いて、持氏を攻める側に回っていたわけで・・・

なので、春王&安王らの命を受けた奥州石川(おうしゅういしかわ)をはじめとする持氏派の諸将の襲撃に遭ってしまったわけです。

それから間もなくの7月頃、かの上杉清方を総大将とする幕府軍が結城城の周辺に集結しはじめます。

それは、関東はもちろん、上州(じょうしゅう=群馬県)武州(ぶしゅう=東京都・埼玉県)に越後や信濃(しなの=長野県)などなど、まさに東国の幕府軍を総動員したほどの大軍であったようですが、対する結城城側だって、すでに持氏恩顧の武将たちが集結していたわけですから、堅固な造りの結城城は、そう簡単に落ちはしませんでした。

長引く籠城戦・・・睨み合いが続く中、幕府側ではいつ総攻撃をかけるべきか?の話し合いが何度も行われますが、何も決定しないままズルズルと時が過ぎるばかり・・・

やがて、年が明けた永享十三年(1441年)元旦には、逆に結城城内から撃って出た兵に陣を襲撃される始末・・・まぁ、さすがに多勢の幕府軍は、襲撃勢を蹴散らして、さほどのダメージを受ける事もなく、この日の戦いは幕府勝利となりますが、さりとて結城城側も、かなりの数の兵士が無事城内に戻ったと見え、態勢が崩れる事無く、そのまま籠城戦は継続されて行きます。

しかし、所詮は多勢に無勢・・・しかも、大軍に囲まれた籠城戦には、時間に限りがあるという物・・・静かなる籠城戦が始まってからほぼ9カ月めの永享十三年(1441年)4月16日幕府方の総攻撃により結城城は陥落し、結城氏朝をはじめとする籠城組の将は、ことごとく討取られました。

この時、未だ13歳の春王と11歳の安王は、女装して城を脱出しますが、まもなく発見され捕縛・・・京都の将軍のもとに護送される途中の5月16日、美濃垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)にて斬首されました(くわしくは2008年2月10日の後半参照>>)

こうして、結城城に集結していた持氏派は、ほぼ一掃され、結城合戦は終結・・・関東の支配は上杉家に任されて安定するか?に見えましたが、おっとドッコイ!

例え配下の者でも、例え謀反など起こさずとも、自身の気にそぐわぬ者は成敗する・・・強気の将軍=義教の、あの一色義貫&土岐持頼殺害事件の余波が、ここに来て表面化するのです。

「このままでは、自分も、いつ始末されるかわからない」
と恐怖を感じた播磨(はりま=兵庫県南西部)備前(びぜん=岡山県東南部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護=赤松満祐(あかまつみつすけ)が、嫡子の教康(のりやす)らに命じ、結城合戦の祝勝会と称して将軍=義教を呼び出し、あの春王&安王の死から、わずか1ヶ月の6月24日、宴会の席で義教を暗殺してしまうのです。

世に嘉吉の乱(かきつのらん)と呼ばれる将軍暗殺事件(6月24日参照>>)・・・このため幕府内の政情は一転し、関東の情勢も大きく変わります。

結城合戦の時、わずか1歳だった持氏の4男=永寿丸(永寿王とも)は、この将軍の死によって赦免され、やがて成長して足利成氏(しげうじ)と名乗り、関東を暴れまわる事になるのですが、そのお話は9月30日のページでどうぞ>>
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2018年4月 7日 (土)

赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本城の戦い

 

長享二年(1488年)4月7日、山名政豊の播磨坂本城を赤松政則が攻めた英賀坂本城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

嘉吉元年(1441年)、播磨備前美作(みまさか=岡山県北東部)守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)であった赤松満祐(あかまつみつすけ)が、時の室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=第6代)を暗殺した嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)・・・

この事件により赤松家は衰退する一方で、満祐を討伐した山名宗全(そうぜん=持豊)は、赤松の旧領を賜って武家のトップクラスに躍り出、その後の応仁元年(1467年)に起きた将軍家や管領家の後継者争いが絡む、あの応仁の乱(5月20日参照>>)でも西軍の総大将を務めました。

Akamatumasanori600 一方、この応仁の乱の時に、東軍の総大将だった細川勝元(ほそかわかつもと)に近づいて功を挙げて復権していた(5月28日参照>>)のが満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)でした。

その後、両総大将の死を受けて和睦交渉し、文明九年(1477年)に応仁の乱を終結させたのは、彼らの息子=細川政元(まさもと=勝元の息子)山名政豊(やまなまさとよ=宗全の息子か孫)でしたが、こうして京都の情勢にかかりっきりになっていた政豊の領国では、更なる領地拡大を狙う政則の動きに加え、一揆などの混乱も起きていたわけです。

それは新たな将軍=足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子・第9代)の静止を振り切ってでも帰国しなければならない状態でした(9月4日参照>>)

政則にしてみれば、もともと赤松家の物だった領地・・・
しかし、政豊にとっては功績の恩賞に先代が貰った領地・・・
それを、うまく采配仕切れない将軍家・・・
こうして出来上がったのが山名VS赤松の戦いの構図でした。

もちろん、実際にはそんな単純な構図ではなく、その混乱に乗じて取って代わろうとする地元の豪族たちも、両者の間に入り乱れて来るわけで・・・

そんなこんなの文明十六年(1484年)、赤松配下の福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)が、山名政豊と組んだ松田元成(もとなり)からの攻撃を受けて陥落してしまうのです(1月6日参照>>)

しかも、この時、赤松政則は福岡城の救援に向かう援軍を浦上則国(うらがみのりくに)に任せ、自身はかつての赤松の所領であった但馬(たじま=兵庫県北部)朝来(あさご)を奪回すべく向った真弓峠(まゆみとうげ=兵庫県朝来市生野町)山名軍とぶつかり、大敗を喰らってしまったのです(12月25日参照>>)

つまり、独自の判断で兵を分散させてしまったために、福岡城も落ちるわ、真弓峠でも負けるわ、という大失態をやっちまったわけで・・・

これに激怒したのが、福岡城への援軍を要請した守護代浦上則宗(うらがみのりむね)でした。

なんせ、この則宗は、守護=政則を守護代としてずっと支えていた人・・・かの応仁の乱の頃は政則は未だ13歳で、一方の則宗は脂の乗った38歳でしたから、冒頭に書いた「応仁の乱キッカケで守護に返り咲いた」てのは、どう見ても若き領主をサポートしていた則宗の功績も大きく、当然、両者の力関係も微妙なわけで・・・

このため赤松家内は分裂し、実権を握った則宗によって、一時的に政則が追放されるという一件も起こりますが、このドサクサに乗じて山名が攻めまくって美作と備前を奪い取って来たため、家臣たちの要望の末、足利義政(よしまさ=第8代将軍)の仲介で政則と則宗は和解・・・協力して山名に当たる事となりました。

確かに・・・内輪モメしてる場合では無いです!

おかげで、文明十七年(1485年)に再び真弓峠でぶつかった時も、翌文明十八年(1486年)に、赤松の拠点の一つである英賀(あが=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)に攻め込まれた時も、見事、山名軍に勝利します。

一方の山名軍は、この敗戦により、保持する城が坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)ほか数ヶ所という窮地に立たされてしまいました。

翌年・・・近江(滋賀県)南部六角高頼(ろっかくたかより)が幕府に刃向かった近江鈎(まがり・滋賀県栗東)の陣(12月13日参照>>)に、赤松は守護代の浦上則宗を、山名は嫡男の山名俊豊(としとよ=後に廃嫡)を派遣中の長享二年(1488年)4月7日赤松政則は、長き抗争に決着をつけるべく、山名政豊を坂本城に攻めたのです。

7日→8日→9日の3日間に渡って行われた戦いで、赤松軍は戦死者を出しつつも勝利し、大いに気を吐きましたが、一方で、これらの城外戦には勝利したものの、城の一ヶ所に集まった山名勢を完全に崩す事ができず、戦いは籠城戦に持ち込まれます。

しかし、この時、一方の坂本城内では、何やらややこしい雰囲気に・・・

『蔭凉軒日録』によると・・・
実は、これまでの一連の敗戦により、山名の中には厭戦(えんせん=戦いに嫌気がさす)気分が漂っており、山名政豊自身も、すっかりヤル気を失っていたのです。

もちろん、未だヤル気満々の者もいました・・・てか、世は戦国ですから、そっちの方が多いくらいです。

特に、山名配下の但馬の国人領主たちが、これまでの犠牲を考えると「むしろ撤退は許され無い事」として猛反対・・・徐々に政豊は城内で孤立していきます。

未だ合戦上等の彼らから、嫡子の俊豊を当主に推す声さえも出始めた7月18日の夜10時頃・・・結局、政豊は、わずかの部下と馬廻りだけを連れて、闇に紛れて坂本城を出奔して但馬に帰ってしまうのです。

さすがの抗戦派も、この政豊のいきなりのトンズラまでは考えていなかったのか?
城内に動揺が走りまくりで、見事に彼らも戦意喪失・・・備後(びんご=広島県東部)からの加勢組も、一人、また一人と去って行きました。

となれば、いずれは坂本城からの山名の完全撤退が・・・と言っても、実はその日付はよくわかっていないのです。
先の『蔭凉軒日録』によれば、かの福岡城に詰めていた山名勢が、政豊の行動を知り、7月20日に、彼らも福岡城も退去したとの事なので、おそらく坂本城からの山名の完全撤退の日付も、その7月20日前後・・・

こうして文明十六年(1484年)の真弓峠に始まった・・・いや、もとはと言えば、あの嘉吉の乱に始まった赤松VS山名の直接対決は、政豊のトンズラで幕を閉じたのです。

まぁ、長い戦いでしたからね~
メンタルが鬼でなければ、戦国を生きてはいけませぬ。

この5年後の明応二年(1493年)、政則は、細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)継室(けいしつ=後妻)に娶り、その弟で、時の権力者である細川政元と縁を深めますが、その結婚生活は政則の死を以って、わずか3年で終了・・・その後の赤松家は、鬼瓦のニックネームも勇ましい新婚の奥さんが守っていく事になりますが、そのお話は【鬼瓦と呼ばれた細川勝元の娘・洞松院】でどうぞ>>
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2018年4月 1日 (日)

秀吉の中国攻め~播磨英賀城の戦い

 

天正八年(1580年)4月1日、織田信長の命で中国攻略中の羽柴秀吉播磨英賀城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

天正元年(1573年)・・・7月に第15代室町幕府将軍足利義昭(よしあき・義秋)槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)に攻め(7月18日参照>>)、翌8月には越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)と、北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月28日参照>>)を倒し、天正三年(1575年)には、甲斐(かい=山梨県)の名門・武田勝頼(たけだかつより)長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)(5月21日参照>>)に破った織田信長(おだのぶなが)・・・

そんな上り調子の信長の目下の敵は、
かつて畿内を掌握していた三好(みよし=三好長慶の一族)相手に戦っていた野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の合戦キッカケで「対信長戦」に参戦して来た(9月12日参照>>)本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が扇動する一向一揆=本願寺門徒との抗争。

長島一向一揆>>に、
越前一向一揆>>と、
各地で起こる一向一揆をせん滅して行く信長でしたが、天正四年(1576年)、その一向宗徒の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦い(6月3日参照>>)で、本願寺側に味方し、まんまと兵糧を運び込んだ(7月13日参照>>)のが安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)でした。

ここに来て本願寺と和睦し、再び北陸に手を出して来た越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)(8月4日参照>>)が東の強敵なら、この毛利は西国一の大大名・・・なんせ、信長に追放された足利義昭も、この頃には、この毛利を頼ってますしね。。。

これは、何とかせねばなりません。

そこで信長は、北陸方面を柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)の平定を明智光秀(あけちみつひで)(10月29日参照>>)当たらせるとともに、すでに赤松則房(あかまつのりふさ)小寺政職(こでらまさもと=黒田官兵衛の上司)などの播磨(はりま=兵庫県南西部)の諸将を味方につけつつあった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)中国地方の攻略を命じたのです。

以来、赤松政範(あかまつまさのり)上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)(11月29日参照>>)や、その支城の福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)、今や「天空の城」として大人気の竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市)(10月23日参照>>)などの西国攻略を進める秀吉でしたが、

その上月城に、当時は毛利配下であった備前(びぜん=岡山県東南部)宇喜多直家(秀家の父)がチョッカイ出したり、味方だと思っていた別所長治(べっしょながはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)で籠城したり(3月29日参照>>)一進一退です。

年が明けた天正八年(1580年)1月にやっとこさ三木城を攻略しますが、この間に上月城が毛利の手に落ち(5月4日参照>>)、守りを任されていた出雲(いずも=島根県)の名門=尼子(あまご)も滅亡(7月17日参照>>)・・・そこで、鉾先を東播磨から西播磨へと向ける秀吉でしたが、

一方で、この三木城籠城戦が続いた、この2年の間に、信長が石山本願寺戦に鉄甲船を出して来たり【(11月6日参照>>)、信長に反発して有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠った荒木村重(あらきむらしげ)が開城させられたり(12月16日参照>>)、逆に反信長の最大勢力だった上杉家が謙信という大黒柱を失い継者を巡って内輪もめ(3月17日参照>>)し始めたり・・・てなアレコレが、その気持ちを変えさせたのか?ここに来て、毛利配下だった宇喜多直家が降伏して(10月30日参照>>)織田に寝返っていたのです。

この直家の寝返りを受けて、毛利が攻撃目標を播磨から美作(みまさか=岡山県北東部)へと変更した事を受けて、一旦、本拠の長浜(ながはま=滋賀県長浜市)に帰還していた秀吉は、再び軍勢を率いて播磨に戻り、閏3月2日には、備前との国境付近に陣を張りますが、この動きを見た毛利方の吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男) は、「秀吉と直家の両方を相手にするには態勢を整えねば!」1度撤退する事に・・・

Hideyosiharimaheiteicc 秀吉の播磨平定・関係図
←クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこで秀吉は、兵を西播磨に戻して、織田から毛利へと寝返った宇野政頼(うのまさより)宇野祐清(すけきよ)父子の長水城(ちょうずいじょう=兵庫県宍粟市山崎)と、三木通秋(みきみちあき)英賀城(あがじょう=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)を攻める事にしたのです。

この英賀という場所は、かつて本願寺の蓮如(れんにょ)上人が播磨での布教活動の拠点とした場所で、当時は英賀御堂(あがみどう)と呼ばれる壮大な伽藍を中心にする本願寺門徒衆の強い土地・・・ここを抑える事は、未だ交戦中の石山本願寺(石山合戦はこの年の8月に終結>>)にも少なからず影響を与えるはず・・・

かくして天正八年(1580年)4月1日秀吉は2万余兵で以って英賀城を攻撃するのです。

ちなみに、この英賀城攻防戦は、
『英城日記』では、「かなり苦戦した秀吉が、和睦交渉で以って内応者を作り、やっとこさ2月13日に落とした」となっているのですが、
『信長公記』では、「はなから戦う気が無かった通秋が、そそくさと舟で逃亡してしまったため、戦闘らしい戦闘もなく4月26日に陥落した」となっています。

アレレ?両者の言い分の食い違いったらww
まぁ誰だって、味方のほうをカッコ良く下記残したいですからね~

そんな中、今回は4月1日の日付で書かせていただきます。

というのは、直家宛ての秀吉の書状に
「英賀城の八町(約900m)西に土塁が築かれていたのを4月1日に奪取してぶっ壊したった」と自慢げに報告しいるので・・・もちろん、これも自分をカッコ良く書いてるのかも知れませんが、何たってご本人の書状なので、とりあえず、今の所は1番確かな事ではないかと・・・

これに対し、英賀側では、やはり
「英賀が落ちたら、石山本願寺もタダでは済みまへんで!」
と、本願寺方の下間頼廉(しもつま らいれん=石山本願寺の坊官)雑賀(さいが・さいか)による300~500挺の鉄砲隊を援軍として派遣してくれるよう要求しています。

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秀吉の英賀城攻略図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一方、上記の通り、4月1日に英賀城の土塁を破壊して西の丸を奪取した秀吉方でしたが、英賀城は東西に二つの川が流れ、南は播磨灘に面した湿地帯という自然の要害の地・・・容易に攻められる物ではありませんでした。

そこで秀吉は、陸上ではなく、船で海上から奇襲をかける作戦を実行・・・フイを突かれた英賀城内は大混乱に陥り、この時の戦いで800人以上の戦死者を出してしまって、あえなく陥落します。

城主の通秋は、落城の混乱のさ中の4月24日・・・舟で城を脱出し、海路で九州へと落ちのびたという事です。
(フムフム…ここは『信長公記』と一緒ですな)

史料によって少しずつ内容が違うので、未だ謎多き英賀城攻めですが、この英賀城と長水城長水城攻防戦は2015年4月25日参照>>)を落とした事で、秀吉の播磨平定は一応完了・・・信長の命による西国攻略は次の段階へ進む事になります。
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