賤ヶ岳で敗れ~「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期
天正十一年(1583年)5月12日、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた佐久間盛政が処刑されました。
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佐久間盛政(さくまもりまさ)は、織田家の家臣であった佐久間盛次(もりつぐ=佐久間信盛の従兄弟)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)で生まれました。
父の盛次が永禄十一年(1568年)の記録を最後に姿を消す事から、おそらく、それから間もなくに父が亡くなったとみられますが、母が、柴田勝家(しばたかついえ)の姉もしくは妹だったという事で、以後、叔父の勝家を父とも頼み、その傍らで勇猛な武者に成長していくのです。
おそらく父が亡くなったとおぼしき永禄十一年(1568年)・・・主君と仰ぐ織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)を阻む、南近江(滋賀県南部)の六角承禎(じょうてい・義賢)との観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)の戦い(9月15日参照>>)にて15歳で初陣を飾った盛政は、
信長大ピンチの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市金ヶ崎町)からの撤退(4月27日参照>>)時に勝家の大手柄となった野洲川(やすがわ=滋賀県)の戦い(6月4日参照>>)でも大いに活躍した事でしょう。
なんせ、その体格は六尺(182cm)という当時としてはかなりの大柄で、、勝家が北陸方面の攻略担当となり、越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を平定し(8月12日参照>>)、越前8郡を与えられた天正三年(1575年)頃には、役職名の玄蕃允(げんばのじょう)に由来する『鬼玄蕃(おにげんば)』なる通り名で、その名を轟かせていたのだとか・・・
天正五年(1577年)には南下して来た越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と戦い(9月18日参照>>)、その後、天正八年(1580年)、100年続いた加賀一向一揆を、勝家とともに壊滅させた
【金沢御坊の落城】参照>>
【鳥越城の戦い】参照>>
時には、その功績によって加賀(かが=石川県西部)半国を与えられ、金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)を築城し、その城主となりました。
時に盛政=27歳・・・叔父=勝家の配下として、最も将来を期待される存在となっていました。
その後、越後の謙信の後を継いだ養子の上杉景勝(かげかつ)と抗戦する中、もはや、越後の制圧は時間の問題と見えた魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)陥落(6月3日参照>>)の翌日、2日遅れで、京都は本能寺(ほんのうじ)にて信長が自刃した(6月2日参照>>)事を知るのです。
「天正十年(1582年)6月2日、信長死す」・・・この情報は、ほどなく敵陣にも知られる事となり、意気上がる上杉軍が、越中(えちゅう=富山県)や能登(のと=石川県北東部)の国人たちを扇動してかく乱して来たため、容易に上洛できなかった勝家ら・・・
その後、何とか少しずつ撤退した勝家は、富山城(とやまじょう=富山県富山市)主の佐々成政(さっさ なりまさ)、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)主の前田利家(まえだとしいえ)、そして金沢城主の盛政に、それぞれの防備を固めさせ、自らは養子の柴田勝豊(しばたかつとよ=勝家の甥・盛政の母の姉の子)らを先鋒に上洛し、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討つ・・・はずでしたが、
ご存じの通り、電光石火の早業で、西国から舞い戻った(6月6日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、あの山崎の合戦で光秀を討ち破ってしまった(6月13日参照>>)ため、勝家ら北陸勢は、空しく矛を収めるしかありませんでした。
しかも、その後の清州会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)での後継者決めでも、何となく仇討ちを成功させた秀吉に主導権を握られた感が拭えない感じ???
まぁ、実際には時代劇や小説で描かれるようなドラマチック感はなく、
(後継者は、信長次男の信雄(のぶお・のぶかつ)か三男の信孝(のぶたか)か?と争う中で、秀吉が信長の孫の三法師(さんほうし=織田秀信)を抱いて登場して、皆がハハァとひれ伏すみたいなあの場面の事です)
すでに織田家の家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)が信長とともに亡くなった以上、その遺児である三法師が、幼いとは言え嫡流として後を継ぐのは至極当然の事・・・その中で、信孝は三法師の後見人になるわけですから、信孝を推していた勝家としては、むしろ納得の結果だった事でしょう。
まぁ、領地配分で京都に近いえぇ位置を秀吉に持ってかれたしまった感はありますが、それこそ、光秀を倒したのは秀吉ですから、その領地をモノにするのは当然と言えば当然・・・
ただ、信長の死から4ヶ月後に、秀吉主導で行った、あの派手々々葬儀(10月15日参照>>)には、やはり信孝&勝家はカチンと来たかも・・・なんか、「これからは俺が仕切るで!」感強いですもんね~
こうして、ともに父の後を継ぎたい信雄VS信孝・・・そこに、仕切る感満載の秀吉VS家臣筆頭で信孝推しの勝家という対立の構図が生じ、ご存じの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへ突入という事になります。
この時、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に本拠を持つ勝家が雪で動けない冬を見据えた秀吉は、まずは天正十年(1582年)12月、柴田勢の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を開城させた(12月11日参照>>)後、信孝の本拠である岐阜方面へ・・・さらに、信孝の味方となっている滝川一益(たきがわかずます)の守る伊勢(いせ=三重県)にも転戦します(2月12日参照>>)。
明けて天正十一年(1583年)、春の訪れとともに、ようやく勝家らが出陣し、余呉湖(よごこ=滋賀県長浜市)の北まで進出・・・この時、盛政は、勝家が本陣とした玄蕃尾城(げんばおじょう=福井県敦賀市刀根・内中尾山城)の前方(南側)に位置する行市山(ぎょういちやま=滋賀県長浜市余呉町)に砦を築き、ここに布陣しました。
一方の秀吉も、柴田勢の動きに合わせ長浜城に入り、両者、一触即発の睨み合い状態となりますが、この間にも、一旦押さえた美濃(みの=岐阜県)の地が、信孝と結託した一益に襲撃され続けていたために、秀吉は、再び美濃へ・・・(くわしくは3月11日参照>>)
これをチャンスとみたのが盛政でした。
「秀吉のいない間に、この余呉湖周辺に展開した羽柴勢の諸将の砦を潰してしまおう!」と・・・
敵方の砦のうち、大岩山(おおいわやま)と岩崎山(いわさきやま)の砦が手薄になっている事を調べ上げた盛政は、早速、この二つの砦に奇襲をかけたい旨を勝家に申し出ますが、この作戦は、敵の懐深く入る事から、かなり危険・・・勝家は反対しますが、盛政の決意は固く、やむなく勝家は、「砦を落としたら、速やかに陣に戻って来る事」を約束させて送り出します。
賤ヶ岳の戦いの経緯↑ 画像をクリックすると、大きいサイズで開きます (このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません) |
天正十一年(1583年)4月20日・・・さすがの盛政は、見事、砦を落として勝利しますが、ここで、その勇猛さが裏目に出てしまいます。
どうしても、もう一つ、この勢いの冷めぬまま・・・明日の朝一で、すぐ目の前の賤ヶ岳砦を落としておきたい盛政は、勝家との約束を破って夕方になっても本陣へと戻らず、占領した大岩山砦にて一夜を明かすのです(くわしくは4月20日参照>>)。
そこに、あの本能寺の時と同様に、電光石火の早業で美濃から戻って来る秀吉・・・日付が変わった4月21日の午前0時、まさかまさかの南からやって来る秀吉軍の松明の列に気づいた盛政は、後方の飯浦(はんのうら)の切通しに陣取っていた柴田勝政(盛政の弟で勝家の養子)に撤退命令を出すとともに、自軍もすかさず撤退を開始します。
おかげで盛政隊は、ほぼ無傷で撤退に成功しますが、勝政は討死・・・それでも、まだ挽回のチャンスはありましたが、ここで、そのチャンスを砕くように、勝家本隊の近くにいた前田利家父子が戦線離脱してしまうのです(くわしくは4月23日参照>>)。
反撃を開始しようとした矢先の撤退劇に、北陸勢全体のバランスが崩れ、態勢は一気に敗色へ・・・やむなく勝家は、家臣の毛受勝照(めんじょう・めんじゅかつてる)に後を託して北陸方面へと敗走し、盛政も、それに続きます(くわしくは4月21日参照>>)。
その後、勝家は本拠の北ノ庄城まで戻る事ができましたが、盛政は、敗戦のその日、加賀へ戻る途中の越前にて捕えられてしまうのです。
そして、皆様ご存じのように、その後、秀吉軍に北ノ庄城を包囲された勝家は、敗戦から3日後の4月24日、自ら城に火を放ち、妻のお市の方(信長の妹もしくは姪)とともに自害(4月23日参照>>)・・・勝家が推していた信孝も、兄の信雄に攻められ、5月2日に自刃しました(5月2日参照>>)。
(ちなみに滝川一益は7月に降伏して出家します)
そんなこんなの5月7日、生け捕られた盛政は、秀吉の前へと引き出されます。
大きな体格に、いかにも武勇誇る姿の盛政を目の前にした秀吉は、
「君の強さは噂に聞いてるで…どや?この先、九州を平定したら、お前に、そのうちの一国を与えるよって、俺の配下になれへんか?」
と、誘いますが、盛政は、冷やかに笑いながら、
「ウレシイお言葉ですけど、僕を助けて国を与えなんぞしたら、僕は秀吉さんを、今の僕のように生け捕りにして、縄をかけるでしょう。
いくら新たな恩を与えられても、その前に柴田の叔父から与えられた恩を忘れる事はできませんので…」
と言い、「速やかに殺してくれ」と願います。
「ならば、せめて武士らしく切腹を…」
と言うと、盛政は
「願わくば、大紋を染め抜いた紅裏(もみうら=真紅の裏地)の小袖(こそで)に、香を焚き込めた白帷子(かたびら=麻の着物)を賜りたいです。
それを着て人生最期の風流を尽くしたいんです」
と、続けて
「ほんで、縄を打たれた姿で市中を引きまわして、市民に見せびらかしたなら、秀吉さんの名も挙がりますし、それこそ、僕の一世一代の晴れ姿ですわ」
と、罪人として斬刑に処せられる事を願ったのです。
かくして天正十一年(1583年)5月12日、京市中を車で引き回された後、宇治槙島(まきしま=京都府宇治市槇島町)にて斬首されるのですが、その時、検使役(けんしやく=検視する役人・見届人)として同席していた浅野長政(あさのながまさ=秀吉正室・おねの義弟)を前に、
「叔父の進言を聞かずに、このような結果になってしもうたわけやけど…あの猿面郎(さるめんろう・えんめんろう=サル顔の奴)を倒せんかった事だけが、ただ一つ悔やまれる」
その言動に、長政が怒ると、
「君らに武士の志として言い聞かしとくけど…
あの頼朝(よりとも=源頼朝)さんは、一旦捕まって流罪の身になりながらも諦める事無く、ついには平家を倒して父の仇を討ったんや(2月9日参照>>)。
これこそが、大将の志や!
あぁ、気の毒に…その事を、お前は知らんのやな」
と吐き捨てるように言いながら顔をあげ、長政をキッと睨みつけたのだとか・・・
京都市中からここまで、派手々々衣装で引き回されて来たおかげで、この処刑の場にも大勢の見物人が集まって来ていましたが、それらの人々から
「おぉ!」「あっ晴れ」「さすが、噂の剛の者!」
と、次々に声が挙がったにだとか・・・
その後、辞世の和歌を詠じる時も顔色一つ変えず・・・平然と斬首されたという事です。
♪世の中を 廻りも果てぬ 小車は
火宅の門を 出づるなりけり ♪ 盛政辞世
享年=30・・・
いやぁ~カッコイイ(゚▽゚*)
最期のシーンは、豊臣が滅んだ後に書かれた複数の軍記物等の記述を統合した物なので、話半分な所はありつつも・・・やっぱりカッコイイ!
近代の出来事だと、人の生き死に関わる事について、あれやこれや考えてしまい、素直に表現しづらいのですが、現代とは、価値観もまったく違う戦国の世の事ですから、ここは一つ素直に「カッコイイ~」という事で、お許しを・・・
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コメント
さすが日本の郭嘉だな。思慮深さが郭嘉の再来だ❗
投稿: 松葉浩弘 | 2018年5月14日 (月) 18時49分
松葉浩弘さん、こんばんは~
佐久間さんは日本の郭嘉と言われているのですか?
恥ずかしながら、私は中国の歴史にはくわしくないですが、曹操に仕えた軍師だとか…
なるほど、です。
投稿: 茶々 | 2018年5月15日 (火) 01時57分
佐久間兄弟はいずれも剛者ぞろいです。
なかでも長兄の盛政はさすがと言えますね。
投稿: | 2018年5月27日 (日) 10時11分
そうですね~
家康の時代まで生き延びていたら、どうなっていたでしょうね。
投稿: 茶々 | 2018年5月27日 (日) 18時03分
こんばんは。久し振りにお邪魔しております。
佐久間盛政だけではなくて、戦国の世に生まれた彼らはきっと“どのように死ぬか”と言うことも考えていたんだろうなぁと思います。明日は我が身の戦国時代ですから。
“どのように自分を良く見せるか”と考えてる今の政治家様達に知ってほしい限りです。
…明らかに私より詳しいんでしょうが汗
投稿: 佐賀のモン | 2018年7月 5日 (木) 22時17分
佐賀のモンさん、こんにちは~
そうでしょうね~
おっしゃる通り、死と背中合わせの時代ですから、名を残せる死に方、後につながる死に方、なんかも考えていたのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2018年7月 6日 (金) 12時03分